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四話 麻衣


 姉は、私にとって優しい人間だったと思う。

 二つの部屋を行き来する人生で、「人並み」の生活を送る私を、妬んだり僻んだりするような事は、けして言わなかった。

 

「あなたは元気でいいわね。感謝しなさいね」

 

 むしろ、姉以外の人が、私に向かってそう言った。

 母しかり、親戚しかり、先生しかり知らないご近所さんしかり。

 姉の話になると、いや、姉の話にならなくても——私という存在が目に入り、彼らの中で何らかのスイッチが入る。すると、いつだって彼らは何か時間でも確認するように、私にそう言った。

 もしかしたら、姉よりも誰よりも、私の健康な体をうらやんでいたのはその人達だったのかもしれない。私が人並みに健康であることを理由に、何をしていてもまた何もしていなくても、私に感謝や謙虚さを求めたし、私に人並み以上の努力を求めたがった。

 

「あなたは本当に覇気のない子ね」

 

 結果、友達や同い年の子どもが許されることが、私は許されなかった。少し何かを面倒がることも、許されなかった。

 つくづく変な世の中だと思った。理由はわかるけれど、理解はすすんでしたくなかった。

 姉を知らない人はいい。けれど知る人は大抵、事あるごとに説教や世間話で姉を引き合いにした。

 

「もっと感謝して頑張りなさい」

「そんなに健康で恵まれているのに、お姉さんに申し訳ないと思わないの」

 

 しかしいざ頑張ってみたら、皆が褒めてくれるわけでもなかった。

 小学校の頃、満点のテストを手に、私は母に駆け寄った。

 

「お母さん、見てみて!」

 

 母は、洗濯物をたたんでいた。物思いにでもふけっていたのか、私からゆったりと顔をそらした。私はもどかしく、回り込んだ。

 

「ほら、テスト、満点だよ」

 

 さんざん、頑張れと言われた後のテストだ。私は気分が良かったし、褒めてくれると思った。今にして思えば、何でそんな浅はかな事をしたのかわからない。

 

「そう」

 

 母は、少し苛立っていた。姉のことで、思うところがあったのだろう。なのに、無神経に寄る私が、気にくわなかったのだろう。私は、気付かずに、テストを母の前に置いた。 

 

「よかったわね」

「うん!」

「あんたはなんでもできて、幸せ者ね」

 

 そう言って、洗濯物を持って、部屋を出ていった。私は、部屋に取り残された。

 また、間違えたことだけはわかった。それくらいには、大きくなっていた。 

 そしてそれは母だけじゃなかった。

 

「あなたは出来ていいわね、感謝しなさいね」

 

 そんな馬鹿なことがあるか。彼らは、私が何をやっても気にくわなかった。 

 本当のところ、私の体は姉とくっついていて、私にはそれは見えないけれど、彼らには見えているのではないか、もしくは姉に張りついた何かに私が見えているのではないか——そう思うくらいには、私の評価の影に姉が潜んでいた。

 面白いことに、私に近しい人ほどそうだった。

 

「あんたは本当、に無神経ねえ」

 

 私が学校で起こったことを、姉にあまり楽しそうに話すと、母は怒った。

 はっきり記憶にあるのは、ちょうど、姉が家に帰ってきていた日のことだった。病院に見舞うことはほぼなくなっていたけれど、家姉の部屋には、まだよく見舞っていた時期だ。

 

「お姉ちゃん、それでね、大なわ、皆で百回も続いてさ」 

「百回も?すごいねえ」

「そうなの! それでね」 

 

 私はその日、とても気分よく話せていた。

 姉も私の話に笑ってくれた。口と心が一体になったようで、いつの間にか姉より大きくなった体を存分に動かして、身振り手振りで伝えていた。

 

「みんなで毎日練習したんだよ。すごい大変だった」

「うん、うん」

 

 今思えば、確かに少し、調子に乗っていたかもしれない。話の途中で入ってきた母に、「少し手伝って」と言われた。でも、気分が良かったし、姉も聞きたいだろうと、話を終えるまで、絶対に動かなかった。

 

「お姉ちゃんも早くできるといいね」

 

 とか、何か英雄の様な気持ちで、姉を励ます言葉も言った気がする。言葉と気持ちが重なっていて、心をこめて言えたと思う。

 すると、

 

「早く来なさい!」

 

 と、追いやられるように部屋の外に出された。そうして言われたのが、「無神経」だった。

 

「よくあんな話できるわね。少しは考えなさいよ」 

 

 背をさりげなく強く叩くとか、腕をすれ違い様に強くつねるような、そんな言い方だった。

 私は一気に恥ずかしくなった。楽しかった分、その落ち込みはすごかった。

 ついでに用を言いつけられたので、すぐに戻らなくてすんだ。けれど、用が済んでも、姉の部屋のドアを開ける気がしなくて、しばらく立ち尽くしていた。ドア越しの声がやけに怖かった。

 

「私が聞きたいって言ったの」

 

 と、姉のゆっくりした調子の声が聞こえた。

 それからは、もう学校の事や、楽しいことはあまり話さないでおこう、と決めた。けれど、話さなかったら話さないで、上手くいかなかった。姉は気をつかったし、母からは「つまらない子」と言われた。

 

「お姉ちゃんと違って、ちゃんと学校に行けているのに、何もいいことを起こせてないのね」

 

 もったいない。私は流石に、ぽかんとしてしまった。それならと、また楽しい話をすると、やっぱり怒られてしまう。

 

「あんたは本当に気が利かない」

 

 ならもうどうしたらいいのか教えてよ、と言いたくなった。

 けれど、母の言い分を聞くに、これは話題そのものというより、私の話題の選択や姉へのフォローの下手さ、つまり気の利かなさが問題で怒っているらしい。

 

「考えなくてもできるでしょうに。本当にお姉ちゃんが心配じゃないのね」

 

 でも、それをどうしたら直せるのかはまったくわからない。

 何を話すべきかわからず、自分なりに考えて話しても怒られる。何度も繰り返して、自分でも呆れて、もうあきらめて黙っていることがほとんどになった。

 しかし、そんな母が私に何か話すときは、いつだって姉がらみの事で、私用の話じゃなくても話題はいつも姉のことばかりだった。

 私っていなくていいんだな。 

 そんなことを繰り返すうちに、段々面倒くさくなって、姉が家に帰ってきていても、母の知る所で、姉の近くへ行くことはどんどん減っていった。勿論、呼ばれたら行くけれど、自分からは率先して姉に会いに行かなかった。

 母は、やっぱり私を「冷たい子」と言った。


 いつだって私の頭の中にいるけど、何だかいつだって遠い。記憶の中の姉は、いつだって穏やかだった。

 その姉が、死ぬ。死ぬ——本当に死ぬのだろうか。実感はそこにある気がするのに、今一つ伴わない。だって、いつだって姉はそう言われてきたようなものだ。

 けれど、考えると胸の中が重い様な妙な気持ちになる。

 私の事を母にフォローしてくれていた姉。

 

「麻衣に、あんたの事もかまってあげてって言われたわ」

 

 母はばつが悪いというか、私に対して少し憎らしいような気持ちをにじませた口元でそう言った。そんな調子の母に、あまり構われても困った。けれど、姉が私を気遣ってくれている、という事実は申し訳なく、そして素直に尊敬した。


 姉が死ぬ、死ぬのだろうか。本当に? 私はぼんやりと思考を繰り返した。

 時間というのは恐ろしいもので、私みたいなものでも、姉の死を考えれば感じる重苦しさは、時が経つほど積もり積もって、嵩をましていった。

 そうして、今では考えるだけで、その事実は胸を押しつぶすような圧迫を私に与えるようになっていた。

 しかし、それでも母の涙や、肉親の別離に対する一般的な人間の苦しみにはとうてい及ばない気がした。

 この感情を例えるに、悲しみだとヒロイックだし、痛みだと大げさだった。ただ、足元に穴が空いたような、頼りない心地——心もとなくて、曖昧な歩行を繰り返す。その程度のものだった。





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