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第22話 聖女の異変

 東の巨大要塞『ポルト・オリエント』。

 そこには、レヴィオン王国を震え上がらせてきた帝国七千の精鋭たちが、揺るぎない自信と共に立てこもっていました。

「南の砦からじきに援軍が来る。この堅牢な三重の堀と、巨人が積み上げたと言われる石壁さえ守り抜けば、王国の軍勢など袋の鼠だ」


 彼らはまだ、知る由もなかったのです。

 南の要衝が、マリエールという名の少女の「一振り」によって、わずか四十五分で灰燼に帰したという戦慄の事実を。

 届くはずのない助けを待ちわびる彼らの傲慢を、マリエールは静かに、そしてどこか哀れむように見つめていました。


 マリエールは愛馬を降り、ただ一人、深い堀のふちに立ちました。

「……降伏すれば、命は助けましょう。これ以上の無益な血は、海を汚すだけです」

 凛とした、けれどあまりにも細いその声に対し、返ってきたのは前回よりもさらに苛烈な罵声と、空を覆い尽くさんばかりに降り注ぐ矢の雨でした。


「うるさい小娘だ! 矢に射抜かれて死に晒せ!」


 マリエールは静かに右手を掲げました。

 すると、彼女の手のひらから零れ落ちるように、純白の輝きを放つ『ウリエルの剣』が顕現します。

「……そうですか。ならば、その誇りごと、眠りなさい」

 剣を一閃。

 その動作は、まるで舞踏の終わりのように静かで、優雅なものでした。



 刹那、世界から音が消えた。

 巨大な物見櫓を内包する分厚い城壁が、巨大な目に見えない刃に撫でられたかのように、斜め四十五度に切り裂かれたのだ。

 一瞬の静寂の後、遅れてやってきたのは大地を激しく揺らす雷鳴のような轟音。

 百五十メートルを超える幅で、石積みが連鎖的に崩落し、深い堀を飲み込みながら、要塞の心臓部へと続く道が瞬く間に平地となって現れたのです。


「突撃! 聖女様に続けッ!!」


 ガストンの叫びと共に、雪崩のように騎士団がなだれ込みました。

 しかし、将軍たちの視線は、戦場の中央に立ち尽くすマリエールの背中に、まるで釘付けにされたかのように止まっていたのです。

 マリエールは、剣を振るっただけで戦っていないはずでした。

 なのに、彼女は激しく肩を上下させ、苦しげな呼吸を繰り返していた。

 天使を模した白革の鎧が、その浅い呼吸に合わせて痛々しく波打っています。


「マリエール様! ――っ、お顔が!」


 駆け寄ったガストンが、彼女の顔を覗き込んだ瞬間に息を呑んだ。

 その肌は、白革の鎧よりも透き通るほどに白く、薔薇色だったはずの唇からは、見る影もなく生気が失われていたからです。


「マリエール様! しっかりなさってください!」


「……ええ、大丈夫、です。ただ、少し……」


 ガストンの叫びに、第三将軍ロラン、第五将軍アンリも血相を変えて駆けつけました。

 彼らが見たのは、神の力を振るう代償として、自らの命そのものを火にくべて削り取られているかのような、今にも消えてしまいそうな少女の姿でした。

 軽い病さえ死に至ることが珍しくないこの時代。

 彼女が背負う奇跡の重さが、どれほど過酷で、残酷な契約の上に成り立っているのか。

 将軍たちは、その時初めて悟ったのです。


(マリエール様は……このお方は、重病の患者と言われても信じてしまうほどの疲弊を隠し、文字通り命を削って、我らを、この国を救おうとしているのだ)


 四十六分後、要塞は陥落しました。

 けれど、勝利に沸く騎士は一人もいませんでした。

 砦の奥、急ぎ設営された天幕の中で、何枚もの厚手の毛布にくるまり、老ピエールに介抱されながら浅い眠りについたマリエールの姿を、将軍たちは遠巻きに、祈るような沈黙で見守っていました。


「……我々は、情けないな」


 アンリが、握りしめた拳を白くなるほど震わせながら、絞り出すように呟きました。

「彼女一人がすべてを背負い、あのような無茶を……。我々将軍は、一体何のために剣を持ち、兵を率いているのだ」


 ガストンは何も言わず、ただ自分の斧槍の柄を、ミシミシと音が鳴るほどきつく握りしめていました。 

 その目には、後悔と、そして煮え滾るような決意の炎が宿っている。

 マリエールへの忠誠は、今、彼らの中で単なる「神の奇跡への心酔」から、彼女の命を守り抜くための「マリエールへの苛烈な献身」へと姿を変えたのです。


「……もう、マリエール様には剣を振らせない。次からは、我らが死物狂いで道を切り拓くのだ。あのお方の命を、これ以上削らせてはならん」


 彼らの瞳には、かつてないほど鋭く、決死の光が宿っていました。

 眠りの中、マリエールは夢を見ていました。  

 それは前世で味わった火刑台の恐ろしい熱さではなく、今、彼女を包み込む騎士たちが心に灯した、静かで、けれど絶対に消えない熱い誓いの気配であったのです。

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