後編 香りの正体、ささやかな策略
祐介は、無意識のうちに白瀬あかりを目で追うようになっていた。いつしか、彼女が教室で誰と話し、どこにいるのかが気になって仕方がなくなっていた。
(俺、これ……ただの興味じゃない。やはり……好きなんだ)
けれど同時に、彼女の周囲に漂う、どこか「作られた」ような違和感。それは、天然を装った演技なのか、計算された無垢さなのか。それとも……もっと根本的に“何かを隠している”のか。
祐介は、無意識のうちに彼女の行動や特徴をメモに記録し始めていた。昼休みに食堂でとる座席、授業のあとに寄る場所、会話の断片。そして、彼女からする香りの正体も彼なりに突き止めていた。
(……俺、何やってんだよ……)
香水の載っているスマホ画面を見つめながら、彼は苦く呟いた。
「ストーカーじゃん……これ」
今は、ただのクラスメート。特に親しいわけではなく、授業で一緒になるくらいの接点しかない。本当は、もっと近づきたい。会って、話したい。
気づけば、あかりに「疑念を持っている自分」と「惹かれている自分」がせめぎ合っていた。
それから数日、祐介は校内を歩くたびに、あのときの「ヒカル」を無意識に探していた。
だが、見かけることはなかった。
(…ほんとに、ここにいるのか?)
夢でも見ていたのかと疑うほど、存在の痕跡が何もない。クラスにも、学部にも、それらしい人物はいなかった。
放課後の図書館。静けさが支配する空間に、キーボードのタイピング音だけが響く。祐介はPCに向かい、学内名簿や部活動のメンバーリストを次々と検索していた。
(……やっぱりいない)
当然だった。そもそも名前すら知らないのだ。
(あの時、確かに男子更衣室で会った。シャワー室から出てきたあいつとすれ違って)
声を聞いたはずだ。「シャワーのお湯出なかったよ」――そう言っていた、ような気がする。
(だけど、声も顔も……もう、うろ覚えなんだよな)
細身で、やや背が高く、どこか中性的な印象だったが、その姿の記憶は徐々に薄れていく。
(一体、誰なんだ、あいつは)
記録もなければ、写真も残っていない。声もはっきり覚えているわけではない。唯一残っているのは、記憶の中の「既視感」だけ。
そして――あの時に微かに香った、身近で嗅いだことのある優しい匂い。
(あれ……やっぱり白瀬と、同じ香りだった……気がする)
まさか、とは思っている。だけど、ヒカルの中性的な雰囲気や、恥ずかしそうな表情には、白瀬あかりの面影が微かにあった。
でも――
(そんなわけ、ないだろ……)
仮に白瀬あかりが男装していたとして、何のために? なぜあのタイミングで男子更衣室に? しかも、そんな完璧な男装をどうやって? 髪は短かったし、体型だって華奢だったけど、男だったはずだ。双子の兄弟でもいるのか? そうだとしても、なぜあそこに?
合理性がない。証拠もない。考えても、ろくな結論には至らない。ただ、心のどこかで引っかかっているだけ。
(俺……まじで何してんだろ)
自分がしていることがストーカーじみているとようやく気づき、数少ないあかりの写真が映ったスマホの画面を消した。マウスを握っていた手が、じんわりと汗ばむ。 「……はぁ」
祐介はヒカルの調査を諦め、本棚の間の狭い通路を入口へ向かう。そのとき、すれ違いざまにふわりと、あの香りが鼻先をかすめた。
――同じ匂いだ。
祐介が振り返ると、一人の女性が静かに本棚を眺めていた。顔はよく見えない。 彼女がふと視線をこちらに向けた瞬間、祐介と目が合った。
その女性は、淡いラベンダー色のシンプルなワンピースをまとい、静かで洗練された空気をまとっていた。年齢は大学生より少し上で、おそらく20代後半だろう。肩より少し上のラインで整えられたショートボブの髪は、自然に内側へまとまり、落ち着いた栗色が光を受けてやわらかな艶を帯びている。耳元のイヤリングが、動きに合わせてさりげなくきらりと光を返した。
落ち着いた肌の色合いに、ごく薄いメイクが整った目鼻立ちに知的な陰影を与えている。眼差しには確かな強さがありながら、唇には柔らかな笑みが浮かんでいた。静けさの奥に潜む謎めいた魅力が、彼女の存在を際立たせる。
控えめな可愛らしさを持つ白瀬あかりとは異なり、この女性は**「自分をよく知る大人の女性」**という印象を強く与えた。彼女の落ち着いた大人の佇まいに、祐介はひるんだ。しかし、彼女の髪がふわりとなびいた瞬間、再びあの香りが鼻先をかすめた。
「……あの、すみません」
思わず声をかけていた。
彼女は少し驚いたようだが、冷静に問い返した。
「……はい?」
「えっと……失礼かもしれませんが、もしかして、香水をつけていますか……」
「ええ。つけていますよ」
「それって、『PHIRO』……ですか?」
彼女は微笑んだ。
「詳しいのね。私、昔からこの香りが好きなの。清潔感があって、心も落ち着けて。」 「でも、なぜ?」
その柔らかい声に、祐介は少し戸惑いながらも続けた。
「実は……前に、その香りをつけていた人と会ったことがあって」
「……そうなの」
「男性なんですけど……その、匂いが、すごく印象に残ってて……」
白瀬あかりのことは言わなかった。
「この香水、男性向けもあるの。SNSでも男女問わず人気だし、私の知人の男性も使ってる。“少しフェミニンでやわらかな香りが、自分の雰囲気に合う気がする”って言ってたわ」
さらりと、どこか余裕のある口調で、彼女はそう言った。
祐介は彼女の落ち着いた物言いに促されるように俯いた。香りだけで思い込んでいた自分が、恥ずかしく思えた。たった一度会っただけなのに、なぜこんなにも気になってしまったのか。
ヒカルが白瀬と同じ香りを纏っていた――それが祐介に疑念を抱かせた最初の引き金だった。しかし今は、その香水が広く使われていることを他人である彼女から知らされ、自分の早とちりを思い知らされた。自分でも男性用があることはなんとなく調べていたはずだった。それにもかかわらず、香りとともに甦るヒカルについての微かな記憶が、祐介の中にまだ残っていた。
……たぶん、それは思い込みなのだと、自分に言い聞かせた。
「……すみません。急に変なことを聞いたりして」
「いいえ。突然で少し驚いたけれど、気にしなくて大丈夫よ」
「あなたの周りにも使っている人、いるんじゃない?」
「え、はい」
「その香りの持ち主、気になるんでしょう?」
「え、いやそんなことは、いや、まあ……」
「香りって、記憶と強烈に結び付くの。ときに人を惑わすほどに。だからこそ、誤解も生むのよ」
「……はい」
彼女は軽く会釈をして、その場を後にした。
去っていった彼女の残り香がまだ空気に漂っていて、祐介はそれを思わず吸い込んだ。それはもはや疑念のためではなく、名残惜しさにも似た感情だった。
自分がどこまで本気で、誰を見ようとしていたのか――そんな漠然とした感情を抱えながら、祐介はその場から動けずにいた。やがて彼女の姿が建物の奥へと消えていく。
化粧室の鏡の前に立ったあかりは、ふうっとひとつ息をついた。胸元を軽く押さえ、小さく呟く。 「……うまくいったかな。これで、祐介くんの香りの疑念も晴れるかな……」
彩香への変身を解いたあかりは、鏡に映る素の自分を見つめた。
(自分ながら、彩香って本当にすごい。私もあんな風に、知的で冷静で、強さを持った女性になれたら……)
彩香は、あかりが創り上げた理想の女性像。ヒカルと同様、実在しないが、変身できる限られた姿のひとつだ。この姿になると、別人格になれるからだろうか、不思議と心が落ち着き、自信が持てる。それは、理想に少しだけ近づける時間でもあった。
(祐介くん……私のこと、どう思ってるんだろう)
(でも、もし、祐介くんが彼女に惹かれたら――)
胸に小さな痛みが走る。
長い髪の束を指先でつまみ、鼻先に寄せる。そこにはまだ、あの香りが残っていた。 (……考えすぎだよね)
化粧室を出ると、遠くに祐介がまだそこに立っているのが見えた。
もう彼は、ヒカル(あかり)を追うことはないだろう。そう思うと、胸に安堵が広がる一方で、ほんの少しだけ寂しかった。
彩香という姿を選んだのは、祐介の疑念の引き金である香りの共通性を逆手に取りたかったからだ。ヒカル=あかり=彩香という関係をあえて作り、ヒカル=あかりと考えるのは早計だと悟らせる。祐介をあの香りに誘い込み、それが男女問わず使われているものとして他人(彩香)から説明すれば、彼の疑念は薄らいでいく。説得力と冷静さを備えた彼女なら、あかりの存在を感じさせずに祐介を納得させられると思った。
それでも――この香りは、祐介の**“記憶の断片”**として残しておきたかった。確信には至らないけれど、どこかに引っかかる。彼のそんな微細な感情の揺らぎを生むことが、あかりなりのささやかな策略――いや、名残惜しさだった。