幕間『細やかなそれでいて大切な祈り』
女は当たり前の様に隣人を愛する心を持っていた。自らが信仰する女神の教えの一つである『慈しみの心を持ちなさい。全ては愛する事から始まるのです』というものを教えられずとも持ち合わせていた。
故に、常人であれば狂いに狂い果ててしまう様な地獄であっても自らの理性を強く保ち、世話を焼いてくれるゴブリンを受け入れた。同じ女神を信仰する信者であっても無理であろう事を彼女は、当たり前の様に成していた。
「女神よ。どうか今日が良き一日でありますように」
神であっても手を差し伸べる事が出来ない世界で彼女は熱心に祈りを捧げる──どうかより良き一日になりますようにと。ボロボロになり、もはや裸同然の格好になろうとも首からぶら下げた女神像を握り締めて彼女は祈る。
「そしてどうか……優しきゴブリンさんの心が晴れますように」
女は聖人と呼ばれるべき慈しみの心を持っている。劣悪な環境で犯され、碌な食事も与えられず休息すらままならない地獄の中でも自らではなく、他人が救われる様にと祈る清らかさが彼女にはある。
もしもこんな場所に連れ攫われていなければ彼女の信仰心はやがて、何者にも侵されぬ力となりこの世界を救う聖女になり得たかもしれない……けれど、残酷な事に神すらも触れられない大いなる運命という流れは彼女を選ぶ事はなく、献身的なゴブリンが居たとしてもいずれ朽ち果てる結末を迎えるであろう地獄へと導いた。
「シスター」
「あ、ゴブリンさん!今日はなんのお勉強をしましょうか?」
──それでも女は笑う。
本当は泣き叫んでしまいたい気持ちもあるけれど、その気持ちには蓋をして初めて話してくれたあの日からたどたどしい声で、苦しげにそれでいて縋るように呼んでくる彼を心配させないように。
「……イノリ」
「お祈りですか?」
「イヤ、ジャマをした。ゴメン」
ほら、また苦しそうに顔を歪める。この地獄においてゴブリンは圧倒的に優位にも関わらず、彼は常に苦しそうな表情を浮かべている。人間と作りの違うゴブリンの表情は分かりづらかったけど、ずっと接していればなんとなく分かってくるものなんだと彼女は考える。
生まれた瞬間からこの優しいゴブリンさんが、他者を気遣う心を持っていたのだとしたらとても辛かっただろうと思い、そんな彼が居る前でどうして泣き叫べるものかと彼女は自らを強く律し、ふと提案を投げかける事にした。
「良ければゴブリンさんも祈りませんか?」
「……エ?」
口をポカンと開ける姿は意外と可愛いかも?とズレた事を考えながら、彼女はゴブリンの手を取り自らの隣に並ばせるとそのまま、首からぶら下げている女神像を共に握る。
「エ、ア、ソノ、イイノカ?」
「女神様は救いを求める者の手を分け隔てなく握ってくれます。ふふっ、それに前も言いましたが私はゴブリンさんと一緒に祈りたいなーって思ったんです。駄目ですか?」
「ア、ウ……わかっタ」
優しく微笑まれてしまえばゴブリンに拒否をする選択肢はなく、まるで年頃の少年の様に触れた手から感じる彼女の温もりに身を硬くさせながら少々、上擦った声で返事をすると彼女はそれが面白かったのかクスクスと声を漏らす。
「嘘を吐かなければ祈る内容はなんでも良いですよ」
「わかっタ」
「では共に……我らの大いなる神よ。慈悲の女神よ」
「ジヒのめがみヨ」
もしも歴史学者や魔物研究者なのがこの場にいればきっと興奮を隠す事は出来なかっただろう。略奪だけを行い、他種族どころか同族ですら思い遣る心を持たないゴブリンが、人間のそれも繁殖に適した女性と共に手を合わせて女神へと祈りを捧げるという行為に。
しかし、この場にいるのは彼と彼女だけ。静かな祈りが誰にも邪魔される事なく紡がれる。
「どうか──」
「ドウカ──」
「「この優しき隣人に救いを/コノやさしきリンジンにスクイを」」
揃ってお互いの救いを祈った事に二人は顔を合わせて……どちらともなく笑うのだった。