第六話
男が嫌いだった。
生きていた頃からずっと。
雪花は生まれたのは山間部の村であった。
外部との交流が少ないその村は閉鎖的で、いつも暗い雰囲気に包まれていたことをよく覚えている。
そんな村で、雪花は生まれた。
幼い頃からその美貌ゆえに、多くの男たちの視線を集めていた。
やがて成長し彼女の体が女性的になるにつれ、その視線はより執拗に、より粘着質なものへと変わっていった。
男たちの下卑た笑い声と伸ばされた手に背筋が凍るような感覚が走り、親に助けを求めるが、「勘違い」「刺激する方が悪い」といって取り合ってくれない。
村の女たちも雪花への妬みと厄介事に巻き込まれまいと見て見ぬ振りをする。
誰にも守られず、誰にも助けてもらえず、そんな毎日に心は擦り切れていったが、それでも逃げる勇気はなく、一人耐えていた。
しかし、その忍耐が報われることはなかった。
ある日、村の男たちが複数で雪花を襲おうとしたのだ。
間一髪のところでその場は切り抜けたものの、逃げ切れるわけがないことは明らかであった。
だから、雪花は雪が降り積もる山へと逃げ込んだのだ。
男たちは、どうせすぐに戻ってくると高をくくっていたようだが、彼女にはそのつもりがなかった。
案の定、雪で体温は奪われ、息を吸い込む度に肺が刺すように痛み出す。
やがて力尽き、地面に倒れ込んでも山に入ったことへの後悔はなかった。
遠ざかる意識の中で、雪花は確かに安堵をしていたのだ。
(ああ、でも……せめて……誰かに愛されて、みたかった……)
意識が消える僅かな瞬間、小さな未練が雪花の胸をかすめたが、それも命と一緒に消えていった。
本来ならこれで雪花の話はこれでおしまい。
彼女という存在は、雪の下で冷たく朽ち果てて消えるだけであるはずだったのだ。
何がどうして、などという理屈はわからない。
けれど、雪花は再びまぶたを開ける。
その体はすでに冷たく、雪を降らせる力を手に入れていた。
そう、彼女は雪女になっていたのだ。
■■■
「ん……」
目を覚ますと、ここ数日で見慣れた天井が目に入る。
(……ああ、そうだ。私、倒れたんだ……)
雪花は気を失う前のことを思い返す。
倒れた原因には心当たりがあった。
恐らく、吹雪を長時間降らせすぎたのだ。
(こんなに長く雪を降らせたのは初めてだったから、知らなかった……)
いつもなら、こう何日も降らせたりしない。
大体、一日か二日で終わっていた。
それぐらいで、男を殺していた。
雪女になってから、どれほどの時間が過ぎたのか彼女自身にもわからない。
意識を取り戻した雪花が真っ先に行ったのは、生まれた村に吹雪を降らすことであった。
ほとんどの村人は寒さで凍え死に、生き残った数人は村を捨てて逃げていき、村はあっという間に滅んだ。
それからは大人しく山で暮らしていた雪花だが、時折山に誰かが入り込むことがある。
大抵の相手はそのまま何にもしないが、男でかつ一人でいる時は近づく。
すると男は雪花の美貌に惹かれ、手を出そうとするのだ。
そして、そこを雪花が殺す。
こんなことをしても、なんの意味もないとわかっているのに、それを繰り返してしまう。
どうしてそんなことをするのか、雪花にも当初はよくわからなかったが、だんだんと自分の真意が見えてきた。
ようは、怖いのだ。男という存在が。
だから、縄張りである山に入られれば警戒するし、動向を探る為に近づくし、油断を誘って殺すのだ。
さらに言えば、相手を誘惑するのはあちらから襲ってきたんだという大義名分を手に入れるためでもある。
自分がここまで醜悪だとは思いもしなかったが、それでも行動を改めることはしなかった。
そんな中で、煉司と出会ったのだ。
最初はもちろん殺すつもりだった。
彼がほんの少しでも下心を見せたのならば、迷うことなくその体を氷漬けにしただろう。
だが、煉司はそんなことをしなかった。
それどころか、ずっと雪花を気づかい、尊重してくれたのだ。
そんなことをしてくれたのは、彼が初めてだった。
雪花が最初に感じたのは戸惑いである。
彼女にとって男とは、身勝手で欲深い存在でしかない。
それなのに、それに当てはまらない煉司にどう対処してよいのか、雪花は思い悩んだ。
化けの皮を剥いでやろうと誘惑するも、これも失敗。
そこでようやく、煉司は今までの男たちとは違うのかもしれないと、思えた。
そして、この状況が終わってしまうのを惜しんだ。
「煉司さん……」
ぽつりと彼の名前を口にするだけで、冷たくなって久しい胸の奥が熱くなるのを感じる。
しかし、すぐに煉司が言った言葉を思い返すと、またすっと熱が冷めていく。
(山を降りるだなんて……そんな……)
どうしてそんなことを言うんだと、彼を責めたくなる。
頭ではわかっているのだ。
人間である彼がいつまでもここにいられるわけがない。
それでも、 煉司がここを去ることを想像するだけで、胸の奥がひどく軋む。
「……煉司さん」
寝起きのぼんやりした頭で、彼の名を呼ぶ。
その声は、自分でも驚くほど弱々しいものだった。
男は怖い。だけど、煉司がそばにいてくれるのは心地いい。
ずっとずっと、その温もりを感じていたい。
ずっとずっと、一緒にいて欲しい。
死ぬまで、いや死んでも。
おぞましいような、甘美のような感情が溢れ溢れて止まらなくなる。
その時、こちらに近づく足音が聞こえた。
ガチャッと扉が開くと、煉司が顔を覗かせる。
「よかった。目が覚めたんだな」
雪花が起きていることに気づいた煉司、口元を緩ませながら彼女に近づく。
「煉司さん……」
彼の顔を見るだけで、雪花は胸が締め付けられるような感覚になるが今の状況に気づき、不安を覚える。
あれほど続いていた吹雪が、今は止んでいる。
そのことと自分が倒れたことについて、彼が何か気づいているのかいないのか、それが気がかりだ。
「どこか痛いところとか、気分が悪いとかはないか?」
「大丈夫です。もう、なんともありません」
「そうか……」
二人の間に沈黙が流れる。
お互い何かを言いあぐねているのを察しつつも、一歩踏み出すのを躊躇っているようだった。
やがて、意を決したように煉司が口を開く。
「氷室さん、言いにくかったら何も言わなくていいんだが……君は、その……」
途中で言葉が途切れる。
雪花は無意識のうちに指先を強く握りしめていた。
「はい……」
返事は思った以上に小さく、震えていた。
「……君は、人間なのか?」
ついに告げられた言葉に、雪花の肩がびくりと揺れる。
予想していたはずなのに、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
「わ、私は……」
まず彼女が思ったのが、どうすれば誤魔化せるかということだ。
自分が人間ではないこと、何人も殺していること、殺すために煉司に近づいたこと。
何もかも隠し通したい。
「……私……」
だが、真剣にだけれど穏やかな煉司の眼差しに見つめられると、その考えは引っ込んでしまう。
優しいこの人に嘘をつきたくない、そんな気持ちが沸き起こってきたのだ。
「私は、雪女です……」
一度口にしてしまえば、もう止められない。
堰を切ったように、雪花は全てを話した。
自分が元人間であること、今まで多くの人間を殺してきたこと、煉司も殺そうとしていたこと。
全てを話し終えた後、雪花は煉司の表情を伺うことができなかった。
どう思われるか、どんな言葉を浴びせられるか考えるだけで恐怖で全身が凍り付きそうだ。
しばらくして、雪花は肩に優しく触れる感触を感じた。
恐る恐る顔を上げると、煉司が彼女の肩に手を置いているのがわかる。
「れ、煉司さん……?」
「正直に話してくれて、ありがとう」
彼はそう言って、雪花に微笑みかける。
その表情に怒りや軽蔑といった負の感情は見えない。
「どうして……」
雪花が問いかけると、煉司は少しだけ言葉を探すように視線を伏せ、それから静かに顔を上げた。
「……君が雪女でも、誰かを殺してきたとしても、俺を殺すために近づいてきたとしても」
そこで一度、言葉が切れる。
煉司は小さく息を吸い込み、言葉を続けた。
「俺にとって、君は特別だ……初めてだったんだ。誰かのそばが居心地が良くて、ずっと一緒にいたいと思ったのは」
親はおらず、他者と深く関わることもできない人生であった。
そんな彼にとって、雪花と過ごした時間はかけがえのないものになっている。
「俺は……もう、人間の世界に戻る理由がない」
そう言った瞬間、煉司は自分の胸が不思議なほど静まるのを感じた。
人間社会で感じていた暗闇の中でもがくような徒労感と、寄る辺のない寂寥感。
きっと、それらはこれからもずっと煉司の中で巣食うのだろう。
「それなら……君のそばで終わりたい」
雪花は息を呑み、煉司を見つめた。
その眼差しは真剣そのものであり、自棄の気配すら感じない。
「煉司さんっ……」
雪花の胸に、冷たい衝動が渦巻く。
この男を、ここに縛りつけてしまいたい。
逃がしたくない。
失いたくない。
それは、愛情と呼ぶにはあまりにも歪んでいた。
では恐怖なのか、独占欲なのか、雪花自身にもわからない。
ただ一つ確かなのは、彼を失えば、また凍りついた孤独に戻るということだった。
雪花は、震える声で続けた。
「……なら、永遠に、私のそばにいてください」
煉司の服を、ぎゅっと掴む。
「山を降りず、人間の世界に戻らず……私と、ここで」
それは懇願であり、呪いだった。
答えを待つ間、雪花は思う。
もし拒まれたら、その時こそ――。
「……永遠、なんて簡単に言えることじゃない」
一瞬、雪花の胸が冷える。
しかし、煉司は視線を逸らさずに続けた。
「それでも、俺は君が許す限り、君のそばにいると誓う」
雪花の瞳から、一粒の涙が零れ落ちる。
彼女は煉司に飛びつき、強く強く抱きしめる。
「約束ですよ……」
「ああ、約束だ」
煉司の温もりが、雪花の冷たい体にじんわりと染み込んでいく。
雪女になってから、暑いのが苦手になっていたのに、今は涙が出るほど心地よかった。
二人は互いを見つめ合い、自然と唇を重ねた。




