第46章 緊迫
海は凪いでいた。
夜明け前の水平線に、黒い影がゆっくりと浮かび上がる。
修羅の国の船団だった。
七万。
その数は決して少なくない。だが、船の動きに焦りはない。
波を切る櫂の音さえ抑えられ、進軍というより「滑走」に近かった。
甲板の先頭に立つナギサは、潮風に髪を揺らしながら大陸を眺めていた。
その視線は、港でも城でもなく、さらに奥――人の動きが交差する線を追っている。
「急げば、相手も急ぐ。
急がなければ……向こうが先に崩れる」
背後でスズナが静かに頷く。
すでに隠密は放たれていた。
港湾、街道、兵糧庫、王国軍の交代周期。
戦場に立たずとも、修羅の国は盤面を撫でるように把握していく。
カガリは腕を組み、苛立ちを隠さない。
「回りくどい。叩けば終わる」
「叩くのは最後よ」
ナギサは笑う。
「価値が熟してからじゃないと、安くなる」
その頃、王国王城グラ=エルディナ。
黄金の柱と赤い絨毯に迎えられ、三人は玉座の間へ通された。
ヴェルミナは、露骨な優越を顔に浮かべていた。
「遠路ご苦労。
だが忘れないことね。ここは王国よ」
侍女が酒を運び、楽師が音を奏でる。
歓迎という名の、支配の演出。
だが――
ナギサの指が、ふと止まった。
「……無駄ね」
その一言と同時に、宙を裂くように縄が走る。
術で操られたそれは、瞬時にヴェルミナの腕と胴を絡め取った。
「なっ――!」
叫びは、刃が喉元に触れた瞬間、途切れる。
床に引き倒される王女。
場の空気が一変した。
シェリルは反射的に剣を抜く。
だが次の瞬間、カガリの鉄槌が床を叩き、衝撃波が広間を揺らした。
近衛たちは壁に叩きつけられ、動けない。
「動くな、将軍」
ナギサの声は淡々としている。
「この女王がどうなってもいいなら、ね」
歯を噛みしめ、シェリルは剣を下ろした。
彼女は理解していた。
ここで剣を振るえば、王国は終わる。
ヴェルミナはそのまま地下牢へ。
王城は一夜にして“主を失った”。
数日後。
夜の回廊で、ナギサはシェリルを呼び止めた。
「命令よ。
次の戦は、勝たなくていい」
「……何?」
「乱戦にするの。
ゼルフィアの意識を削ぐ。
彼女は整理された戦場でこそ強い」
拒めば、地下牢の女王は死ぬ。
それだけで十分だった。
戦場。
ゼルフィア五万。
シェリル四万。
布陣を見た瞬間、ゼルフィアは違和感を覚える。
攻めるには軽く、守るには前に出すぎている。
「……絡め取るつもりか」
彼女は静かに命じる。
「防御を厚く。
不用意に前へ出るな」
ローラの歩兵が槍を構え、アイナの騎馬突撃を跳ね返す。
だが、攻撃は止まらない。
同じ箇所。
同じ角度。
同じ速度。
「削りだ……」
ついに一角が揺らぐ。
ローラが塞ぐより早く、シェリル自身が踏み込んだ。
氷の剣が地を凍らせ、陣形が歪む。
兵が滑り、密集し、混線する。
「ゼルフィア!」
その声に応え、彼女は前に出た。
炎が剣を包み、氷を焼き払う。
火と氷がぶつかり、衝撃が走る。
肩当てが弾け、血が散る。
(……迷いがない)
だが、シェリルの剣には勝ちに行く焦りがない。
それが、ゼルフィアの胸をざわつかせた。
戦場が濁る。
兵の声、金属音、悲鳴。
視界の端で、何かが“見ている”感覚。
(誰だ……?)
正体は掴めない。
だが、これは偶発ではない。
「深入りするな!」
ゼルフィアは叫ぶ。
「立て直せ!」
炎の剣を振るいながら、彼女は悟る。
この戦は、まだ前座だ。
本当の刃は、どこかで待っている。




