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第2話 泥濘の目覚め

 頬を打つ冷たい雨の感触で、マリエールはゆっくりと意識の混濁から浮上した。


「……生きている? 私は、まだ……」


 肺の腑に吸い込んだのは、焦げ臭い煙ではなく、湿った土と家畜の匂いが混じり合う、むせ返るような生気だった。

 意識が戻った場所は、あの忌まわしい火刑台でも、光溢れる天界でもない。

 レヴィオン王国の最果て、貧しい農家の一角であった。


 今の自分は、王国の財を食いつぶした悪女でもなければ、処刑を待つ罪人でもない。

 ただの農家の三女、マリエール。

 前世の記憶を必死に手繰り寄せれば、今日は人生の転換点となった、あの「啓示」の日だと思い至る。


(あの時の私は、嵐の去り際にたまたま現れた彩雲を見て、天が自分を祝福しているのだと無邪気に信じ込んでしまったわ……)


 万能感に酔いしれ、特別な存在になれると確信した、愚かな少女時代。


(ただのありふれた自然現象を、神の声だと偽って……。いいえ、自分すらも騙していたのね)


 だが、今の自分は違う。

 あの業火の中で魂に刻まれた、大天使ウリエルの重厚な声。

 そして今もなお、右手の奥底で脈動し続けている得体の知れない熱。

 あれは決して、死の間際に見せた脳の悪戯などではない。

 確信にも似た予感に突き動かされ、彼女は立ち上がったのです。


 マリエールは家族の目を盗むようにして、ずぶ濡れのまま村外れの深い森へと向かった。

 茨が肌を裂き、泥が足元をすくう。

 だが、彼女の足取りに迷いはなかった。

 もしこの手に何も宿っていなければ、自分はただの狂った娘として一生を終えるだけだ。

「……ウリエル様、どうか。私に、贖罪の力を」

 心の中で叫ぶように願う。

 すると、彼女の右手に純白のエネルギーが収束し、周囲の空間を震わせながら、一.四メートルの光輝く『ウリエルの剣』が音もなく顕現した。

 その神々しいまでの美しさに、マリエールは一瞬、呼吸を忘れた。

 彼女は、目の前にある大人三人がかりでも抱えきれないほどの大樹の幹を見据え、その白銀の刃を横一閃に振り抜いた。


 しかし――。


「え……?」

 手応えは、あまりにも皆無だった。

 まるで、実体のない空気を振ったかのような感覚。

 剣は大樹の芯を確実に通り抜けたはずなのに、分厚い樹皮には傷一つ付いていない。

 直後、手の中の光は淡く霧散し、指先から熱が失われていく。


「なーんだ……。やっぱり、切れないじゃない……」


 マリエールは、がっくりと肩を落としてその場に膝をついた。

「……そうよね。あんな地獄のような場所で、神様が私みたいな女を助けてくれるはずがないわ。私はどこまでもおめでたい、夢見がちな女……」


 期待が大きかった分、胸を刺すような落胆が涙となってこぼれ落ちそうになる。

 彼女が自嘲気味に笑い、諦めて村へ戻ろうと背を向けた、その刹那であった。


 ズ、ズズ……。


 背後で、心臓を直接揺さぶるような、不気味な地鳴りの音が響く。

 驚いて振り返ったマリエールの瞳に映ったのは、信じがたい光景だった。

 先ほどまで微動だにしなかった大樹が、彼女の振るった剣の軌道に沿って、ゆっくりと、滑るようにズレ始めていた。

 

 あまりにも切断面が鋭利であったため、大樹は己の重みだけで均衡を保っていたに過ぎなかったのだ。

「うそ……、ああっ!?」

 自重で均衡を失った数トンの巨木が、逃げ場のないマリエールの方へと倒れ込んでくる。


 死を覚悟した瞬間、反射的に彼女が左手を掲げると、そこには薄い青みがかった透明なエネルギー体が展開された。

 それは、サファイアの結晶を極限まで透かしたような、あるいは世界のことわりそのものを凝縮したような、この世のものとは思えぬほど美しい半透明の半球。

 

『ウリエルの盾』。


 轟音と共に、大樹の幹が盾へと激突する。

 しかし、衝撃波すらマリエールには届かない。

 盾に触れた巨木は、目に見えない絶対的な断絶に阻まれ、彼女の周囲を避けるようにして粉々に砕け散っていった。

 その光景は、荒れ狂う嵐の中に現れた、唯一の平穏な聖域そのものでした。


「……おい、信じられるか。あの、青い光は何なんだ」

 その異様極まる光景を、数十メートル先の茂みから、文字通り「凝視」している者たちがいた。

 

 狩猟の最中に嵐に見舞われ、森で足止めを食っていたリュシアン王家の王子クロヴィスと、その側近たちである。

 彼らは、一部始終を目撃していた。

 あどけない農家の少女が、手にした「光」で一太刀も浴びせずに大樹を断ち、倒れくる死の重圧を、天上の色を帯びた障壁で防ぎきったその姿を。

 それは魔法や魔術などという言葉では説明のつかない、紛れもない「神の奇跡」であった。

 クロヴィスは、茂みの中で震える声を押し殺しながら、憑かれたように呟いた。

「……見ろ。あの透明な輝き、そしてあの力。間違いあるまい。……あれこそが、この国を救うために遣わされた、本物の『神の使い』だ」


 王子の瞳には、少女への深い畏怖と、狂信的なまでの期待が宿り始めていた。


 こうして、マリエールの意図せぬところで、二度目の人生の歯車は猛烈な勢いで回転を始めたのです。

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