第1話 変わる私、変わらない香り
「……やっぱり、水泳って落ち着く。調子も悪くないし」
プールサイドの水面が午後の日差しに揺れていた。
白瀬あかりは、紺色の競泳水着に身を包み、濡れた髪を無造作にタオルで拭きながら、ぺたぺたと素足で静かなコンクリートの床を歩く。
肩より少し下まで伸びた茶味がかった柔らかな黒髪は、普段は鼈甲色のバレッタでハーフアップにしている。水泳のあとで髪を下ろした姿は、頬にかかる毛先が少しだけ素顔を照れ隠ししているようだった。
瞳は柔らかな茶色で、どこか控えめな雰囲気がにじむ。整った顔立ちではあるが、目立ちたがり屋とは程遠く、むしろ“人の気配を読み取る”ような繊細な空気をまとっていた。華奢ながら均整の取れた姿が目を引く。
歩く姿も穏やかで、周囲からは真面目で優しいと評されることが多い。その印象の奥には、時折見せる天然さが光を落とす。
「水温、適正。呼吸制御、問題なし……感情レベル、安定。やっぱり、水泳は優秀な調整手段だね」
誰に向けるでもなく、データのような口調でそうつぶやいた。
彼女――白瀬あかりにとって「体育(水泳)」は、観察対象との接点であり、自己の安定性を確保するための“処置”でもあった。
彼女の“生活”は、人間の感情を学習するために設計されたプログラムの一部。大学に通い、日常を送り、人とふれ合う――すべては実地学習。人間のふるまいや感情の機微を、経験として記録し、解析するために。
(感情安定度:96%。脈拍:安定。酸素消費率:許容範囲内)
彼女の内部演算はそう示していた。
見た目は20歳の女子大生。しかし中身は、次世代高度医療研究機関によって開発された高機能アンドロイド。その身体の中には、感情制御と観察学習のための高度な演算回路が詰まっている。
しかし。
人間的な「うっかり」には、まだ対応しきれていなかった。
授業が終わり、あかりは水着姿のままロッカーに戻ろうとしていた。
(……あれ? ポーチが軽い)
何かが足りない。そう思って中を覗き込んだ瞬間、彼女の表情が変わる。
「スマホ……ない?」
記憶回路がフル稼働する。着替える直前、通知を確認していた。
――そう、たしかロッカーの上に一度置いたはず。
(脱ぐとき、上に置いたまま……?)
軽い警戒信号が、胸にじわっと広がる焦りに変わる。あかりは足早に更衣室へと戻った。 勢いよくドアを開けると、室内はしんと静まり返っていた。
(よかった、誰もいない……)
タイル張りの床に、青いロッカーが並ぶ。記憶に従ってロッカーの列を確認する。 その一角に立ち、視線を走らせる。
「たしか……このへん」
だが、微細な違和感が引っかかる。ベンチの配置が異なっている。タイル目地の並びも、微妙に記憶と異なる。
そのとき、足元に落ちていた小さな物体が目に留まる。
――使い捨てのT字カミソリ。
(え……?)
違和感が急速に形を取る。
ふと視線を入口のプレートに向ける。
【男子更衣室】
処理回路が一瞬空白になり、思考が止まった。
(ま、間違えた……!? 位置情報エラー? いや、視覚認識の誤認!?)
意識と動作が一拍遅れて反応する。 あかりはドアに向かって駆け出そうとした、そのとき――
「冷たかったな、今日の水ー!」
「着替えて飯いこうぜ」
男子たちの声が、出入口の向こうから迫ってくる。
(ま、まずいっ!)
逃げ道が塞がれた。咄嗟に足を止め、周囲を見渡す。視線の先、奥のシャワールームが目に入った。
(隠れなきゃ)
急いでシャワールームに飛び込み、カーテンを勢いよく閉める。
身につけているのは競泳用のワンピース型水着一枚。肩にかけたタオルだけが、わずかに肌を覆っていた。
(完全に……タイミング逃した……!)
水着姿のまま男子更衣室に居る――そんな事態がバレたら、騒ぎになるのは避けられない。
(なんでこんなとこ入っちゃったの私……高性能AIなのに、学習ミス……!!)
深呼吸に似たモーションで意識を落ち着かせ、決断する。
(仕方ない……ヒカル、起動)
左手首の裏にあるQRコードを、左目で静かにスキャンする。システムが一瞬で変化を認識した。電子信号が走り、骨格、筋肉、声帯、皮膚――外見のすべてが数秒のうちに変化していく。
そこに現れたのは、男性用の競泳水着を身につけた、二十歳ほどの細身の青年だった。 長い手足とすっきりした肩の線が、力強さよりもしなやかさを感じさせる。短く整えられた黒髪が額にかかり、柔らかな髪質が輪郭に影を落としていた。 顔立ちは中性的で、茶色の瞳は穏やかな二重に縁どられている。鼻筋はまっすぐに通り、口元には硬さよりもわずかな柔らかさが漂っていた。
あかりが唯一変身できる男性の姿。
(……やっぱり、この姿、まだ慣れないな)
中身はあくまでも、あかりのまま。鏡の中には、確かに“彼”が立っている。けれど、その眼差しは、あかりのそれだった。
そのとき、室内に男子たちが入ってきた。先ほどドアの向こうから聞こえてきた声の主たちだ。シャワーカーテンの外で、男子たちのざわめきが増していく。
「シャワー埋まっちゃってるな」
「まだか?」
「次、俺だからな」
待ちきれない声が重なった。
(ダメだ、このままやり過ごせそうにない……それに、早く携帯を取りに戻らないと)
置き忘れたロッカーのスマホが頭をよぎる。
ヒカル(あかり)は決断した。出るしかない。
タオルを胸の上から押さえる。男性の姿なのに、手は自然に女性のときと同じ場所を覆っていた。
(……不自然に見えるかもしれない。でも、こうなっちゃう)
恥じらいと緊張が入り混じる。
カーテンを開けると、更衣室の空気がどっと流れ込んできた。
シャワー待ちの数人が一斉にこちらを向く。
(見られてる……)
頬に火照りを覚えながら、できるだけ平静を装って一歩外へ踏み出す。
「……お湯、出なかったみたいです」
低く声を抑え、短く言葉を残す。声は違っても、話し方の癖までは消せず、柔らかさが滲んでいた。
その言葉自体は自然だが、見知らぬ顔がここにいることへの戸惑いや訝しさが、彼らの間には大きかった。「ああ、なるほど」と納得したように見えた者もいたが、誰も言葉にしなかった。 彼らの視線はなお絡みつき離れない。
(男の人たちの目……やだ、早く脱出したい)
タオルを押さえる指先に力が入り、布にしわが寄る。羞恥と焦りが、熱に変わっていく。 (普通に、歩いて、出る――ただそれだけ)
肩をすぼめ、男子たちの間を通り抜ける。わずか数メートルの距離が、扉まで遠く感じられた。
誰とも視線を交わさぬよう顎を引き、目を落とす。
内側では淡々と数値が流れる。(皮膚表面温度+0.4℃。呼気の長さを均一に――)
機械的な自己計測と制御が並走する。
「誰だあいつ?」
「見たことねえな」
背後でざわめきが生まれる。男子たちの眼差しが背中にもまとわりついてくるようだった。
そのとき、祐介は男子たちの中にいた。
ヒカルが彼らのそばを横切ると、清らかで、ほんのり甘い香りが、祐介以外の鼻先もかすめているようだった。
祐介の胸の奥に沈んでいた記憶は、不意に揺さぶられる。
すれ違ったのは、背の高い細身の青年。だが、その歩みには妙な柔らかさがあり、知っている誰かの姿と重なって見えた。目は合わなかったが、交差する瞬間、頬をわずかに染めるような表情を垣間見た。その恥じらう仕草には見覚えがあった。
「白瀬に似ている……まさか、な」
頭では否定しながらも、鼻腔に残る余韻が、その思考を振り払ってくれない。
祐介の眼差しは、出口へ向かうヒカルの背中を最後まで追いかけた。細い肩が扉の向こうに消える瞬間まで、一度も目を逸らすことはなかった。
廊下に出ると、ヒカル(あかり)はそっと息を吐いた
人気のない壁際に身を寄せ、ゆっくりと左手首の裏に視線を落とす。
(――これで、ようやく戻れる)
そう思ったはずなのに、緊張はまだ完全には抜けていなかった。手元がわずかに揺れ、持ち上げた腕が思うように安定しない。
左目でQRコードをスキャンしようとする――が、
「……あれ?」
視界に映るコードが微妙にぶれ、読み取りに失敗する。
焦ってもう一度試みるが、反応はない。
(落ち着いて、あかり。いつもどおりで大丈夫)
一度深く息を吸い、気持ちを整えてから三度目のスキャン。
ピッ――頭の奥に、かすかな読取音が響いた。
ヒカルの輪郭がゆらぎ始める。肩にかかる長い髪、丸みを帯びた柔らかな体のライン。
わずか数秒で、あかりの姿が戻ってきた。
いつもの身体に戻ったはずなのに、足元がほんの少し不安定だった。
(……逃げれたけど、もう二度と、あんな場所には入りたくない)
自嘲ぎみに笑みを浮かべる。胸の奥に沈んでいた緊張感、恥ずかしさが、まだわずかに身体の芯を締めつけていた。
あかりは軽く深呼吸し、顔を上げ、小さなくしゃみをひとつ。
そしてようやく、女子更衣室へと足を向けた。
今度は慎重に、静かにドアを開ける。中では、すでに何人かの女子が着替えを終え、髪を乾かしながら談笑している。
誰も、あかりのことを特に気にとめる様子はなかった。
彼女はほっと胸をなでおろし、自分のロッカーへ歩み寄る。
「あ……」
ロッカーの上部、少し奥――そこに、黒いスマホが置かれていた。
「……やっぱり、ここにあった」
そっと手に取り、胸に抱きしめる。黒い画面に、ぼんやりと自分の顔が映った。
濡れた髪をタオルでくしゃくしゃと拭いながら、小さく笑う。
「高性能AIでも……ドジは防げないんだなぁ」
その声は誰にも聞かれることなく、更衣室の天井に静かに吸い込まれていった。
あかりは着替えを終え、鏡の前で髪を整えていた。白の七分袖ブラウスに、淡いブルーのフレアスカート。夏らしく清楚なその装いは、まさに彼女らしい。
そのとき、女子更衣室の外の廊下から、数人の男子の話し声が聞こえてきた。古い校舎の壁は想像以上に薄く、廊下の音が意外なほど明瞭に伝わってくる。おそらく、先ほど男子更衣室にいた彼らが、着替えを終えてこちら側の廊下を通っているのだろう。
(……この壁、思ったより薄い)
思わぬ形で、彼女の耳は彼らのやりとりを拾ってしまった。
「……なあ、さっきの奴……」
「やっぱり見たことないよな」
「……てか、なんかさ、めっちゃいい匂いしなかった? 高級な石鹸みたいな」
(……!)
ヘアブラシを持つ手が止まり、あかりはぴくりと眉を動かす。男子更衣室の中――濡れた髪からふわりと立ち上る香りが、変身後も残っていたことに、あかりは改めて気づかされた。
(……そういえば、前も香りは変わらなかった)
表情には出さずとも、頬にはほんのり赤みが差していた。
(これはもう、気をつけなきゃ……次からは無香料にしようかな)
彼らの会話が続いた。
「なあ……あいつ、白瀬に似てなかったか?」
――その声は、祐介のものだった。
(……!)
(――えっ、いま……!?)
内部の回路電流の波形振幅が大きくなる。手にしたヘアブラシを握る指に、思わず力がこもった。鏡の奥に映る自分の目が、わずかに見開かれていた。
(名前……まさか、祐介くんが?)
(一瞬擦れ違っただけなのに、香り以外にも何に引っかかったの……?)
戸惑いと驚きが入り混じり、思考が渦を巻く。
すぐさま、茶化すような男子たちの声が続く。
「はーい、好きな子と全部重ねちゃうパターン〜」
「片思いフィルター発動〜」
「それはもう重症だな」
にぎやかな声が、空気を少しだけ和らげたように感じられても、あかりは動揺していた。 (……やっぱり、気をつけないと)
(何か“感覚的”なものほど、人の記憶に残りやすいのかもしれない)
鏡に映る自分が、少し苦笑する。
(祐介くん……まさかバレていないと思うけど。でも油断はできない)
そしてその奥に、別の感情が芽生えた。
(もし彼が、たとえ何かを疑っているとしても、私のことを気にしてくれているのなら)
目を伏せる鏡の中の自分に、あかりはそっと呟く。
(……なんだろう、少しだけ……うれしい)
それが恋なのかどうかは、まだ分からない。けれど、誰かが自分という存在を認めてくれる――その感覚を、否定することはできなかった。