第42章 息吹
ヴァルティアに、確かに平和は訪れていた。
だがそれは、歓喜に満ちたものではない。
血と鉄の時代が終わり、ようやく「息ができるようになった」という程度の、脆い平和だった。
国号は正式にヴァルティアと定められ、旧帝都は首都として再整備されることになった。
新たに与えられた名は――エリュシオン。
帝国の象徴だった街は、今や瓦礫と仮設の建物が混在する未完成の都だ。
だが人は戻り、市は動き始めている。
その中心にいたのが、メルティナだった。
兵糧の再配分、税制の再構築、難民の居住区の整理、治安維持の手配。
彼女は一日たりとも机を離れず、戦場で術を振るっていた頃とは別の意味で、心身を削っていた。
「戦争より、平和の方が厄介ね……」
漏らした独り言は、誰に聞かれることもない。
そんな中、海の向こうから新たな同盟が形を成す。
海洋国家シリウスは、ヴァルティアとの合併という道を選んだ。
派遣された代表――アリアは、知的でお淑やかな雰囲気を纏う女だった。
長い髪をまとめ、柔らかな口調で語るが、その言葉には曖昧さがない。
「この国は、王や英雄に頼りすぎてきました。
これからは仕組みで国を動かすべきです」
彼女が示したのは、将来的な共和制を視野に入れた行政制度だった。
急進的ではないが、確実に王権から距離を取る構想だ。
アリアは、自身の直属部隊も率いていた。
治安維持部隊――その隊長が、リシュアである。
長身で均整の取れた体躯。
長い髪を背に流し、タイトスカートに黒いタイツ、ワイシャツとジャケットという一見すれば行政官のような装い。
だが腰に帯びた細身の剣と、隙のない視線が、彼女がただの飾りではないことを雄弁に語っていた。
ヴァルティア軍も再編が進む。
ランバルタ率いる重騎兵二万と、エマの歩兵団四万が中央軍の主力。
リディアは二万の軽騎兵を率い、遊撃と追撃を担う。
セレナは騎馬術士隊五百と歩兵二万を束ね、キョウ直属の戦力として位置づけられた。
キョウ自身の黒翼隊二百は、変わらず彼の手足として機能する。
さらにシリウスから派遣された将軍ガイアスが、新兵訓練と兵站、屯田を担う二万を預かる。
総兵力は十二万を超えたが、それはもはや侵略のための軍ではなかった。
一方――王国は、別の意味で戦争を続けていた。
ルシアが新女王として即位し、ゼルフィアが軍の総帥を務めているものの、国内は分裂したままだ。
旧王家勢力は依然として四万の軍を保持し、王国正統を名乗って各地で蜂起している。
ゼルフィアは新たに将軍ローラを抜擢し、鎮圧を任せた。
ローラは冷静な用兵で旧王家勢力を追い詰めるが、決定打には欠け、転戦を繰り返す日々が続く。
対する旧王家側には、シェリルがいた。
彼女は正面からの戦いを避け、副官アイナに命じて王国側の兵糧庫や補給路を襲わせる。
焼かれる倉、奪われる糧。
戦場は前線だけではなくなっていた。
両陣営とも決定的な勝利を得られず、ただ消耗だけが積み重なっていく。
それはもはや戦争ではなく、不毛な摩耗だった。
その影で、ひとりの女が暗躍している。
カレン。
帝国滅亡後、完全に行き場を失った隠密。
かつてヴァルティア戦でシオンを死に追いやった張本人として、高額の懸賞金がかけられている。
彼女は旧帝国の残党を煽り、再起を謳う。
だが集まるのは、せいぜい数百人。
もはや軍ですらない。盗賊に近い集団だった。
略奪、放火、暗殺未遂。
だがどれも局地的で、決定的な影響を与えるには至らない。
そして――それを、狩る者がいた。
エリュシオンに着任したばかりの治安維持部隊隊長、リシュアである。
彼女は情報を整理し、動きを読み、淡々と制圧していった。
派手な戦はしない。
夜のうちに包囲し、逃げ道を潰し、剣を抜く前に終わらせる。
「秩序を乱す者は、等しく排除します」
その言葉どおり、カレンの仲間は次々と捕らえられ、あるいは散っていった。
そしてついに、報告が上がる。
――エリュシオン近郊、廃村に潜伏する女一名。
――特徴、カレンと一致。
夜。
霧が低く垂れ込める中、リシュアは単独でその地に踏み込んだ。
瓦礫の向こうで、気配が動く。
二人の視線が、闇の中で交差する。
「……あなたが、新しい犬?」
カレンの声。
リシュアは、剣に手をかけた。
「あなたと無駄話をする暇はないわ」
月夜に照らされ睨み合う。




