第七話
「なあ、氷室さん」
「雪花と呼んでください」
「……雪花」
名を呼ばれただけで、雪花は満足そうに目を細めた。
二人は山奥へと進んでいく。
手を固く握り合う姿は誰がどう見ても仲睦まじい恋人同士である。
「そんな簡単に、人間はやめられるものなのか?」
「大丈夫ですよ。意外と簡単なんです」
一拍置いて、雪花は付け加える。
「……私がやるのは、初めてですけど」
「おいおい、不安だな」
山の奥へ進むにつれ、空気がひどく澄んでいく。
人の気配はとうに途切れ、聞こえるのは二人の雪を踏みしめる音だけだ。
「……本当に、俺は人間ではなくなるんだな」
煉司が呟く。
恐怖ではない。ただ、確認するような声音だった。
「怖かったら、今なら引き返せますよ」
雪花は最後の確認を行う。
それは決して優しさなどではなかった。
「俺を一人にする気か?」
煉司が苦笑を浮かべると、雪花は笑みを返す。
「ふふ、冗談ですよ」
その笑みには、雪女特有の仄暗さと、確かな歓喜が混ざっていた。
「ずっと、一緒です」
冷たい指先が、煉司の胸に触れる。
鼓動はまだ、確かに人間のものだった。
けれど、それも――もうすぐ終わる。
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その山には、昔から化物が暮らしているという。
男一人で足を踏み入れれば、その化物が襲って食べてしまうと、まことしやかに囁かれていた。
しかし、そんな逸話も年月が流れと共に忘れ去られて、ただの怪談話となる。
だから、その山で暮らそうとしていた物好きな男が姿を消した時も、吹雪に巻き込まれて死んだのだとしか思われず、ろくに捜索もされなかった。
その山の奥で寄り添って生きる二つの影のことを、知る者は誰もいない。




