第4話 雪音家の寝室で
~寝室~
涼しい風が僕の頬をくすぶって、僕は瞼を開けた。優しい月の光が、窓から差し込んでいる。どうやら、気を失っている間に夜になっているようだった。
僕の体は布団にくるまれている。誰かが寝室に運んでくれたようだけど、瑞稀じゃ無理なはず。となると、沙月さんかな?
そう考えていると、寝室の襖が開き、中に沙月先生が入ってきた。
「あ、起きてたんですね。大丈夫ですか?」
「はい。でも、何が…」
「本、触りましたよね?」
本? あぁ、図書室整理のときに見つけた、表紙のない変な本か。
「あれには、私達が生まれるずっと昔に最凶と謳われた悪魔が封じられていたのです。おそらく、その魔力で気を失ったのだと思いますが…」
大きな瞳を細ませて、沙月先生は僕の手をじっと見つめていた。
「ちょっと良いです?」
「えっ、あ、はい」
そして、そのまま僕の右手をそっと掴んだ。瑞稀意外の手に握られることに、破裂させそうなほど胸をドキドキさせた。
だが、そんなことに気付くことなく、沙月先生は僕の右手を見続ける。
「…あの、何を…」
「ちょっと爪切らせてもらいますね。気になる事があるので」
そう言って、沙月先生はポケットに入れていたハサミで僕の人差し指の爪を切って、ハンカチに包んだ。
「これでよし。あ、晩ごはんできてるから居間に行っておいて、私はこれ置いてくるので。図書室整理は、また今度で大丈夫です」
「はい。すみません、変な本触ってしまって」
「いえ、私の管理不足が原因なので、気にしないでください。それより…同じ屋根の下で暮らすというのに、敬語で話し続けるなんて変ですよね」
沙月先生は、そう笑ってみせた。たしかに、同じ場所で暮らすというのに敬語で話す必要なんてあるのか?
でも、一応は赤の他人だし、僕は敬語でいなきゃいけないような気もする。
「ふふっ、大翔くん迷ってる。それじゃあ、私は敬語やめる。そのほうが話しやすいでしょ?」
あぁ、沙月先生の普通の話し方。なんて良いんだろう。温かくて、まっすぐで。僕の知らないものばかりを教えてくれる。
こんな人と、これからは一緒にいられるんだ。こんな僕でも、幸せになれるんだ、なって良いんだ。今までは神様から嫌われているかと思えるくらい辛かったけれど、もうおしまいなんだ。
「何ボーッとしてるの? ほら、さっさと行った行った!」
「わわっ!」
僕の背中を力一杯押す沙月先生。その手は、女のくせに積極的で。でも優しくて。こんな人に出逢えて、お世話になって。僕は人生において最高峰なんじゃないか?
~食卓~
沙月先生に背中を押されるがままに、僕は食卓の席についた。既に食べかけであることから瑞稀は食べた後なんだろう。
「瑞稀ちゃん、修行熱心だからねぇ。すぐ食べて、すぐいなくなっちゃったよ」
瑞稀のやつ、陰陽師のことそこまで好きだったか? 僕の記憶だと、「陰陽師なんてもう嫌!」とか言ってたような。
環境が変わると、嫌いなことも好きになれるんだな。それより…。
「この、茶碗に入った黄色い塊なんですか?」
「茶碗蒸しだけど? 本当に何も知らないんだ」
「…はい」
たしかに僕は無知だ。あんな家庭でここまで育ったこと自体、奇跡かもしれない。
だけど、もう違う。あそことここじゃ、地獄と天国だ。
「甘くて美味しいから。ほれ、一口」
「むぐっ…美味しい」
「でしょ! 元気の源は美味しさ! なんてね」
瞳の大きい沙月先生の笑顔は綺麗だ。キラキラ輝いて見える。いや、実際輝いているのかもしれない。そう思わせるほど綺麗なんだ。
なにより蛍光灯の光を反射させる青い髪。こんな人と一緒に暮らして良いのだろうか。神様に嫌われている僕が、こんな人生を歩んでも良いのだろうか。
きっと良いんだろう。今目の前に広がっている全てが事実だ。逆らったりしたら、それこそ神様からより一層嫌われそうだし。
「これから僕も先生のこと、沙月さんって呼びます。だからその……よろしくお願いします」
「なになに、どうかした? いきなり改まって。不思議な子だね」
「…沙月さんだって、不思議です」
思わず僕はそう呟いた。だが、僕の言葉は嘘偽りなんて持たない。今だってそうだ。僕の思いを、まっすぐ乗せている。
「私が不思議? どうして?」
「だって…僕と瑞稀になんて陰陽師の素質なんてない! なのに…」
「だからだよ」
その一言だった。僕の心を、一瞬で包んだものは。僕の心が求めていた、たった一つの何かが、その言葉の中に乗せられていた。
「素質がないなら、生み出せば良い。私にはできる。君たち2人を、立派な陰陽師にするくらいはね。まさか、私がそんじょそこらの陰陽師だとでも?」
「そ、そうじゃないですけど…」
「なら、何?」
不穏の笑みをこぼしながら、沙月さんは僕に尋問してきた。だけど、僕は答えられなかった。なぜ沙月さんにそんな質問をしたのか、僕にだって分からないから。
「…ふふっ、だから不思議な子なんだよ」
「えっ…」
「普通、わけもなく言葉を出す人なんていないもん」
「…そういうもの、なんですか?」
「うん、そうだよ…? もしかしたら…」
僕の右手を見たときと同じく、沙月さんは目を細ませていた。それに加えて、青い髪を指で絡め続けている。
「きっと、そういうことかも。だったら合点がつくし…」
「何をブツブツと呟いてるんですか?」
「あ、ううん! 気にしないで。ちゃんとした根拠ができたら話すから」
「根拠ができたら」って、何を考えてたんだろ。でも沙月さんは良い人だし、変なことではなさそう。
それより、僕も早く食べて瑞稀の所に行こっと。頑張りすぎて倒れたら大変だ。
~中庭~
「や、やっぱりダメ…。でも、頑張らないと!」
「そんなに気張らんと、ちょっと休みなさい。無理しても倒れるだけですよ」
僕が鍛錬場である中庭に訪れると、吐息を荒くしている瑞稀と、そんな瑞稀の肩を支える希海さんがいた。
僕が来るまで、ずっと特訓していたのだろう。瑞稀の顔には汗がダラダラと流れていた。
「瑞稀、汗びっしょりじゃないか」
「おや、大翔くんも特訓に?」
「まあ、そんなところですが……瑞稀のほうは順調ですか?」
さっきの瑞稀の言葉が聞こえていなかったわけではない。ただ、瑞稀が弱音を吐くほど参っている姿を見たことを、当の本人には秘密にしておこうと思ったまでだ。
「正直言うとあんまり……といった感じで」
「そうですか。まあ、僕もそんな成長してないですし」
そう言って、僕はなんとなく夜空を見上げながら手を伸ばした。
すると、あろうことか僕の目に映る景色が僕の感覚をおかしくさせた。星の見せる輝きと、夜空の闇が、僕の身体を揺さぶる、そんな感覚だった。
そして、僕の意識はまた遠くなっていく。だけど、そのわずか一瞬の間に、『雨』が降り出した。その感覚を最後に、僕は完全に気を失った。
翌朝、カーテンから漏れ出る日光と、か細いながらの小鳥の囀りが聞こえる中で僕は目を覚ました。
どうやら、また寝室に運ばれていたらしい。天井の木目を、僕はベッドに横たわりながらボーッと見つめていた。
昨夜の出来事を、ゆっくりと思い出そうとしても、上手く思い出せなかった。
『おっはよ~っ!』
「ワァァァァァァ⁉︎」
そんな考え事を僕がしてるとも知らずに、元気で明るい声と共に寝室の扉が思い切り開けられた。
「さ、沙月さんか…」
「エヘヘ、ビックリした?」
「そりゃあ、もう…」
キラキラと輝かせる沙月さんの大きな瞳に、思わず僕は顔を赤くした。
「良かった、元気そうだね。とりあえず話があるから、中庭に来て」
「へ? あ、はい。分かりました…?」
中庭に行く分には全然構わないけれど、急に真剣な声色になった沙月さんから察するに、何か重大なことでも気付いたとかかな。
例えば、「僕たち兄妹について、思い当たる節でも見つかった」、とか。
でも、あれこれ考えてても仕方ないか。ついていこう。
~中庭~
「見てよ、あれ」
「えっ…」
そう沙月さんが指差して僕に見せたのは、一つの変な『雲』だった。
雨雲のようにドス黒いが、遠くの空に、ポツンと小さく浮かんでいる。推定で、半径500メートルくらいじゃないか?
「あれね。大翔くんが起こした雲なんだよ」
「僕が⁉︎ そんなわけない、だって僕には陰を操れないのに!」
「そう、操れなかったの。でも、今の大翔くんになら操れるんだよ、陰」
どういうことなのか、さっぱり分からない。いきなり操れるようになるものなの、陰とか陽とか。
操れないから、今まで迷ってきたはずなのに。
「大翔くんさ、本に封じられていた悪魔に憑依されてるみたいなの」
「…え、今なんて?」
「だから、悪魔に憑依されてるんだって」
「そんな、アニメとか小説じゃあるまいし」
悪魔に憑依されて、陰の力を得たって。現実的じゃないし、非科学的だし。
いやでも、陰陽師の時点で非科学的か。いやでも、悪魔が憑依っていうのは流石に…。
「証拠もある。ほら、大翔くんが拾った本。今の大翔くんなら分かるんじゃない?」
「…? あれ、なんだこれ」
僕がその本を持っても、あの時のような興味心は湧かなかった。
あのとき抱いた不気味さも怪しさもなく、『ただの本』程度の感覚でしかない。
「そういうこと。陽の力しかなかった大翔くんだからこそ見抜けた、この本の恐ろしさ。それが、分からなくなってる」
「それって……ただ単に僕の力が衰えたんじゃ…?」
「そう思うかもだけど…。じゃあ、実際に実験しようか。そうすれば分かるはずだし」
そう言って、沙月さんは僕の両手を握りしめた。その瞬間、僕の右手から光が、左手から闇が、細い柱のように現れた。
「え、え、なんですかこれ⁈」
「私の力で、大翔くんの陰陽師としての力を表現したの。でも、凄いね。こんな力、すぐには使いこなせないよ。流石は悪魔の力、とでも言おうかな?」
清々しいほどスラスラと口軽く言葉を走らせる沙月さんに、僕は正直困惑していた。
僕の身体に悪魔が取り憑いているというのに、なんでこの人はあっけらかんとしていられるんだろう。
「あの……沙月さん?」
「ふふっ、大翔くんが何言いたいか当ててあげようか? 『どうしてそんな平然でいられるのか』、でしょ」
「まあ……そんなところです」
たしかに、聞きたい内容はそんな感じだった。普通なら焦りそうなはずなのに、沙月さんはただ動揺も焦りも見せず、まるで当たり前かのように冷静に考えている。
「いやぁ、非常事態すぎて、かえって落ち着いてるだけなんだよね、これが」
「だとしても落ち着きすぎですよ!」
「アハハ、そうかな?」
自覚してないっていうのが、これまた怖い。でも、ここで焦られたりでもしたら、僕まで余計な心配してそうだからな。良かったのかもしれない。
「それより、その力を制御する方法を教えないとね。このままじゃ、悪魔の力に大翔くんが飲み込まれるし」
「ちょ、そういうことは早く言ってください! って、ていうか僕死ぬんですか?」
「だから聞いてほしいの。死にたくなかったら、ね」
大きな瞳を尖らせて、沙月さんは僕の顔をじっと見つめた。目を逸らそうとしたが、その迫力に押されて顔も瞳も動かせなかった。
「これから、大翔くんはマガツキと戦ってもらう。その覚悟はできてる?」
「ぼ、僕がマガツキと⁉︎ 待ってください、いくらなんでも--」
「たしかに普通なら同等には戦えないけど…。陰陽師が大っぴらに戦うと思う?」
「そう言われると……戦ってるところ見たことないですけど」
そういえば、マガツキの存在ってテレビとかSNSとかで見たことないな。陰陽師の家系だから知っていただけであって。しかも一般人には口外禁止とか。
「ちょっと案内してあげる。マガツキが現れたときのフィールドをね」
「フィールド…?」
「ちょっと待ってて。すぐ戻るから」
沙月さんは、僕に待つよう言って、蔵の中へと入っていった。