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苦しくて辛くてどうしようもないのに──

 吹き抜ける夜風は草木の香りを運ぶ心地の良いものであり、俺がこの世界に来るまでは決して嗅ぐことのなかった壮大な緑の大地が育んだものだ。可能であればゆっくりと堪能をしたいところだが生憎、群れを喰わしていくための食糧を狩りに来た下っ端にそんな余裕はなかった。


「ギィィギァ!!ギィィ!!」


(とっとと仕留めろってか?自分の無策を棚に上げてよく言うよ!)


 ゴブリンは略奪しか出来ない。人間を真似て道具を粗悪な道具を作るぐらいは出来るが野山を切り倒し、土地を開墾しそこへ小麦の種や稲穂に果実の種と言ったものを植えて管理する高等な知能は持ち合わせていないため、安定した食糧などというものはなくこうして定期的な狩りを行う必要がある。

 

「グルゥゥゥ……」


 今回俺も含めて十体のゴブリンで取り囲むのは茶色の毛と鋭い牙が特徴的な猪……の子供だ。親を仕留める事が出来ればそれはもうご馳走なのだが悲しい事にゴブリンの耐久性と筋力じゃ親の猪によって汚いミンチになって終わりだ。この子供を親から離すときに先走った奴が、見事にミンチになったからよく分かる。

 そんな訳でボスであるホブゴブリンから部下を預かった隊長役のゴブリンは既に何体かのゴブリンを失っている為に露骨に焦っている。


(俺らが持ってるのはその辺の石を割って尖らせた槍だけ。せめて人間達の武器が一本でもあれば違ったが、無策で突き刺しにいっても皮を貫通出来ないだろうなぁ)


 馬を倒した時も只管に目を狙い続けて漸く攻撃が脳へと達したから勝てたのであって、単純な力じゃ勝てる可能性は極めて低かった。となると今回も何か考えなくてはならないだろう。


(幸い、子供なのもあって猪は周囲の俺らに警戒するだけで襲っては来ない。親が戻ってくるまでどれくらいの時間の猶予があるのかは不明だが向こうには骨弄りの兄弟がいるから何かしらの罠を作ってるかもしれない)


 骨弄りの兄弟はシャマーンの素質があるのかゴブリンの中では賢く俺がしている食材の意味も込められた『手入れ』の重要性を理解している素振りを見せている。まぁ、手伝ってはくれないんだが俺を揶揄おうとする他のゴブリンをそれとなく足止めしてくれるぐらいの行動はしてると思う。

 賢い奴がいるってのはそれだけ仕事が楽になる訳で少なくともさっきから騒いでるだけのリーダー役とリーダー役の指示を鬱陶しいそうにしながらも何もせずに突っ立っている他のゴブリンの代わりに骨弄りの兄弟にいて欲しかったよ。


(……見た感じまだ牙は完全に生えておらず、下顎に生えている牙が少しばかり顔を覗かしている程度。先端も成体に比べれば鋭くはなく丸みを帯びているか。それならお前、向こうにゆっくり回り込もうとしてくれ)


「ギィ?」


「ギィィ!?ギガガ!!ギィ!!」


(お前の失敗を取り返そうとしてやってるんだから黙れ!!お前もとっとと動く!!)


 悪いが俺は成果なしなんて結果は求めていないんだ。この劣悪な地獄を生きている彼女のためにもほんの少しで良いからまともな食事を届けてあげたい。だからこそ、先手は俺が取る!


(うぉぉぉぉぉ!!)


「グルゥ!?」


 警戒心が高いのは良い事だが回り込もうとした奴を見過ぎだ。雄叫びを上げた事で驚きつつ俺の方に視線を合わせた猪は身体を動かす準備が出来ておらず、また驚いた為に身体が硬くなっており時間にすれば僅か数秒だが状況を動かすには十分な時間が生まれる。

 走ったエネルギーを無駄にしない様に全速力でスライディングをし、猪の腹の下に陣取ると渾身の力で前脚の膝裏目掛けて粗悪な槍を突き放つ。


(刺さりやがれぇぇ!!)


 突然の攻撃に暴れてながら俺を叩き潰そうとする猪のジタバタとした踏み込みに潰されない事を祈りながら、猪の下を譲らずに俺も動き回り何度も何度も槍を突き立てる。

 槍が壊れるか猪の足が限界を迎えるかの勝負は十二度目の突きを放った瞬間に決着が訪れた。


「ブモォォォ!?!!」


 バキッと槍が根本から折れるのと同時に先端部分が深々と猪の足へと突き刺さる。


(今だ!!かかれぇぇぇぇ!!)


 腹の下から転がり出ながら全力で叫ぶ。統率スキルなんてものがあるのかは知らないが、もしもあれば間違いなくそんなものは持ってないであろう俺の指示に他のゴブリン達が従ってくれるかは不明だったが、全身が土に塗れながらも猪の方を見上げた時に複数の汚い緑が猪に飛び移っているのも見て安心するのだった。


(ふぅ……多分これで勝てるだろう。ん?)


 丸くて綺麗な赤い色をした花が足元に咲いていた──彼女に似合う気がするから採っていこう。









 そんなゴブリンの癖に浮かれていたのが悪かったのか。もしもそうなら俺は本当に神様という奴が大嫌いだ。


「ヨクヤッタ オマエノ オカゲ」


(いえ、役目を果たしただけですから)


 何処かで見ていたのだろうか。住処である洞窟に仕留めた猪を運んで来たら、頭目であるホブゴブリンが俺を見つけて手招きですぐ近くへと呼び出し褒め始めた。すぐにリーダー役を任されたゴブリンが俺も俺もとアピールしたが全く、ホブゴブリンは取り合わなかった。


「ホウビ アタエル」


「きゃっ!?」


(……は?)


 乱雑に俺の前に連れて来られたのはシスターの彼女だった。ホブゴブリンが仮にも褒美と称した為か水場で汚れを落としたのかいつもより綺麗な彼女が手錠と足枷をされた状態で俺の近くに放り出されるという光景に思わず固まる。俺も馬鹿じゃない……この状況でホブゴブリンが言う褒美の意味を理解して吐きたくなった。


「オマエ イツモ マザラナイ キレイスキ ミズアビサセタ」


 ……あぁ、俺が混ざっていないから。俺がいつも『手入れ』をしているからホブゴブリンは勘違いしたんだ。同族であろうとも体液に塗れた者を抱かない変な奴だと。は、ははっ、所詮はゴブリンか。何かを考える事は出来ても自分本位の考えしか出来ないし動けない。


(……)


「ゴブリンさん。私は大丈夫ですよ……だから今は貴方自身の事を考えてください」


 震えながら怯えながら君は俺を気遣ってくれる……その事実が嬉しくて悔しくて悲しくて……何もかもを放り出して逃げ出したい衝動に駆られつつもゴブリンの本能が囁く──『目の前の極上の雌を抱けと』

 呼吸が乱れる。周囲のゴブリンが動かぬ俺を見て騒ぎ立てる声が鬱陶しいと感じ、ホブゴブリンを見るが奴も俺が抱かない事に疑問を覚えているのか何かを考える素振りを見せているだけで止める気はない。


「ゴブリンさん」


(……)


「んっ……これは?」


 あぁ……やっぱりよく似合う。可愛らしい彼女に綺麗で丸い赤い花は残る幼さを引き立てながらも、彼女の持つ美しさに鮮やかさを加えている。簪の一つでも付けてあげられればどれだけ良かっただろうか。


「よクにあウ。ごめン、こんなカタチで」


「ゴブリンさん言葉が!」


 文字を習う時彼女が発音も一緒にしていたから頑張って口を動かして練習したんだ。まさかこんな望まない形で披露する事になるとは思わなかったけど。


「……ユルシテほしい」


「……大丈夫ですよ。ゴブリンさんには助けられていますから」


 このやり取りを最後に俺の色んな感情を押さえ込んでいた線がプツリと切れて、ただ本能の赴くままに彼女を抱いた。せめて他のゴブリンには今日だけは手を触れさせない様にしながら。


 これ程までに最低で最高な日もないだろう。


 そして俺は決意した。この地獄から彼女を連れて逃げようと。

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