本編
僕は雨が好きだ。
雨が降る様。雨の匂い。雨が何かを打ちつける音。それらがとても心地よい。
学校(高校)。
午後から降り出した雨に「最悪」なんて声も聞こえてきていたけれど、当然僕にはそんなことはなかった。
雨の心地よさは、どこか落ち着いた気持ちにしてくれて集中力が増す。この状態もまた好きだ。雨を近くに感じられる窓側の席でよかったと思う。
午後の授業もすっと頭に入って終わり、放課後に自分の席でおこなっていたクラス委員の仕事もささっと片付いた。
クラスメートは皆、部活に行ったか帰宅をしたのだろう。ひとりきりの教室。
自分の席から、窓の外の雨を見る。降り始めはぽつぽつとした弱い雨だったけれど、今ではもう土砂降りだ。
そんな雨を眺めて、感慨に浸る。
自分のことながら、その雨好きがおかしくなって軽く笑みをこぼした。
それは、雨が好きなことそのものだけではなくて僕の名前も関係している。
本日快晴。
読み方を変えれば、本日快晴なんて名前をしているのに、雨が好きなんて笑える話だ。
雨に見入っていると、教室に誰かが入ってきたであろう物音がした。思わず、そちらに目をやる。
「モッチー、まだ残ってたんだ? 凄い雨だね〜」
目が合った瞬間、彼女がそう言った。
男子と話すことにも一切の抵抗がないのが見て取れる女子、雨野一雫さんだ。
僕は彼女を短縮した名字で呼ぶ人に倣って雨野さんと呼んでいる。雨野さんはといえば、僕のことを『モッチー』と呼ぶ。『もとひ』は言いづらいそうだ。
「うん。クラス委員の仕事でね」
「あらら。大変だね〜、クラス委員は。でも、ひとりじゃないでしょ? クラス委員」
「大体は部活がある人たちだから」
「由遊は? あいつ、部活に入ってないじゃん」
「『用事があるからよろしく』って帰っちゃったけれど」
雨野さんがため息をつく。
「あいつ、大した用もないくせに。あとで言っとくよ。でも、モッチーもちゃんと言わなきゃ駄目だよ。全部押し付けられる羽目になるんだから」
「はは。そうだね。でも、今日のは本当にひとりで問題ないような仕事だったから」
雨野さんがさっきと違って、軽くため息をついた。仕方ないなぁという感じだろうか。
あまり女子と話せない僕に雨野さんはよく話しかけてくれるし、こうして世話を焼いてくれたりもする。
僕が雨野さんにとって特別な存在というわけではなくて、きっと彼女の性格で誰にでもこうなのだろう。
雨野さんが僕の席の近くまで来て、窓の外の雨を見る。
「生憎の雨で、ほんと参ったよねぇ」
「う、うん」
心にもないことを言う。参っているどころか、喜んでいるくせに。
雨が好きなことを、僕はクラスメートには打ち明けていない。雨好きなだけではなく名前のこともあって、より一層おかしな奴と思われかねないからだ。
特に、自身が太陽のようで晴れが大好きそうな雨野さんに告げるのはためらわれた。
「はぁ。ほんと参った」
困った表情で雨野さんが言う。
どうしたのだろう? 雨がそんなに嫌いなのだろうか。雨が好きな僕としては、心に少し痛みが走る。
「どうしたの?」
それだけ聞いた。「雨が嫌いなの?」とまでは聞けなかった。おそらく嫌いではあると思うのだけれど、はっきりと聞いて確定事項にはしたくなかった。雨野さんに僕が否定されているような気持ちになってしまうだろうから。
「聞いてくれる?」
雨野さんがバッとこちらを向くやいなや、嬉しそうな顔でそう言った。距離が近いこともあって、ドキッとしてしまう。立っている雨野さんと違って僕は座っていて、顔の位置も同程度の高さになっていなくてよかったと思う。そうだったら、きっと顔を赤くしている。
「う、うん」
僕がまたそれだけ言うと、雨野さんは意気揚々と話し出した。
「私は放課後の用事を終えて、帰ろうと昇降口に行きました。外は生憎の雨。でも、天気予報をちゃんと見ていた私には家から持ってきた傘があります。あるはずだったのです。そう、傘立てに」
そこまで聞いて、なんとなく予想はついた。
「そしたら、なんと傘立てから私の傘がなくなっていたのです」
ああ、ほら。
「どうやら、私の傘は盗まれてしまったようです。特殊な装飾を施していたので間違えたのではないでしょう。『呪われろ』とでも書いておかなかったことを後悔しています。途方に暮れた私は、傘に入れてくれる友達がいないかと思い、教室に来たというわけです」
いたのが、友達と言えるか分からない僕でごめんね。
僕と相合傘をすることには抵抗があるだろうし、何より僕と雨野さんは学校を出てからの帰り道が反対方向だ。
間違えたのではなくて盗んだ、か。どうして傘を盗むのだろうか。
忘れた人間が傘を差して帰り、忘れなかった人間が濡れて帰る。こんな理不尽なことがあるだろうか。
『借りただけだよ。お前も借りたらいい』
なんて正気を疑うような考えを持っている人もいるらしい。
それを繰り返していったら、最後のひとり、場合によっては複数人に傘が当たらない。
なぜ忘れたお前のために『ババ抜き』みたいなことを始めなくてはいけないのか。
お前の責任を、違う誰かに背負わせるなと言いたい。
今は文句を言っても傘が降ってきたりはしないのだけれど。
「教室には持ってこなかったんだ?」
聞いた瞬間、しまったと思った。
雨野さんに非があるわけではないけれど、教室に持ってきていれば防げた面もある。でも、ここでそれを言うのは『自衛をしなかった雨野さんにも問題がある』と言っているようではないか。
「うう。持ってきたかったんだけど、登校した時に紫藤っちがいてさぁ」
気にした様子もなく、雨野さんが答えてくれる。
よかった。僕に他意がなかったように、ただの質問だと思ってくれたみたいだ。
一応、傘を教室に持ってくることは禁止されている。
僕たちのクラスの担任は緩いし、授業で来る先生の中にもあまりうるさい先生はいないので、ほとんどのクラスメートが持ってきている状態だけれど。
でも、生徒指導の紫藤先生は別だ。立場もあるのだろう、注意してくるその姿はまるで鬼のよう。あの人を前にして持ってくるのは、さすがに厳しいと思われた。
「そ、それは持ってこれないね」
「そうでしょ。捕まりたくないし。ああ、でも、どっか(放課後がくる前)で取りに行ってればよかったかぁ」
雨野さんが悔やむような顔で言う。
本当に、表情豊かな人だなぁ。
会話とあわせて、楽しくなってくる。楽しんではいけない内容かもしれないけれど。
「はぁ。テレビの大画面で観たい生配信があるのになぁ。こうなったら、濡れる覚悟で——」
意を決しそうな雨野さん。
僕はそんな雨野さんを止めるように、口を開いた。
「雨野さん、よかったらこの傘使ってよ」
窓側の席の利点を活かして壁に立てかけていた僕の傘。それを手に取って、雨野さんに差し出す。
「え? は? だって、そうしたらモッチーの傘がないじゃん」
「雨の日に傘を忘れた用にね、鞄の中に常に折りたたみ傘を入れているんだよね。だから、大丈夫」
「貸してくれるのは嬉しいけど、それなら私が折りたたみ傘のほうを使うよ。肩、出ちゃうでしょ?」
「大丈夫だよ。そんなにガッチリとした体型じゃないから。それに、貸す相手に折りたたみ傘のほうを貸すなって家訓があるから」
「ははっ。何、それ」
もちろん冗談。微かにでも、笑ってくれてよかった。
「だから、ね」
雨野さんは少し迷ったような素振りもみせたけれど、やがて僕が差し出した傘を受け取った。
「ありがと。ちゃんと明日返すね」
「いつでもどうぞ」
傘を受け取った雨野さんが、そのまま僕を見ている。どうしたのだろうか。
「途中、っていっても校門までだけど、一緒に行く?」
今日は本当に雨野さんにドキッとさせられる日だ。
でも、嬉しい申し出だけれど、それに応じるわけにはいかなかった。
「ごめん。せっかくだけれど、まだ仕事が残っているから」
終わったと言っていなくてよかったと思う。
「そっか」
「家で観たい生配信があるんでしょ? 気にしないで、お先にどうぞ」
「うん。そうさせてもらうね。傘、ほんとにありがと」
そう言うと、雨野さんは教室を後にしようと歩き出した。
そして、教室の外に出るというところで立ち止まって振り返り、笑顔で手を振ってくれた。
僕が手を振り返すと、雨野さんは再び歩き出して見えなくなってしまった。
またひとりきりの教室。
雨野さんとの楽しかったひとときを噛み締めると、僕は鞄の中を見る。
折りたたみ傘など、入ってはいない鞄の中を。
雨野さんが「鞄の中を見せて」と言ってこなくてよかった。
鞄の中を気軽に見せ合えるような仲ではないということでもあるけれど。
立ち上がって、窓の外を眺める。
雨は止むことなく、強いままだ。
ここからは、アプローチ(昇降口から校門までの間)と校門がよく見える。
ややあって、雨野さんが僕の傘を差して歩いていく姿が見えた。
雨野さんの姿が見えなくなったのなら、僕も帰るとしよう。
雨は止みそうにないけれど、構わない。
僕は雨が好きだ。
濡れて帰るのも、嫌いじゃない。