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第30話 狙われる神都市

 神都市アルシエルがハルガルドの圧政から解放されて、一週間が過ぎた。

 マリエールの迅速かつ的確な指示により、街には驚くべき速さで活気が戻りつつあった。

 至る所で炊き出しの煙が立ち上り、かつては物陰で震えていた子供たちが、今は路地を駆け抜け、その笑い声が石畳に響いている。


 そんな中、王都からは一つの重大な決定が届いた。

「アルベール王自らがこの地を訪れ、正統なる戴冠の儀を執り行う」というものだ。

 歴代の王家にとって、このアルシエルで教皇から冠を授かることこそが、真の王として認められる唯一の慣わしであった。

 しかし、長年この地が敵国の占領下にあったため、アルベール王はその儀式を行えずにいたのだ。

 一部の心無い民の間では「戴冠式も済ませていない、仮初めの王」と揶揄する声さえあったが、今回の奪還によってようやく、王権の正統性が証明されようとしていたのである。


 だが、祝祭ムードに沸き返る周囲とは対照的に、マリエールの心は、薄氷を踏むような冷たい予感に支配されていた。


(……思い出した。一週間後、この街を奪い返すために、西方三都市に駐留していた敵の主力二万が、怒涛の勢いで押し寄せてくる。……あの『カサンドラ平原』が、再び赤黒い血で染まる時が来るんだわ)


 前世の忌まわしい記憶が、彼女の脳裏で激しく警鐘を鳴らす。

 かつて十七歳だった彼女は、戦略も何もなく、ただ一万二千の兵を率いて平原で敵と正面衝突した。

 数日間にわたる凄惨な殺し合いの結果、双方の兵力の八割を失い、大地は騎士たちの骸で埋め尽くされたのだ。

 あの時、死にゆく兵士たちの虚ろな瞳が、彼女を責めるように見つめていた光景が、今もまぶたの裏に焼き付いて離れない。


「皆、聞きなさい。……たった今、神の啓示がありました」


 教皇庁の軍議室。

 マリエールの凛とした、しかしどこか切迫した声が響き、地図を囲んでいた将軍たちの動きが止まった。


「敵の増援がこちらへ向かっています。西方三都市から、およそ二万。彼らの狙いは、戴冠式を目前に控えたこのアルシエルの再占領です」


 マリエールの言葉に、室内の空気は一瞬で凍りついた。

 将軍たちが顔を見合わせ、ざわめきが広がる。


「二万だと!? ……しかしマリエール様、我々が放っている斥候からは、まだ何の報告も上がっておりませんが……。西方主力がいきなり動くなど……」


 驚きを隠せないアンリを、マリエールは確信に満ちた瞳で制した。


「来ます。間違いありません。……彼らはカサンドラ平原を通り、背後からこの街を包囲するつもりです。……報告を待っていては手遅れになります。先手を打ち、あの平原で敵を迎え撃ちます。……ただし、無謀な正面衝突はしません。力でねじ伏せるのではなく、犠牲は最小限で勝つのです」


 その言葉に、誰もが息を呑んだ。数に勝る敵を相手に「犠牲は最小限で勝つ」など、常識では考えられない。だが、その静かな、それでいて絶対的な自信を感じさせるマリエールの横顔に、一人の男が深く頷いた。


「……マリエール様がそう仰るなら、それは天が示した真実に他なりません」


 第一軍団長レオンハルト・ド・ロランジュだった。

 彼は立ち上がると、腰の剣の柄に手を当て、力強くマリエールを見つめた。


「我ら第一軍団、貴女の指し示す地へ、いつでも出陣する準備はできております。神の啓示を現実に変えるのが、我ら聖女騎士団の務めですから」


 レオンハルトの真っ直ぐで、射抜くような視線。

 マリエールは、ふと自分の頬がカッと熱くなるのを感じた。

 心臓が跳ね、視線を泳がせそうになるのを必死に堪えながら、彼女は再び地図に目を落とし、各軍勢の配置を矢継ぎ早に指示し始めた。


 軍議を終えると同時に、マリエールは王都へ向けて緊急の早馬を飛ばした。


『陛下。神託により、ハルガルド軍の西方主力二万がアルシエルを狙い進軍中との確信を得ました。戴冠の儀を挙げる前に、この脅威を根絶する必要があります。……大至急、出陣の許可を。此度の戦、神の加護のもと勝利して見せます』


 決意を込めた書状を送り出し、マリエールが独り大きく息を吐いた時だった。


「マリエール様。……あまり、ご無理をなさらないでください」


 背後からかけられた声に、肩が震える。準備のために部屋を出ようとしたレオンハルトが、扉の前で足を止め、こちらを振り返っていた。


「貴女の背後には、聖女騎士団と七つの軍団がついています。重圧に押し潰される必要はありません。……そして、私の二本の剣も、貴女を守るためにこそあります。貴女の不安も、苦しみも、すべて私が共に背負いましょう」


「レオンハルト様……」


 その瞳に宿る、言葉以上の深い献身。

 マリエールが何かを言いかける前に、彼は爽やかな笑みを浮かべて続けた。


「貴女が流すべきは血ではなく、勝利の後の祝杯の涙です。……行きましょう。この地に、今度こそ真の平和を刻むために」


 彼が去った後、マリエールは自分の高鳴る鼓動を抑えるように、強く胸に手を当てた。

 前世の自分が決して知ることのなかった、誰かに守られ、支えられているという感覚。

 それが、彼女の足元に確かな力を与えていた。


(……そうね。私には、未来を知る呪われた知識だけじゃない。今世で手に入れた、代えがたい絆がある。……カサンドラ平原を、二度と地獄にはさせない。……あそこに、私たちの希望を刻むのよ)


 十四歳の聖女は、かつての自分の亡霊を振り払うように、力強く一歩を踏み出した。

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