第38章 決断
副王都は、静かに包囲されていた。
ルミナスの軍勢は四万。
城を囲む陣は無駄がなく、攻め急ぐ気配もない。正面攻城ではなく、兵糧と時間で確実に削り取る――それが彼女の戦だった。
「焦る必要はない。城は逃げない」
陣中で、ルミナスは淡々と告げる。
兵たちはその冷静さに安心を覚え、包囲は日増しに締めつけられていった。
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副王都の中では、ルシアとゼルフィアが防衛に当たっていた。
兵糧は十分とは言えず、損耗も確実に蓄積している。それでも、ルシアは一度も民の前で不安な顔を見せなかった。
「必ず、みんなを守るわ」
それが彼女の言葉であり、祈りでもあった。
ゼルフィアは城壁の構造、陣形、矢倉、すべてを再構築し、防衛を鉄壁に仕上げていく。だが内心では、この戦が長引けば必ず不利になることも理解していた。
「……救援が必要だわ」
慎重にそう進言すると、ルシアは迷いなくうなずいた。
「戦わなくていいなら、それが一番いい。誰も死ななくていい道を、私は選びたい」
その言葉に、ゼルフィアは胸の奥を締めつけられながらも、正式な救援要請をヴァルティアへと飛ばした。
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ヴァルティアでは、ようやく戦後の混乱が収まりつつあった。
農地は再整備され、軍制も再編成の途中。完全復興とはほど遠いが、それでも国の輪郭は再び形を取り戻し始めていた。
その最中、メルティナが重い口を開いた。
「王国は分裂しています。今なら、介入できます」
ルミナス、ヴェルミナ、ルシア。
三つに割れた権力構造は、いずれ再統一される。だがその前に手を打てば、王国そのもののあり方を変えられる可能性があった。
「放置すれば、いずれ王国は再び牙を剥きます。今しかありません」
その献策に、キョウは長く沈黙した。
やがて、静かに答えた。
「行こう。取り返すためじゃない。……終わらせるために」
リディア、セレナ、そして重傷から復帰したエマ。
三人を将に据え、ヴァルティアは七万の遠征軍として動き出した。
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その頃、南方ではランバルタが一人、野営地で夜を過ごしていた。
五万の軍勢。
帝国の残党を抱え、軍閥として割拠するだけの力はある。だが彼女の胸には、もはや野心も目的もなかった。
頭を離れないのは、ただ一つの疑問だった。
――あのとき、なぜ斬られなかった。
確実に急所を捉えていた剣。
死を覚悟した一瞬。
だが、自分は今こうして生きている。
憎しみでも、油断でもない。
あれは「ためらい」だった。
答えは出ない。
だが、答えを知っているのは一人しかいない。
「……キョウ」
三つの選択肢があった。
王国に介入する。
ヴァルティアと敵対する。
あるいは、すべてを静観する。
だが、どれも本心ではなかった。
ランバルタは、ただ答えが欲しかった。
生き残った理由を、与えられなかった死の意味を。
そして彼女は決めた。
――直接、聞く。
ヴァルティア軍が進軍する途上、
その前方に、巨大な軍勢が静かに立ちはだかった。
両軍のあいだに、重苦しい沈黙が張りつめていた。
七万と五万。
どちらが動いても、大地は血に沈む。
風の音すら、鋭く感じられるほどだった。
その沈黙を破って、ランバルタが前に出た。
重装の鎧が軋む音を立てる。
だが、彼女の手には剣がなかった。
「話がしたい」
その一言に、ヴァルティア軍がざわめく。
罠だと叫ぶ者もいた。
撃て、と叫ぶ声もあった。
だが――
キョウは静かに馬を降りた。
剣を抜き、地面に突き立てる。
「俺もだ」
セレナが息を呑む。
リディアが歯を食いしばる。
エマが思わず一歩、前に出かけて止まる。
二人は、誰の護衛も伴わず、
殺意と緊張で満ちた“無人の空間”へと歩み出た。
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ランバルタは、ゆっくりと兜を外した。
黒いショートヘアが風に揺れ、
白い額と、張りつめた横顔が露わになる。
その瞬間、キョウは思わず、見とれた。
(……やはり、綺麗な瞳だ)
戦場で何度も刃を交えた相手。
多くの命を踏み潰してきた将。
だがその瞳には、残酷な濁りよりも、
――深い疲労と、消えかけの優しさがあった。
一方、ランバルタもまた、キョウの顔を改めて見つめていた。
殺意に満ちた怒りの顔でもなく、
勝者の傲慢さもない。
そこにあったのは、
静かで、穏やかで、どこか哀しげな表情。
その落ち着いた眼差しに、
ランバルタの胸が、わずかにざわつく。
「……」
言葉が、すぐには出なかった。
やがて彼女は、絞り出すように口を開いた。
「なぜ……私を斬らなかった」
真正面から、逃げ道のない問い。
「あなたの剣は、確かに私の急所を捉えていた」
「私は、死んだと思った」
低い声が、震えていた。
「それなのに……私は、生きている」
キョウはすぐには答えなかった。
少しだけ視線を落とし、
やがて、短く、しかし確かな声で言った。
「……あの時」
「お前は、“殺される顔”をしていなかった」
それだけだった。
理想も、正義も、救済も語らない。
ただ、その瞬間に感じた“違和感”だけ。
ランバルタの胸に、
ティナの姿がよみがえる。
血に染まった白い肌。
折れ伏した体。
守れなかった命。
帝国。
皇帝。
命令。
忠誠。
勝利。
敗北。
すべてが、音を立てて崩れ落ちていく。
「……そうか」
ランバルタは、かすかに笑った。
それは、嘲りでも、諦めでもない。
長い、長い戦の果てに、
ようやく辿り着いた“人の顔”の笑みだった。
「私は、ずっと」
「忠実な将であろうとしてきた」
「だが……それで、何を守れたのか分からない」
風が吹き抜ける。
彼女は、そっと目を閉じた。
「ティア……」
それは、もうここにいない恋人の名。
「私は、この男についていいのだろうか」
「命を賭ける価値が、まだあるのだろうかと……ずっと考えていた」
そして、静かに目を開いた。
その瞳には、迷いはもうなかった。
「政治も、国家も、策略も要らない」
ランバルタは、ゆっくりと膝をついた。
「私は、あなたに賭ける」
「キョウ。あなたの“ためらい”に」
深く、深く、頭を下げる。
「我が五万、すべてヴァルティアに預ける」
戦場が、静まり返った。
誰ひとり、言葉を発せなかった。
キョウは、しばらくその姿を見つめ――
やがて、静かにうなずいた。




