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優しい妹の飼育箱 ~毒親の檻から逃げ出した私は、より快適な牢獄で暮らす~

作者: 品川太朗
掲載日:2025/11/24

本作を見つけていただき、ありがとうございます。


この物語は、毒親に搾取され続けた引きこもりの姉が、かつて自分を罵倒した妹の手引きで脱出するお話です。

序盤、家族からの当たりが強く、胸が痛む描写がありますが、物語は後半に向けて大きく動きます。


「救済」か、それとも「新たな支配」か。

姉妹の歪んだ愛の形を、最後まで見届けていただければ幸いです。


※ハッピーエンドともバッドエンドとも取れる、メリーバッドエンドの要素を含みます。



第1話 静かに腐っていく家


 私の時間は、八年前から止まっている。

 カーテンの隙間から差し込む西日が、宙を舞う埃を照らしていた。

 部屋の中は、古本と湿った布団の匂いがする。私の世界はこの六畳間と、せいぜい一階のリビングまで。それが、二十五歳になった私の世界のすべてだ。

沙耶さやちゃん、ご飯よー。今日はハンバーグだからね」

 階下から聞こえる母の声は、まるで幼児に話しかけるように甘ったるい。

 私はベッドから重たい体を起こした。

 リビングに行くのは怖い。けれど、行かないと母が部屋までお盆を持って上がってくる。それだけは避けたかった。ドアノブに手をかけると、じっとりと手汗が滲む。

 ゆっくりと階段を降りる。

 リビングのドアを開けると、そこにはあまりに「理想的」で、そして「異様」な家族の食卓があった。

「あ、沙耶。顔色が良さそうだな」

 父が新聞を置き、穏やかに微笑む。

 父も母も、私を腫れ物のように扱う。決して怒らず、急かさず、ただひたすらに「優しい」。それが私には、綿で首を絞められているように息苦しかった。

 私は無言で頷き、席に着く。

 私の向かい側には、三歳下の妹――朱音あかねが座っていた。

「……」

 朱音はスマホを操作したまま、顔も上げない。

 けれど、その全身から放たれる刺々しいオーラが、私の肌をチリチリと焼くようだった。私は身を縮め、視線をハンバーグに落とす。

「ほら、沙耶ちゃん。ケチャップ、ハート型にしたのよ。可愛いでしょう?」

「う、うん……ありがとう、お母さん」

「あら、お野菜も食べなきゃ駄目よ。お母さんが切ってあげるから」

 母が私の皿に手を伸ばし、ナイフで付け合わせの人参を小さく切り分ける。

 私は二十五歳だ。手も動くし、箸も持てる。

 けれど、私はそれを拒絶できない。

「……キモっ」

 小さく、けれどはっきりと聞こえた。

 空気が凍りつく。

 朱音がスマホをテーブルに投げ出し、冷え切った瞳で私を見ていた。

「いい加減にしなよ。二十五にもなって、ママに野菜切ってもらってんの? 介護食じゃないんだからさ」

「朱音」

 父が低い声で制する。しかし朱音は止まらない。

「なに? 本当のことじゃん。ねえお姉ちゃん、恥ずかしくないの? 私が働いて入れた食費で食べるハンバーグは美味しい?」

 美味しいわけがない。

 喉の奥で、肉の塊が砂利のように変わる。

 私は箸を握りしめたまま、俯くことしかできない。言い返せない。朱音の言うことはすべて正しいからだ。私は働かず、家事もせず、ただ生かされているだけの穀潰しだ。

「ごめんなさい……」

 蚊の鳴くような声で謝ると、朱音は鼻で笑った。

「謝るなら死ねばいいのに。あんたみたいなのを何て言うか知ってる? 寄生虫パラサイトだよ。うちの養分を吸って、ただ太っていくだけの害虫」

「朱音!!」

 バンッ、と母がテーブルを叩いた。

 普段は温厚な母が、鬼のような形相で朱音を睨みつけている。

「お姉ちゃんになんてことを言うの! 沙耶ちゃんは今、充電期間なのよ。傷つきやすいんだから、そんな酷いことを言ったら駄目でしょう!」

「そうあ、朱音。お前も仕事で疲れているのは分かるが、家族への思いやりが足りないぞ」

 父も深く溜息をつき、私に視線を向ける。その目は慈愛に満ちていた。

「沙耶は何も気にしなくていいんだぞ。ゆっくり、自分のペースで治していけばいい。パパもママも、いつまでも待ってるからな」

 違う。

 そうじゃない。

 朱音は信じられないものを見る目で両親を見つめ、次いで私を睨んだ。その目には明確な憎悪と、そして軽蔑があった。

「……狂ってる」

 朱音はガタリと椅子を鳴らして立ち上がった。

「こんな空気で飯なんか食えるかよ。吐き気がする」

 ドタドタと足音を立てて、朱音は二階へ上がっていった。

 バタン、とドアが閉まる音が響き、リビングに再び静寂が戻る。

「ごめんね、沙耶ちゃん。朱音ったら、仕事でイライラしてるのよ。気にしないで、たくさんお食べ」

 母がニコニコと笑いながら、私の皿にさらにブロッコリーを乗せる。

 私は、震える手で箸を動かした。

 この家は腐っている。

 優しさという名の防腐剤漬けにされて、私という人間が、そして家族という形が、静かに、ドロドロに腐っていく。

 それでも私は、ここから逃げ出すことさえできないのだった。





第2話 婚約者が来る日


 地獄のような夕食から数日が過ぎた、日曜日の昼下がり。

 家の空気が、張り詰めた糸のようにピリピリとしていた。

「いい? 絶対、絶対に余計なことしないでよ」

 一階から朱音の鋭い声が聞こえる。

 今日は、朱音の婚約者である和真かずまさんが挨拶に来る日だ。

 私は部屋の隅で膝を抱え、息を潜めていた。関係ない。私には関係ない話だ。そう自分に言い聞かせていたけれど、両親はそれを許してくれなかった。

 ドンドン、とノックの音がして、返事も待たずに母が入ってきた。

「沙耶ちゃん、まだ着替えてないの? もうすぐ和真さんがいらっしゃるわよ」

 母の手には、淡いピンク色のワンピースが握られている。

 フリルがあしらわれたその服は、どう見ても十代の少女が着るようなデザインだった。

「お母さん……私、やっぱり無理だよ。怖い……」

「何を言ってるの。妹の晴れ舞台なのよ? お姉ちゃんが祝ってあげなくてどうするの」

 母は笑顔のまま、私の腕を掴んで立たせた。

 その力は強く、私の拒絶など最初から想定していないようだった。

「ほら、バンザイして。……あらあら、ちょっとウエストがきついかしら。沙耶ちゃん、運動不足ねえ」

 母は私を人形のように着せ替えていく。

 鏡に映った私は、年齢不相応な服を着て、顔面蒼白で震えている、ただの不気味な女だった。

 吐き気がした。

 八年間、家族以外とまともに話していない。知らない男の人が家に入ってくる。その事実だけで、心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。

「お母さん、お願い。部屋にいさせて。私が出たら、朱音だって嫌がるし……」

「朱音のことはいいの。パパも言ってたでしょう? 『家族全員』で迎えるのが礼儀だって」

 母は私の髪に櫛を通しながら、うっとりとした声で言った。

「うちは仲良し家族なんだから。沙耶ちゃんもそろそろ、外の人に慣れていかないとね。これはリハビリよ」

 リハビリ。

 母にとって、私の呼吸困難も手の震えも、ただの「恥ずかしがり屋」程度の認識なのだ。この通じなさが、何よりも恐ろしい。

 ピンポーン――。

 チャイムの音が、死刑宣告のように響いた。

 私はビクリと体を跳ねさせる。

「あ、いらしたわね! 行きましょう」

「やだ……やだ……っ」

「大丈夫、パパもいるしお母さんもついてるから。ね?」

 母は私の背中を押し、無理やり部屋から押し出した。

 足がすくんで動かない。けれど母は、私の腰を抱えるようにして、ずりずりと階段へ誘導する。

 階下から、明るい声が聞こえてきた。

「はじめまして、和真です。本日はお時間をいただきありがとうございます」

「いやいや、よく来てくれたね! さあ、上がってくれ」

「お邪魔します……」

 父の快活な声と、若々しい男の人の声。

 そして、どこか緊張した様子の朱音の声。

「どうぞ。……あの、お父さん、お姉ちゃんは?」

「ああ、今お母さんが連れてくるよ。楽しみだなあ」

「え……」

 朱音の声が強張ったのが分かった。

 連れてくるなと言っていたはずだ。朱音にとって、引きこもりの姉など隠したい汚点以外の何物でもないのだから。

 私は階段の踊り場で立ち止まり、手すりにしがみついた。

 リビングのドアが開いている。そこから漏れる光が眩しくて、目がくらむ。

「ほら、沙耶ちゃん。笑顔よ、笑顔」

 母が私の耳元で囁き、硬直する私の指を手すりから引き剥がした。

「沙耶!」

 下から父が呼ぶ。

 逃げ場はなかった。

 母の強い力に押され、私はつんのめるようにしてリビングの入り口へと足を踏み入れた。

「――あ」

 視界が開ける。

 ソファーに座っていたスーツ姿の青年が、驚いたようにこちらを振り返った。

 隣に座る朱音が、目を見開き、絶望と怒りが入り混じった表情で私を――いや、私の後ろにいる母を睨みつけている。

 私は喉が引きつり、言葉が出ない。

 ピンクのフリルの服を着た、三十路手前の引きこもり女。

 その異様な姿が、和真という青年の瞳にはっきりと映り込んだ。


第3話 暴露


 リビングの空気が、音を立てて張り詰めた。

「あ……はじめまして、婚約者の、和真です」

 和真さんは、私の姿を見て一瞬言葉を詰まらせたものの、すぐに社会人らしい笑顔を作って頭を下げた。

 その視線が、私のフリルのワンピースと、震える手元を忙しなく往復しているのがわかる。

「さ、沙耶です……」

 蚊の鳴くような声しか出ない。

 私は逃げ出したかった。今すぐ二階へ駆け上がり、布団を被って震えていたかった。

 けれど、背後には母が立ちはだかっている。

「あらごめんなさいねえ。沙耶ちゃん、ちょっと人見知りで。でも、とっても優しい子なのよ」

 母は私の肩を抱き、和真さんの向かいの席――つまり、朱音の隣に私を座らせた。

 朱音の隣。そこは今の私にとって、針のむしろだった。

「……お母さん」

 朱音が、押し殺したような低い声で言った。

「お姉ちゃん、具合悪そうだから。挨拶が済んだなら、もう部屋に戻してあげなよ」

 それは朱音なりの助け舟……ではない。一秒でも早く、この恥ずべき姉を視界から消したいという焦りだ。私もそれに同意だった。立ち上がろうと腰を浮かす。

「あら、いいじゃない。せっかく家族が揃ったんだから」

「よくないよ! 和真さんだって困ってるでしょ!」

 朱音が声を荒げた。

 和真さんが驚いて朱音を見る。普段、外では猫を被っている朱音が、こんな声を出すなんて思わなかったのだろう。

「あ、いや、俺は別に……」

「ほら、和真さんも良いって言ってるじゃない。朱音、そんなカリカリしないの」

 父がのんびりと口を挟む。この人は、場の空気が読めていない。

 朱音は唇を噛み締め、テーブルの下で拳を握りしめているのが見えた。そして、鋭い視線を私に向けた。

 ――消えろ。

 その目は明確にそう言っていた。

「ひっ……」

 私は反射的に身をすくませて、小さく悲鳴を上げた。

 長年刷り込まれた妹への恐怖は、私の体を条件反射で硬直させる。

 その反応を、母は見逃さなかった。

「朱音! あんた、また沙耶ちゃんを睨んだわね!」

 突然、母が金切り声を上げた。

 リビングに響き渡る絶叫に、和真さんがビクリと肩を揺らす。

「お母さん、やめ――」

「やめないわよ! あんた、和真さんの前だからって猫被ってるけどね、お母さんは許しませんよ! さっきだって、沙耶ちゃんのこと脅したんでしょ!」

 母は、私をかばうように抱きしめると、鬼の首を取ったように和真さんに向かってまくし立て始めた。

「和真さん、聞いてちょうだい。朱音ったら酷いのよ。家ではいつもこの子に向かって『パラサイト』だの『穀潰し』だのって暴言を吐いて!」

 時間が、止まった。

 朱音の顔から、サーッと血の気が引いていく。

「お母さん……っ、何言って……」

「本当のことでしょう! 昨日も言ってたじゃない。『あんたなんか死ねばいいのに』って! 沙耶ちゃんが何をしたっていうのよ。ただお家で静かにしてるだけじゃない!」

 母の暴走は止まらない。

 それは母にとって「正義」だった。か弱い姉をいじめる、気の強い妹を告発する。それが姉を守ることであり、母親としての愛だと信じて疑っていないのだ。

「沙耶ちゃんはね、心が繊細なだけなの。それなのに朱音は、自分が稼いでるからって偉そうにして……。お姉ちゃんの食事を取り上げたことだってあるのよ、信じられる!?」

 違う、やめて。

 私は心の中で叫んだ。

 それを言ったら、朱音が壊れてしまう。

 朱音の築き上げてきた「まともな人間」としての仮面が、私のせいで、母のせいで、粉々に砕かれていく。

 私は恐る恐る、和真さんを見た。

 彼は、ドン引きしていた。

 朱音を見ているのではない。

 二十五歳の娘を幼児のように抱きしめて泣き叫ぶ母と、三十歳近いフリルの服を着た無言の姉と、顔面蒼白で立ち尽くす妹。

 この「家族そのもの」の異常性に、恐怖を感じている目だった。

「朱音……」

 和真さんが、乾いた声で呟く。

「お前……家で、そんなこと言ってるのか? 『死ね』とか……」

「ち、違うの和真、これは……」

 朱音は必死に否定しようとするが、声が震えて言葉にならない。

 弁解しようにも、今の母の異常な剣幕と、私の怯え方が、それが事実であることを雄弁に物語っていた。

「ああ、可哀想な沙耶ちゃん。お母さんが守ってあげるからね。怖い妹がいなくなって良かったわねえ」

 母は私の頭を撫で続ける。

 その手つきは優しく、そして最高に無神経だった。

 私は見た。

 朱音の瞳の中で、何かがプツンと切れる瞬間を。

 絶望が、どす黒い怒りへと変わっていく。

 その矛先は、暴露した母へ、そして何より――その原因である私へと向けられていた。






第4話 破局と絶縁


 シン、と静まり返ったリビングに、和真さんが立ち上がる衣擦れの音だけが響いた。

「……帰らせていただきます」

 その声は冷たく、事務的だった。

 朱音が弾かれたように顔を上げる。

「ま、待ってよ和真。違うの、今の話は誤解で……」

「誤解って、何が?」

 和真さんが振り返る。その目には、軽蔑というよりも、得体の知れないものに対する「恐怖」が浮かんでいた。

「お母さんのあの剣幕、君が家で言ってる暴言……。それに、この家の空気。俺には無理だ」

「和真……」

「正直、君がこんな環境で、こんな風に家族と接しているなんて思わなかった。結婚の話は、なかったことにしてほしい」

「待って!!」

 朱音がすがりつこうと手を伸ばすが、和真さんは汚いものに触れるかのように身を引いた。

 そして、私と両親を一瞥もしないまま、逃げるように玄関へと歩き去った。

 バタン。

 玄関のドアが閉まる音が、死刑執行の合図のように響き渡った。

 朱音は玄関の方へ手を伸ばしたまま、石像のように固まっていた。

 私は震えが止まらない。やってしまった。私のせいで。いや、お母さんのせいで。でも元はと言えば私が……。

「あらあら、行っちゃったわねえ」

 その沈黙を破ったのは、母の能天気な声だった。

「あんなに怒らなくてもいいのにねえ。やっぱり、朱音の暴言に引いちゃったのかしら。自業自得ね」

「……」

「まあ、あんな心の狭い男の人、朱音には勿体無いわよ。ねえ、お父さん」

「そうだな。家族の事情も理解できない男なんて、こちらから願い下げだ」

 両親は、まるでテレビドラマの感想でも言い合うように頷き合っている。

 目の前で娘の婚約が破談になったというのに、彼らの心にはさざ波ひとつ立っていないのだ。自分たちが「正しい」と信じているから。

「あは」

 乾いた笑い声が聞こえた。

 朱音が、肩を震わせて笑っていた。

 ゆっくりと振り返ったその顔は、涙でぐしゃぐしゃに濡れているのに、口元だけが三日月のように歪んでいた。

「あはははは! 願い下げ? 何言ってんの? あんたたちが壊したんじゃん!!」

 朱音の絶叫が炸裂した。

 近くにあった花瓶を掴み、床に叩きつける。ガシャン! と陶器の割れる音と水の飛沫が散った。

 私は悲鳴を上げて耳を塞ぐ。

「朱音! 乱暴はやめなさい!」

「うるさい黙れ! このキチガイ共が!!」

 朱音は鬼の形相で両親を睨みつけ、そして最後に――私を見た。

 その視線が私を貫いた瞬間、心臓が凍りついた。

 いままで彼女が向けてきた軽蔑や苛立ちとは違う。もっと深く、暗い、純粋な「殺意」に近い憎悪。

 朱音は私に歩み寄り、胸ぐらを掴み上げた。

「ひっ……!」

「お前のせいだ」

 低い、地を這うような声。

「お前さえいなければ。お前がまともなら! お前が死んでいれば!! 私は普通に幸せになれたのに!!」

 朱音の手が首に伸びかかる。

 けれど、すぐに母が金切り声を上げて割って入った。

「やめて朱音! 沙耶ちゃんを殺す気!?」

「ああそうだよ殺したいよ! こいつは私の人生の癌なんだよ!!」

 父に取り押さえられ、朱音はもがく。

 もみくちゃになりながら、朱音は涙を流して叫び続けた。

「もう無理……もう限界。こんな家、一秒だっていられない」

 父の手を振り払い、朱音は荒い息を吐きながら後ずさる。

「出て行く。二度とあんたたちの顔なんて見たくない」

「朱音、落ち着きなさい。行くあてなんてないだろう」

「野垂れ死んだ方がマシよ!!」

 朱音は階段を駆け上がり、数分後、旅行鞄一つを持って降りてきた。

 止める父の手を振り切り、靴を突っかけるように履く。

 ドアノブに手をかけ、最後に一度だけ振り返った。

 その目は、私だけを見ていた。

「一生、その腐った部屋でママゴトしてればいい。……一生私に関わらないで。この、パラサイト」

 呪いの言葉を吐き捨て、朱音は出て行った。

 今度こそ、本当に。

 後に残されたのは、散乱した花瓶の破片と、水浸しの床。そして呆然とする私と両親だけ。

 私の胸には、鋭いナイフで抉られたような痛みが残っていた。

 妹の人生を奪った。その事実が、重くのしかかる。

 けれど、母はふぅと息を吐き、優しく私の肩を抱いた。

「大丈夫よ、沙耶ちゃん。怖かったわねえ」

 母の声には、安堵の色すら混じっていた。

「これで、また静かになるわ。意地悪な朱音はいなくなったの。これからは、パパとママと沙耶ちゃん、三人だけで仲良く暮らしましょうね」

「そうだな。朱音も頭を冷やせば戻ってくるさ。それまでは、沙耶がゆっくり休めるようにしてやろう」

 狂っている。

 この人たちは、心の底からそう思っているのだ。

 妹を追い出したことへの罪悪感など微塵もない。むしろ、異物がいなくなって「清々した」とすら思っている。

 私は母の腕の中で、ガタガタと震えた。

 妹がいなくなった。私のサンドバッグになってくれていた妹が。

 これからは、この狂気的な両親の愛情を、私一人ですべて受け止めなければならない。

 その事実に気づいたとき、目の前が真っ暗になった。

 こうして、私の家の時計の針は完全に壊れた。

 二度と動くことのないまま、ゆっくりと、私たちを消化していくのだ。



第5話 わずかな光


 朱音が出て行ってから、五年が経った。

 あれ以来、妹からは一度も連絡がない。生きているのか、どこに住んでいるのか、それすら分からないままだ。

 家の中は、まるで時間が止まったかのように変わらない。父と母、そして三十歳になった私。

 奇妙なほど穏やかで、息が詰まるほど密閉された三人暮らしが続いていた。

 カツ、カツ、とペンタブレットを叩く音が、静かな部屋に響く。

「……よし、できた」

 私はモニターの中の色彩を確認し、小さく息を吐いた。

 ソーシャルゲームのキャラクターイラスト。背景込みの一枚絵。

 これが今の私の仕事だ。

 三年前、ネットの掲示板で偶然見つけた募集に応募したのがきっかけだった。最初は怯えながらだったけれど、顔を合わせずに済むメールでのやり取りは、私にとって唯一の社会との接点になった。

 月収は五万円ほど。同年代の女性からすればお小遣い程度かもしれない。

 けれど、私にとっては「自分の力で得た」何よりも重いお金だった。

 コンコン、とノックの音がして、返事をする前に母が入ってくる。

 この「ノックは形式だけ」という習慣も、五年前と変わらない。

「沙耶ちゃん、フルーツ切ったわよ。休憩しましょ」

 母は満面の笑みで、ウサギの形に切られたリンゴを机に置いた。

「あ、ありがとうお母さん。でも、今ちょうど納品前で……」

「あら、またお絵描き? 根詰めるのは良くないわよ。目は疲れてない? 肩は?」

 母が背後に回り込み、私の肩を揉み始める。

 その手つきは優しいが、作業を中断させるには十分な拘束力があった。

「そんなに頑張らなくてもいいのに。パパもママもいるんだから、沙耶ちゃんはお金の心配なんてしなくていいのよ」

「ううん、でも……私も少しは稼ぎたいから」

「偉いわねえ。でも、無理は禁物よ。沙耶ちゃんは体が弱いんだから」

 体が弱い。

 私はこの五年間、大きな病気ひとつしていない。けれど両親の中では、私は永遠に「要介護の可哀想な娘」のままだった。私が稼ぐことを、彼らは喜ばない。むしろ、私が自立への意欲を見せると、不安そうに眉を寄せるのだ。

「……あのね、お母さん」

 私は意を決して口を開いた。

「この仕事が終わったら、コンビニに行ってきたいんだけど」

「えっ」

 母の手が止まる。

「コンビニ? 何か欲しいものがあるの? お母さんが買ってきてあげるわよ。プリン? それとも雑誌?」

「違うの。……自分で、買いに行きたいの。気晴らしに」

 ここ数ヶ月、私はリハビリと称して、徒歩五分のコンビニまで一人で外出する練習をしていた。

 最初は玄関から出るだけで過呼吸になりかけたが、今はどうにか、昼間の明るい時間なら歩けるようになっていた。

「駄目よ、今日は日差しが強いわ。貧血起こしたらどうするの」

「大丈夫。すぐ戻るから」

「じゃあ、お母さんも行く。車出しましょうか?」

「歩いて行きたいの。一人で」

 私が食い下がると、母は露骨に悲しそうな顔をした。

 まるで、私が母をいじめているかのような表情だ。

「……分かったわ。沙耶ちゃんがそこまで言うなら」

「ありがとう」

 私は急いで服を着替え(もちろん母が選んだ服ではない、通販でこっそり買った地味なシャツだ)、逃げるように家を出た。

 外の空気は、家の匂いとは違っていた。

 アスファルトの熱気、車の排気ガス、どこかの家の夕飯の匂い。

 それらすべてが、私にとっては「自由」の香りだった。

 心臓が早鐘を打つ。すれ違う人が怖い。誰も私を見ていないと分かっていても、視線が刺さる気がする。

 それでも、私は自分の足で歩いている。

 コンビニに入り、震える手でアイスコーヒーを一つ買う。

 店員さんに「ありがとうございました」と言われ、小さく会釈して店を出る。

 たったそれだけのこと。

 けれど、私にとっては大冒険だった。

「できた……」

 店先の駐車場で、冷たいカップを握りしめる。

 少しずつだけど、前に進めている気がした。いつかはこの小さな仕事を本業にして、一人暮らしだってできるかもしれない。そんな淡い希望が胸に灯る。

 ふと、視線を感じて振り返った。

 陽炎が揺れる道路の向こう側。

 電柱の影に、日傘を差した人物が立っていた。

 母だった。

 目が合う。

 母はバツが悪そうな顔をするでもなく、私に向かってニコリと微笑み、小さく手を振った。

「ヒッ……」

 喉の奥から悲鳴が漏れた。

 ついてきていたのだ。こっそりと、ずっと後ろから。

 私が転ばないか、誰かに絡まれないか、あるいは――逃げ出さないか、監視するために。

 背筋に冷たい汗が流れる。

 私の「自由」なんて、母の手のひらの上での散歩に過ぎなかった。

 リードは見えないだけで、確実に私の首に繋がれている。

 私は逃げるように、俯いて歩き出した。

 母は一定の距離を保ったまま、私の背中をついてくる。

 その足音が、直接脳内に響くようだった。

 この家から出るには、コンビニに行く勇気なんかじゃ足りない。

 もっと決定的な、世界をひっくり返すような何かが起きなければ、私は一生このままだ。

 絶望に近い予感を抱きながら交差点を曲がった、その時だった。

「……え?」

 向かいから歩いてきた女性と、肩がぶつかりそうになる。

 とっさに謝ろうとして、私は息を飲んだ。

 洗練されたオフィスカジュアルに身を包み、自信に満ちた足取りで歩く女性。

 かつての刺々しい雰囲気は消え、大人の余裕を纏っていたけれど、見間違うはずがなかった。

「――お姉ちゃん?」

 その女性が足を止め、サングラスを外す。

 五年分の時間を飛び越えて、懐かしい声が私を呼んだ。

 朱音だった。




第6話 偶然の再会


 時間が凍りついたようだった。

 目の前に立っているのは、確かに朱音だった。

 けれど、私の記憶にある、眉間に皺を寄せ、常にイライラしていた妹とは別人のようだった。

 艶やかな栗色のロングヘア、体にフィットした質の良さそうなブラウス、微かに香る上品な香水。

 彼女は、都会の雑踏の中でも一際目を引く「自立した大人の女性」になっていた。

「……朱音、なの?」

「うん。久しぶりだね、お姉ちゃん」

 朱音はサングラスを指先で回しながら、ふわりと微笑んだ。

 その笑顔には、かつての棘がない。私は戸惑い、言葉を失う。

 その時、朱音の視線が私の背後――交差点の向こう側へとスッと向けられた。

 そこには、電柱の影からこちらを監視している母がいるはずだ。

「相変わらずなんだね、あの人」

 朱音は呆れたように呟くと、躊躇なく私の手首を掴んだ。

「え?」

「あそこからだと丸見えだよ。場所、変えよう」

 私の返事も待たず、朱音は強い力で私を引っ張った。

 彼女は迷いなく、すぐ近くにあった雑居ビルの陰へと入り込み、そのまま路地裏のオシャレなカフェのドアを開けた。

 流れるような動作だった。まるで、こうなることを予期していたかのように。

 店に入り、奥のボックス席に座らされると、外の喧騒も母の視線も遮断された。

 心臓がバクバクと鳴っている。

 私は膝の上で手を握りしめ、小さくなっていた。

「アイスティーでいい?」

 朱音は店員に注文を済ませると、頬杖をついて私をじっと見つめた。

 罵倒される。

 反射的に身構える私に、朱音は困ったように眉を下げた。

「そんなに怯えないでよ。……ごめんね、急に連れ出して」

「う、ううん……」

「五年前のこと、ずっと謝りたかったんだ」

 予想外の言葉に、私は顔を上げた。

「あの時は私も若かったし、余裕がなかった。和真とのことでパニックになってて……お姉ちゃんに酷いこと言っちゃった。本当にごめんなさい」

 朱音が頭を下げる。

 私は混乱した。あの地獄のような別れ際、彼女は私を「パラサイト」と呼び、呪うように睨みつけたのだ。それなのに、謝っている。

「怒って……ないの?」

「怒るわけないじゃん。悪いのは全部、あの異常な両親だよ。お姉ちゃんは被害者だもん」

 被害者。

 その言葉が、乾いた心に染み込んでいく。

 誰も言ってくれなかった言葉だ。両親は私を「可哀想な子」と呼び、自分自身は「ダメな人間」だと思っていた。けれど朱音は、「私は悪くない」と言ってくれた。

「私ね、家を出てから必死で働いたの。それでやっと、自分の会社を持てるくらいになったんだ」

「えっ、会社……?」

「うん、小さなデザイン事務所だけどね。だから今は、心にもお金にも余裕があるの。そうしたら、急にお姉ちゃんのことが心配になって」

 朱音は私の手を、テーブル越しにそっと握った。

 その手は温かく、そして強かった。

「ずっと探してたんだよ。でも、実家に連絡してもお父さんたちが取り次いでくれないし。……今日会えたのは、運命かもしれないね」

 朱音の瞳が潤んでいるように見えた。

 私の目からも、涙が溢れそうになった。

 妹は変わったのだ。あの毒々しい家から離れ、立派に自立し、そして私を許してくれた。

 それに比べて私はどうだ。三十歳になっても、まだ母の監視に怯えて震えている。

「私……私こそ、ごめんなさい……何も変わってなくて……」

「ううん。生きててくれてよかった」

 朱音はハンカチを取り出し、私の涙を拭ってくれた。

 その仕草は、まるで聖女のように優しかった。

 私はこの時、心の底から安堵していた。妹が味方になってくれた。この世界に、私を否定しない人間が一人増えたのだと。

 けれど、朱音はふと表情を曇らせ、声を潜めた。

「でもね、お姉ちゃん。今日会えたのは嬉しいけど……実は、どうしても伝えなきゃいけないことがあるの」

 空気が変わった。

 優しげな雰囲気が消え、真剣で、どこか切迫した眼差しが私を射抜く。

「お父さんたちが、お姉ちゃんに隠してることがある」

「隠し事……?」

「うん。私も最近知ったんだけど……あまりにも酷い話で、最初は信じられなかった」

 朱音はバッグから封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。

 そこには、役所の公印が押された書類のようなものが入っていた。

「驚かないで聞いてほしい。お姉ちゃんの人生が、勝手に書き換えられてるの」

 ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。

 朱音の深刻な表情が、ただ事ではないことを告げていた。



第7話 隠されていた結婚


 カフェの喧騒が遠のいていくようだった。

 テーブルの上に置かれた茶封筒。朱音はそこから一枚の書類を取り出し、私の目の前に広げた。

「これ、お姉ちゃんの戸籍謄本だよ。裏ルートで取り寄せたの」

 戸籍謄本。

 そんなもの、人生で一度も見たことがない。見方も分からない私が、朱音の指差す箇所を目で追う。

「ここ。身分事項の欄を見て」

 【婚姻日:平成××年×月×日】

 【配偶者氏名:大河内オオコウチ イワオ

 ……は?

 思考が停止した。

 意味が分からない。漢字の羅列が、記号のようにしか見えない。

「こ、婚……印? え、誰……?」

「やっぱり、知らなかったんだね」

 朱音は深く溜息をつき、信じられないものを見るような目で書類を見下ろした。

「お姉ちゃんはね、結婚してるの。もう五年も前に」

「結婚……私が? だって、私、ずっと家に……」

「そう、家にいたままでね。相手はこの大河内って人。私たちの遠い親戚で、資産家のお爺いさんだよ。もう八十歳を超えてる」

 頭がぐらりと揺れた。

 八十歳? 資産家? 私が?

 私の知らないところで、私の名前の隣に、知らない老人の名前が刻まれている。

「五年前、私が家を出てすぐのことだよ。お父さんたちが勝手に婚姻届を出したんだよ。お姉ちゃんのハンコを使って、代理人としてね」

「そんな……そんなこと、できるわけ……」

「普通はできない。でも、相手は資産家で、向こうの親族もグルなら話は別。それに、お姉ちゃんは身分証も印鑑も、全部お母さんに管理されてるでしょ?」

 そうだ。保険証も、通帳も、印鑑も。

 「沙耶ちゃんはなくしちゃうから」と言われて、すべて母の引き出しの中だ。

「待って、朱音。意味が分からないよ。どうしてそんなことを……」

「遺産だよ」

 朱音の言葉が、鋭い刃物のように空気を切り裂いた。

「遺産……?」

「この大河内って爺さん、ずっと寝たきりの末期状態なの。身寄りがなくて、莫大な遺産がある。彼が死んだら、その遺産は誰に行くと思う?」

 朱音は冷たい指先で、書類の私の名前をトントンと叩いた。

「法的な妻である、お姉ちゃんだよ」

 血の気が引いていくのが分かった。指先が冷たくなり、震えが止まらない。

「つまりね、お父さんとお母さんは、お姉ちゃんを『遺産の受け皿』として、その老人に売ったの」

 売った。

 その単語が、重い鉛のように胃の腑に落ちた。

「あんなに優しくしてくれたのは……私が大切だからじゃ、ないの……?」

「大切だからだよ。ただし、娘としてじゃなく、数億円の価値がある『通帳』としてね」

 朱音は悲しげに目を伏せた。

「お姉ちゃんがもし自立して、外の世界を知って、自分の戸籍を見たりしたら困るでしょ? もし好きな人ができて結婚したいなんて言い出したら、この計画がバレちゃう」

「……あ」

「だから閉じ込めたんだよ。『沙耶は病気だ』『外は怖い』って洗脳して。お姉ちゃんが一生、あの部屋で何も知らずに飼い殺されていれば、遺産が入った後、お母さんたちがそれを自由に使えるから」

 喉の奥から、嘔吐えずきが込み上げてきた。

 走馬灯のように、この五年の記憶が蘇る。

 『沙耶ちゃんは何も心配しなくていいの』

 『ずっとパパとママのそばにいればいいの』

 『外は危ないわよ』

 あの甘ったるい笑顔。過剰なまでの世話焼き。

 そのすべてが、愛情ではなかった。

 それは、高価な美術品を盗まれないようにショーケースに鍵をかけるのと、何ら変わりなかったのだ。

「嘘だ……嘘だと言って……」

「これが証拠だよ」

 朱音は戸籍謄本を私の手に握らせた。

 紙の感触が、現実を突きつける。

 私は、人間扱いされていなかった。

 パラサイト(寄生虫)と呼ばれていたけれど、本当に寄生していたのは、私に群がる両親の方だったのだ。

「許せない」

 朱音が低い声で呟いた。

「私のたった一人のお姉ちゃんを、道具にするなんて。……私、これを知った時、絶対にお姉ちゃんを助け出すって決めたの」

 朱音は私の震える手を両手で包み込み、真剣な眼差しで私を見つめた。

「お姉ちゃん。このまま家に帰ったら、一生あの人たちの奴隷だよ。……私と一緒に逃げよう?」

 その提案は、暗闇に垂らされた一本の蜘蛛の糸のように見えた。

 しかし、あまりにも突然すぎる現実に、私の心は粉々に砕け散ったままで、言葉を発することさえできなかった。




第8話 両親の思惑


 カフェの冷房が、冷や汗で濡れた肌に張り付いて寒い。

 私の目の前には、自分の名前が書かれた戸籍謄本。

 頭の中で、パズルのピースが音を立てて嵌まっていく感覚があった。けれど、それは完成させたくない、おぞましい絵だった。

「ねえ、お姉ちゃん。不思議に思ったことない?」

 朱音は冷めた紅茶を一口飲み、静かに問いかけた。

「お姉ちゃんは真面目だし、絵の才能もある。それなのに、どうして五年間も『あと一歩』から先に進めなかったのか」

「それは……私が弱くて、ダメな人間だから……」

「違うよ」

 朱音はきっぱりと否定した。

「進めなかったんじゃない。足を引っ張られてたの。全力でね」

 朱音の瞳が、冷徹な光を帯びる。

「例えばさ、三年前。お姉ちゃんが初めて『通信制の学校でデザインを学びたい』って言った時のこと、覚えてる?」

 覚えている。

 勇気を振り絞って両親に相談した夜だ。

「あの日、お母さんなんて言った?」

「……『素敵な夢ね。でも、まだ時期尚早よ』って。『もし課題のプレッシャーでまた体調を崩したら、取り返しがつかないことになる』って泣かれて……」

「そう。そしてお父さんは『金ならいくらでもあるから、慌てて資格なんて取る必要はない』って言ったでしょ?」

 その通りだった。

 両親はいつだって「賛成」の顔をして、結論としては「現状維持」を求めた。

 『オンラインカウンセリングを受けたい』と言った時は、『ネットの医者は信用できない、お母さんが話を聞いてあげるから』と止められた。

 『散歩の距離を伸ばしたい』と言った時は、『最近、近所で不審者が出たらしいぞ』と父が脅した。

「全部、嘘だよ」

 朱音は吐き捨てるように言った。

「お姉ちゃんが回復したら困るんだよ。もしお姉ちゃんが自信をつけて、外に出て、友達を作って、自分の頭で考え始めたら……『なんで勝手に結婚させられてるの?』って気づいちゃうかもしれない」

「……っ」

「だから、生かさず殺さず、飼い殺しにする必要があった。お姉ちゃんを無力な子供のままにしておくために、自尊心を削り続けて、依存させるように仕向けてたんだよ」

 胃液がせり上がってきた。

 口元を手で覆う。

 あの日々の、温かい言葉の数々。

 『無理しないで』

 『そのままでいいのよ』

 『ママが全部やってあげる』

 それは救済の言葉ではなかった。私の足を折って、歩けなくするための呪いの言葉だったのだ。

 私は「守られていた」のではなく、「看守」に監視されていた囚人だった。

「あの人たちは、お姉ちゃんの人生なんてどうでもいいの。大事なのは、大河内家の遺産数億円。それが手に入るまで、お姉ちゃんという『器』を綺麗に保管しておきたいだけ」

 朱音はテーブルの上で手を組み、哀れむように私を見た。

「お姉ちゃんは、両親にとって『愛娘』じゃない。高利回りの『金融商品』なんだよ」

 ガタガタと、テーブルが揺れた。

 私の震えが止まらないからだ。

 怒り、悲しみ、恐怖。それらが混ざり合って、ドロドロとした吐き気に変わる。

 信じていた。歪んでいても、愛情だと信じていた。

 自分がダメだから、親に迷惑をかけていると信じていた。

 でも、違った。

 私がダメだったんじゃない。

 私が立ち上がろうとするたびに、微笑みながらその足をハンマーで砕いていたのが、あの両親だったのだ。

「……許せない」

 喉から、しぼり出すような声が出た。

「私、五年も……八年も……あの家で、ずっと自分を責めて……」

「うん。もう十分だよ。お姉ちゃんは頑張った」

 朱音は席を立ち、私の隣に移動して肩を抱いた。

「もうあの家には戻らなくていい。私のマンションにおいで。すぐに荷物をまとめて……」

「でも!」

 私はハッとして顔を上げた。

「仕事の道具……パソコンとか、描きかけのデータとか……全部あそこにあるの。あれがないと、私、仕事もできない」

「……あー、そっか。機材があるのか」

 朱音は少し考え込み、そして真剣な顔で頷いた。

「分かった。じゃあ、一度だけ戻ろう。でも、絶対に普段通りにしてて。気づかれたら何をされるか分からないから」

「う、うん……」

「必要最低限のものだけ持って、深夜、私が迎えに行くまでの辛抱だからね」

 朱音の言葉に、私は深く頷いた。

 怖い。家に戻るのが死ぬほど怖い。

 けれど、もうあの家は「我が家」ではなかった。

 欲と嘘で塗り固められた、魔女の棲む家だ。

「大丈夫。私がついてる。絶対に助け出すから」

 妹の力強い言葉だけが、今の私の唯一の命綱だった。

 私は震える足で立ち上がった。

 これが最後の帰宅だ。

 そう心に誓って。






第9話 発覚と軟禁


 玄関のドアを開けた瞬間、胃が縮み上がるような空気を感じた。

「……ただいま」

 なるべく普段通りの声を意識したつもりだった。

 けれど、靴を脱ぐ指先が震えている。

 朱音との密会から一時間後。私は「仕事道具を取りに戻る」というミッションのためだけに、魔窟へと足を踏み入れた。

「おかえりなさい、沙耶ちゃん」

 リビングから母が出てくる。

 その顔は笑っていた。いつもの、慈愛に満ちた笑顔だ。

 けれど、今の私にはそれが能面のようにしか見えない。この笑顔の下で、私を数億円の通帳として計算しているのだと思うと、寒気がした。

「遅かったわね。コンビニに行くだけって言ってたのに、一時間も」

「う、うん。ちょっと……外の空気が気持ちよくて、遠回りしちゃって」

「そう」

 母が私に歩み寄る。

 逃げたい衝動を必死に抑えて、私は立ち尽くす。

 母は私の目の前で立ち止まり、スン、と鼻を鳴らした。

「……いい匂い」

 母の目が、私の瞳を覗き込む。爬虫類のような、瞬きのない目。

「沙耶ちゃん、こんな高い香水、持ってたかしら?」

 心臓が跳ね上がった。

 朱音だ。別れ際に抱きしめられた時、彼女の香水の香りが移ったのだ。

「ち、違うの。これは、すれ違った人が……」

「嘘よ」

 母の声が低くなった。

「コンビニのレシート、見せて?」

「え……」

「買い物したんでしょう? 見せてちょうだい」

 母の手が伸びてくる。私のポケットを探ろうとする。

 拒絶すれば怪しまれる。でも、ポケットにはカフェのレシートが入っている。

 私が後ずさると、母の表情が一変した。

「まさか、あの子と会ってたの?」

 空気が凍りついた。

「お母さん、見てたのよ。コンビニから出てきた沙耶ちゃんが、誰かと話してるのを。……あれ、朱音でしょう?」

 見られていた。

 朱音は「撒いた」と言っていたけれど、母の執着心はそれを上回っていたのだ。

 私は恐怖で声が出ない。

「答えなさい! あの子と会ったのね!? 何を話したの!?」

 母が私の肩を掴んで揺さぶる。爪が食い込み、痛みで顔が歪む。

「痛い、お母さんやめて……!」

「あの子は悪魔なのよ! 沙耶ちゃんを騙そうとしてるの! 何を吹き込まれたの!? まさか、家を出ようなんて考えてないわよね!?」

 母の絶叫を聞きつけ、奥の書斎から父が出てきた。

「どうした、騒々しい」

「あなた! 沙耶ちゃんが、朱音と接触したみたいなの! 毒されたのよ、あの子に!」

 父の目が鋭く光った。

 彼は無言で私に近づくと、私のジーンズのポケットに強引に手を突っ込んだ。

 抵抗する間もなく、カフェのレシートと、そしてスマホが抜き取られる。

「あ、返して……!」

「やはりな。カフェで一時間も話し込んでいたのか」

 父はレシートを握りつぶし、私のスマホを冷ややかに見下ろした。

「沙耶、お前のためを思って言っているんだ。朱音は危険だ。お前を唆し、我々の家庭を壊そうとしている」

「違う! 朱音は……!」

「口答えをするな!!」

 父の怒鳴り声に、私は萎縮する。

 父はそのまま、私のスマホを自分のポケットにしまった。

「しばらく、外部との接触は禁止だ。スマホは預かる」

「そ、そんな……仕事の連絡が……」

「仕事? あんな遊び、もうやる必要はないだろう」

 父は二階へと上がり、私の部屋へと入っていった。

 嫌な予感がして、私も慌てて追いかける。

 部屋に入ると、父は私の机の上にあったペンタブレットとノートパソコンの電源コードを引き抜いているところだった。

「やめて! それがないと私……」

「刺激が強すぎるんだ。お前はまだ病気なんだから、治療に専念しなさい」

 父は私の商売道具を無造作に抱えると、部屋を出て行こうとした。

 私はすがりつこうとしたが、後ろから母に羽交い絞めにされた。

「離して! 泥棒! 私の人生を返してよ!!」

 私が叫んだ瞬間、パチン、と乾いた音がした。

 母が私の頬を叩いたのだ。

 頬が熱い。

 母は、涙を流しながら私を見ていた。

「どうしてそんな酷いことを言うの……? ママは、沙耶ちゃんを守ってるだけなのに……」

 完全に狂っている。

 叩いたのは母なのに、まるで自分が被害者のように泣いている。

 彼女の中では、本気で「朱音というウイルスから娘を隔離治療している」つもりなのだ。

 ガチャリ、と部屋のドアが外から閉められた。

 鍵穴が回る音がする。

 私の部屋のドアノブには、以前から「徘徊防止」という名目で外鍵がつけられていた。それが今、本来の用途――監禁のために使われたのだ。

「開けて! 開けてよ!!」

 ドアを叩くが、反応はない。

 窓には転落防止の柵がある。

 スマホもない。パソコンもない。

 完全な密室。

 静寂だけが残された部屋で、私は床に崩れ落ちた。

 恐怖と絶望で震える中、朱音の言葉だけが頭の中でリフレインしていた。

 『深夜、私が迎えに行く』

 

 ……本当に来てくれるの?

 スマホも没収された今、連絡する手段はない。

 もし朱音が来なかったら、私は一生この部屋で、資産価値のある家畜として飼い殺される。

 日が暮れていく。

 部屋が闇に包まれていく中で、私は膝を抱え、ただ妹の足音だけを待ち続けていた。



第10話 脱出計画


 暗闇の中で、私は膝を抱えてうずくまっていた。

 スマホも時計も奪われた部屋では、今が何時なのかも分からない。

 階下からはもう物音はしなかった。両親は眠ったのだろうか。それとも、ドアの向こうで聞き耳を立てているのだろうか。

 想像するだけで、吐き気がした。

 ――深夜、迎えに行く。

 朱音のその言葉だけが、暗い海の底に垂らされた一本の光だった。

 けれど、もし来なかったら?

 もし、家の周りを父が見張っていたら?

 悪い想像ばかりが膨らみ、涙が枯れるほど泣いた目は痛かった。

 コン。

 小さな、硬質な音がした。

 私はビクリと顔を上げる。

 音はドアからではない。窓の方からだ。

 コン、コン。

 風ではない。明らかに、誰かの意思を持ったノックだ。

 私は震える足で立ち上がり、カーテンの隙間から外を覗いた。

 二階の窓の外。そこにはあり得ない人影があった。

「……っ!」

 朱音だ。

 彼女は窓枠に手をかけ、ペンライトの小さな明かりを自分の顔に向けて合図していた。

 私は慌てて窓の鍵を開け、サッシを引き上げる。

 湿った夜風とともに、朱音の鋭い声が飛び込んできた。

「静かに。……脚立かけてるけど、足場悪いから気をつけて」

「あ、朱音……本当に、来てくれたの……?」

「当たり前でしょ。約束したもん」

 朱音は黒いパーカーに動きやすいパンツ姿。背中にはリュックを背負っていた。

 下を見ると、庭の植え込みの間に、伸縮式の梯子がかけられているのが見えた。準備が良すぎる。まるで、こうなることを最初から想定していたかのように。

「さあ、来て。荷物は?」

「な、ないの。全部取り上げられちゃって……」

「チッ、あのクソ親……。まあいいや、身一つで十分。早く」

 朱音が手を差し出す。

 私はためらった。ここは二階だ。落ちたら怪我では済まない。

 それに、この窓を越えれば、もう二度とこの家には戻れない。三十年間、私を縛り、そして守ってきた(つもりになっていた)揺り籠からの、完全な決別だ。

「お姉ちゃん!」

 朱音の焦った声が響く。

「今逃げなきゃ、一生ここだよ! あの人たちの玩具で終わっていいの!?」

 玩具。

 脳裏に、優しく微笑む母の爬虫類のような目と、戸籍謄本の文字が浮かんだ。

 嫌だ。

 私は唇を噛み締め、窓枠に足をかけた。

「……行く。私を連れてって」

 震える手を伸ばすと、朱音がガシッと強く握り返してくれた。

「信じて。私が絶対守るから」

 その力強さに引かれるように、私は空中に身を乗り出した。

 梯子に足をかける。ガタガタと揺れる恐怖。けれど、上から朱音が支えてくれている安心感が勝った。

 一歩、また一歩。

 地面に足がついた瞬間、膝から力が抜けて座り込んだ。

「よし、急ごう」

 朱音は私を立たせると、手早く梯子を縮めて脇に抱えた。

 私たちは泥棒のように、中腰で庭を駆け抜けた。

 リビングの窓は真っ暗だ。両親は気づいていない。

 門を出て、少し離れた路地に停めてあった黒い軽自動車の助手席に、私は押し込まれた。

 朱音が運転席に乗り込み、静かにエンジンをかける。

 車が走り出す。

 窓の外を流れる景色の中に、見慣れた家の屋根が遠ざかっていく。

 腐敗した家。私の牢獄。

 それが闇に溶けて消えた瞬間、張り詰めていた糸が切れ、私は声を上げて泣き出した。

「うああああ……っ!」

「よしよし、もう大丈夫。怖かったね」

 朱音はハンドルを握りながら、優しい声で言った。

「もう誰も追いかけてこないよ。お姉ちゃんは自由になったの」

「あ、ありがとう……朱音、ありがとう……ッ」

「いいの。私たち、二人きりの姉妹だもん。助けるのは当然だよ」

 車のライトが、伸びていく夜道を照らす。

 私は助手席で体を小さく丸め、妹への感謝と信頼で胸をいっぱいにしていた。

 私にはもう、世界に朱音しかいない。

 朱音だけが、私を人間として扱ってくれた。私のヒーロー。

 横目で朱音を見る。

 彼女は真剣な眼差しで前を見据え、口元に微かな笑みを浮かべていた。

 それは「姉を救えた安堵」の笑みに見えた。

 ――その時の私には。

「……さてと」

 朱音が独り言のように呟く。

「これでやっと、私の手元に来たね」

「え? 何か言った?」

「ううん。これから私の部屋に行くけど、狭いから我慢してねって言ったの」

「ううん、いいの。朱音といられるなら、どこでもいい」

 私は涙を拭い、深くシートに体を沈めた。

 エンジンの振動が心地よい子守唄のように響き、極度の緊張から解放された私は、深い眠りへと落ちていった。

 隣で妹が、どんな目をしていたのかも知らずに。





第11話 姉の新しい日々


 目が覚めると、そこは真っ白な天井だった。

 カビ臭い畳の匂いも、階下から聞こえる母の足音もしない。

 窓から差し込む朝の光が、洗練されたフローリングの床を照らしている。

「あ……私、逃げたんだ」

 昨夜の記憶が蘇る。

 ここは朱音のマンションだ。都心の高層階にあるワンルーム。

 余計なものが一切ない、モデルルームのように整えられた部屋。

「おはよう、お姉ちゃん。よく眠れた?」

 キッチンから、エプロン姿の朱音がコーヒーのいい香りと共に現れた。

「あ、おはよう……ごめん、私、寝坊しちゃって……」

「謝らないで。ここでは好きなだけ寝てていいし、好きなことをしていいの。誰も文句なんて言わないよ」

 朱音は焼きたてのトーストとサラダをテーブルに並べる。

 実家での食事とは違う。野菜は細かく切られていないし、私の意志でフォークを手に取ることができる。

 一口食べると、涙が出るほど美味しかった。

「美味しい……」

「ふふ、よかった。あ、そうだ。これ」

 朱音は部屋の隅にあったダンボール箱を指差した。

「開けてみて」

 おずおずと箱を開ける。

 中に入っていたのは、最新型の液晶タブレットと、高性能なノートパソコンだった。

「えっ……これ……」

「お父さんに没収されちゃったんでしょ? だから買っておいたの。私が仕事で使ってるのと同じ、プロ仕様だよ」

「で、でも、こんな高いもの……」

「いいの。これは『投資』だから」

 朱音は私の目をまっすぐに見て微笑んだ。

「お姉ちゃんの絵には才能がある。あの家で腐らせておくのは、世界の損失だよ。だから、これからは私のために……ううん、お姉ちゃん自身のために、たくさん描いてほしいの」

 投資。私のために。

 胸が熱くなった。

 両親は「絵なんて遊びだ」と言って取り上げた。けれど朱音は、高価な機材を与えて「描け」と言ってくれる。

 初めて、私の存在価値を認めてもらえた気がした。

「ありがとう、朱音……! 私、頑張る。お金もいつか絶対返すから」

「焦らなくていいよ。さあ、セットアップ手伝うね」

 それからの日々は、夢のように過ぎていった。

 朱音は日中、会社へと出勤する。

 私はその間、快適な部屋でひたすら絵を描く。

 掃除も洗濯も、食事の用意も、すべて帰宅した朱音がやってくれた。

 私が「手伝うよ」と言っても、朱音は首を横に振る。

「お姉ちゃんの手は、絵を描くための大事な手だから。家事で荒れさせたくないの。クリエイターは制作に集中するのが仕事だよ」

 そう言って、私の手にハンドクリームを塗ってくれる。

 至れり尽くせりだった。

 私はただ、座って絵を描くだけでいい。

 完成したイラストを朱音に見せると、彼女は目を輝かせて絶賛してくれた。

「すごい! やっぱりお姉ちゃんは天才だよ! この色彩感覚、今のトレンドにぴったりハマる」

「そ、そうかな……」

「うん。これなら、私の会社の案件も頼めるかも。お姉ちゃん、私の仕事手伝ってくれる?」

「もちろんだよ! 私でいいなら何でもやる!」

 私は嬉しくてたまらなかった。

 妹の役に立てる。社会と繋がれる。

 あの暗い部屋で死んでいた私が、今はこうして光の中にいる。

 朱音は、描き上がった私の絵をデータフォルダに保存しながら、満足そうに呟いた。

「うん、素晴らしい生産性だね。これならすぐに元が取れ……ううん、人気が出るよ」

「え?」

「なんでもない。お姉ちゃんが元気になってくれて嬉しいなって」

 朱音はニコリと笑うと、私の頭を優しく撫でた。

 その手つきは、どこかペットを可愛がる飼い主のそれに似ていたけれど、今の私にはそれが心地よかった。

 夜、ふかふかのベッドに入りながら思う。

 お父さんとお母さんは今頃どうしているだろう。

 怒っているだろうか。探しているだろうか。

 でも、もう関係ない。ここには頑丈なオートロックがあるし、何より朱音がいる。

 私はこれまでの人生で一番、深く満たされていた。

 朱音は私の救世主だ。

 彼女になら、私の人生のすべてを預けてもいい。

 そう心から信じて、私は眠りについた。

 リビングの明かりの下で、朱音が私の戸籍謄本や、真新しい銀行口座の通帳――名義は私だが、印鑑は朱音が持っている――を並べて、電卓を叩いていることなど、知る由もなく。








第12話 最終話 妹の独白


 寝息が聞こえる。

 ベッドの上で、お姉ちゃんは泥のように眠っている。

 その顔は、憑き物が落ちたように穏やかだ。きっと今頃、私という騎士に救い出されたお姫様のような気分で、幸せな夢でも見ているのだろう。

「……チョロいなあ」

 私はワイングラスを揺らしながら、思わず失笑した。

 あまりにも計画通りすぎて、拍子抜けするレベルだ。

 私は机の上の電気スタンドだけをつけ、並べられた書類の山を眺めた。

 『大河内巌 遺産目録』

 『成年後見人申立書』

 『沙耶の銀行通帳』

 そして、お姉ちゃんの『委任状』。

 あの両親は、本当に馬鹿だった。

 お姉ちゃんという「金のなる木」を手に入れながら、その扱い方をまるで分かっていなかった。

 あんな風に閉じ込めて、精神を壊して、ただ生命維持させるだけなんて、資源の無駄遣いだ。

 

 私は違う。

 私は、ずっと待っていたのだ。この果実が熟すのを。

 五年前。私が家を出たあの日。

 あれは感情的な爆発なんかじゃなかった。

 和真? あんな男、最初からどうでもよかった。彼を利用して「家族崩壊」の決定打を作り、私が「被害者」として堂々と家を出るための口実にしただけだ。

 あの泥舟じっかにいたら、私も共倒れになる。

 だから一度距離を置き、外で力をつけ、両親が老い、お姉ちゃんが限界を迎えるタイミングを虎視眈々と狙っていた。

 予想外だったのは、お姉ちゃんがイラストレーターとして芽吹いたことだ。

 調査会社からの報告を見た時、私は震えたよ。

 遺産という一時金だけでなく、継続的な「労働力」としての価値までついたのだから。

「お父さんたちは、育て方を間違えたんだよ」

 私は眠る姉に向かって、小さく囁きかけた。

 恐怖や罪悪感で縛るのは、二流のやり方だ。そんなことをすれば、生産性は落ちるし、いつか反乱が起きる。

 本当に人を支配したいなら、「肯定」と「快楽」を与えるべきだ。

 『あなたは素晴らしい』『あなたが必要だ』と囁き、快適な環境を与え、自尊心を満たしてやる。

 そうすれば、家畜は自ら喜んで乳を出し続ける。

 

 脱出劇の演出も、完璧だったでしょう?

 敵(両親)を強大で恐怖の対象にし、私(妹)を唯一の理解者として登場させる。

 吊り橋効果と救世主幻想。これでお姉ちゃんの依存先は、100%私に移った。

 戸籍上の夫である大河内の爺さんは、あと数ヶ月も持たないだろう。

 彼が死ねば、数億円の遺産はお姉ちゃんのものになる。

 でも、お姉ちゃんは金銭管理なんてできない。私が「全権」を委任されているからね。

 両親には一銭も渡さない。あの人たちは、抜け殻になった家で、せいぜい老後を悔やめばいい。

 私は、お姉ちゃんの描きかけのイラストをモニターに映し出した。

 繊細で、どこか儚げな少女の絵。

 確かに才能がある。私の会社の看板作家として、死ぬまで描いてもらおう。

 可哀想なお姉ちゃん。

 あなたは「家族という檻」から脱出したと思っているけれど、違うよ。

 あなたは、より頑丈で、より快適な、「私という檻」に引っ越してきただけ。

 でも、安心して。

 私は両親とは違う。

 ちゃんとメンテナンスもするし、適度なやりがいも与えるし、優しく愛してあげる。

 だって、あなたは私の大事な、大事な……

「――私の『所有物』なんだから」

 私は満足げに微笑むと、通帳を金庫に入れ、重厚な音を立てて鍵をかけた。

ガチャン。 それはまるで、牢獄の錠が下りる音に似ていた。

 夜明けは近い。

 私たちの「幸せな」姉妹生活は、まだ始まったばかりだ。

(完)

最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!

『優しい妹の飼育箱』、これにて完結です。


姉の沙耶にとっては、これが一番の「幸せ」なのかもしれません。

全てを知った上で管理する妹と、何も知らずに愛される姉。

この「飼育箱」の鍵は、もう二度と開くことはないでしょう。


もし、この物語を楽しんでいただけましたら、

最後にページ下部(スマホ版はさらに下)にある【☆☆☆☆☆】のマークから、評価をしていただけると泣いて喜びます!


「ゾッとした」「妹のヤバさが良かった」「面白かった」

など、どのような評価でも作者の大きな力になります。


★★★★★(星5つ)をいただけると、最高に幸せです!


感想やレビューもお待ちしております。

読者の皆様のおかげで、ここまで書ききることができました。

本当にありがとうございました。



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