第28章 失敗
ゼルフィアは、帝都へ使者を送った。
――和平の条件はただ一つ。
サーシャの身柄引き渡し。
返答は、早すぎるほど早く、そして冷酷だった。
「拒否する」
その一言で、すべてが察せられた。
サーシャは、ただの商人ではなかった。
珍しい宝飾、異国の酒、希少な香、甘い果実。
それらを運ぶ便利な女であると同時に――
皇帝の歪んだ欲望を満たすための存在でもあった。
その夜。
皇帝の私室には、香の匂いが重く垂れ込めていた。
灯りは落とされ、揺れる燭台の光が壁に歪な影を映す。
サーシャは、玉座の足元に跪いていた。
衣の合わせは乱れ、肩は意図的に晒されている。
だが、瞳だけは冷静だった。
「ゼルフィアが……私を差し出せと?」
「そうだ」
皇帝は、面白くなさそうに鼻で笑った。
「戦には敗れ、楽しみまで奪おうとする。
あれは、もはや忠臣ではない」
皇帝の指が、サーシャの顎にかかる。
持ち上げられた顔に、強制的に視線が合わせられる。
「お前は、余のものだ」
サーシャは一瞬だけ、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
嫌悪か、恐怖か、それとも計算か。
だが次の瞬間には、いつもの妖艶な微笑に戻っていた。
「……陛下の御心のままに」
その言葉は、
服従ではなく、取引の言葉だった。
皇帝は満足したように喉を鳴らし、
その場でゼルフィアへの返答を決めた。
――サーシャは渡さぬ。
――そしてゼルフィアは、用済みだ。
使者はヴァルティアへ戻り、
「サーシャは帝都の庇護下にあり、引き渡しは拒否」と伝えた。
ゼルフィアは目を閉じた。
「……やはり、皇帝はもう国を見ていない」
帝国は、もはや国ではなく、
一人の暴君の私物になっていた。
セレナを通していては無意味。
そう悟ったゼルフィアは、決断する。
「……私が直接行く」
ヴァルティア城、応接の間。
ゼルフィアは、剣も護衛も連れず、
完全な使者の礼でキョウの前に立った。
「キョウ。和平のために来た。話を――」
言葉は、そこで止まった。
キョウの様子が、明らかに異常だった。
怒り。
混乱。
そして、抑えきれない震え。
「……お前だけは……」
低く、掠れた声。
「お前だけは、許せない」
剣が抜かれた。
一切の躊躇なし。
理性ではなく、記憶と憎悪が腕を動かしていた。
ゼルフィアは、その目を見て凍りついた。
(……これは、和平の場の目じゃない……)
理由は分からない。
だが、命の危険だけははっきり分かった。
「――っ!」
ゼルフィアは咄嗟に身を翻して逃げた。
背後から、キョウが追いすがる。
その騒ぎを聞きつけて、
セレナが部屋へ飛び込んできた。
「キョウ、やめなさい!!」
迷いなく、背中から抱きつく。
「今は違う! この人は使者よ!!」
だがキョウは振り払った。
「離せ……っ!!」
セレナの身体が床に叩きつけられる。
鈍い音が響いた。
その音で、キョウは正気に戻った。
「……セレナ……?」
駆け寄り、抱き起こす。
血の気の引いた顔。
浅い呼吸。
キョウの全身から、さっと殺気が抜け落ちた。
ゼルフィアは、その光景を見届けると、
何も言わず、その場を去った。
和平は、完全に失敗した。
帝都へ戻ったゼルフィアを待っていたのは、
皇帝の激怒だった。
「楽しみを奪おうとした上に、失敗して帰ってきたか!!」
「……申し訳ありません」
「斬れ!!」
その命令に、周囲が凍りつく。
だが、口を開いたのはサーシャだった。
「陛下。
今、ゼルフィアを失えば、本当に帝国は終わります」
「……」
「彼女は戦うための最後の手です。
それを捨てれば、次に捨てられるのは――」
皇帝は、苛立たしげに舌打ちした。
「……分かった。殺しはせん」
だが次の言葉は、冷酷だった。
「四天王の地位は剥奪だ。
お前はただの将軍として、王国へ行け」
ゼルフィアは、静かに頭を下げた。
「……承知しました」
「ランバルタを帝都へ戻せ。
あとは、戦線を崩すな」
こうして――
四天王ゼルフィアは失脚し、戦争の歯車へと堕とされた。
帝国はもはや、戻れなくなった。




