乳母車の女
あれは小学生の頃だったか。
よくは憶えていないが、いまだに鮮明に憶えていることだある。矛盾している? そうだね。そうなんだ。だから憶えているんだ。それがあまりにも奇妙なことだから。
その日は確か、夏の蒸し暑い日だった。私の寝ている部屋は、二階の道路に面した部屋である。部屋にエアコンなどなく、扇風機さえあったかどうか憶えていない。ただ、蒸し暑い日だった。
部屋の電気を消していても、街灯の明かりが遮光カーテン越しに部屋の中に入ってくる。これは私だけかどうかわからないが、部屋の照明を消しても真っ暗にならないことにより、かえって夜の不気味さ、恐怖を助長していた。考えてみてほしい。外から照らされているということは、その光によって、外から誰かがみている可能性もあるとはいえないだろうか?
時間は何時だか憶えていない。熱帯夜というやつで、気持ち悪さに度々目覚めることはあった。目覚める度に時間を確認するというのも(よく、この手の話で聞くだろうが)、不自然というものだ。ひとついえることは、皆が寝静まっている時間ということであろうか。一階からテレビの音が聞こえないし、近所の家からの生活音も聞こえず、動物も寝静まっていたというのは憶えている。
そういった、よくある蒸し暑い夏の夜、よくある真夜中に目が覚めたというとき、それをみた。
実家の前の、細い道路を、何者かが通っている。
硬いゴム製の車輪がアスファルトを撫でる音が響く。その音がまず複数だったため、四輪であろうと思われる。なぜかそう、みえた。
そしてその車輪を押している”なにか”を感じた。その”なにか”は、人であろうと思われる。裸足で歩くときの、皮膚が大地と拍手すような音が、ゆっくりと聞こえてきたからだ。足音は、噛み締めるように、ゆっくり、ゆっくりと、響いてくる。
肉眼ではその光景を見ていない。だが、気配で”見える”のだ。足音でその人が誰であるかや、その状態がなんとなくわかってしまうようなものに似ているのかも知れない。
そのとき見えたものは、濃紺の幌が張られた乳母車を、若い女が押している姿だった。
女は白いワンピースを着ており、腰まで伸びた黒髪が印象的だった。体型は痩せており、顔は……怖くてそれ以上、その気配を掴もうと思わなかった。その怖さというのが、こちらに見るよう、見るよう、執拗に誘う不気味さを伴っていた。まるで、みたらそのまま連れていかれてしまうような、そういう怖さだった。
これを書いていて気付いたのだが、その乳母車に、なにが乗っていたのか。私はつい今まで考えたこともなかった。
ただじ……っと息を殺して、”なにか”が去るのを待った。
”なにか”は、立ち止まることなく、だがゆっくり、ゆっくり、こちらが好奇心に負けて顔を出すのを待つかのように、ゆっくりと、道路を歩いて行った。実際に私は何度も、カーテンを開けて見てしまいたい気になっていた。怖がっているにも関わらず、である。
異常な状況というものは、人の感覚や判断力も異常なものにしてしまうものではないだろうか。少なくとも、そうなりやすいはずだ。そしてそのとき、私も異常な衝動を抑えるのに必死だった。震えながら、怯えながらも、好奇心に瞳は爛々と輝いていた。
結局”なにか”はそのまま去っていった。
その日以外、そういうことは一度もない。前にも後にも、その一夜限りのことである。
夢かも知れない。それでも別に構わないし、そのほうがむしろ気楽だ。
ただ、その夜のことは、いまこうして書いているように、鮮明に思い出せる。二十年以上も経つが、あの夜の蒸し暑さ、あの車輪の音、あの足音、あの乳母車の色形、あの女の歪んだ口元は、色褪せずに記憶にしがみついている。
書きながらまた思ったのだが、もしかしてあの女は、既にそのときから今この瞬間に到るまで、実家の前の道路を去ったあと、私の記憶の中に巣くってしまったのかも知れない。