先生
「んーっ!おいしいーーーっ!!!」
クリスタは、大きめに切り分けた鶏肉のコンフィを口に放り込んでゆっくりと咀嚼し、ほっぺたを抑えて目を閉じた。全神経を味覚に集中させている。
彼女が今食堂で食べているのは、カトリンのために用意したが手を付けられなかった料理だ。
あの騒動から一週間、カトリンは一度も食堂に姿を見せていない。だが、料理人は毎食同じようにカトリンの料理を用意している。手を付けられず残ってしまったものという大義名分を得るために。
そして、それをクリスタが代わりに食べるというのが日常になりつつあった。
使用人達は、毎食もりもりと美味しそうに食べ、日に日に顔色と肌艶が良くなっていくクリスタを見て、ほっとした気持ちになっていた。
さらに一週間が経った頃には、カトリンは部屋からも一切出て来なくなり、精神面を不安視した使用人頭が、当主であるクリスタの父親に手紙を出した。
そのやり取りの結果、当主の判断によってカトリンは領地に戻りそこで静養することが決まった。
その手紙の中には、クリスタに対する仕打ちについても言及されており、そのことが事を急がせる後押しとなっていたのだ。
「ハンナーーー!!!やったわ!!!ついにあのクソババアを邸から追い出したわ!!!!今度こそ祝杯をあげましょうー!!はははっ最高に気分がいいわ!!」
自室にハンナを呼び出したクリスタは、料理長におねだりしてもらった菓子や、すっかり仲良くなった業者のおっちゃんからもらったジュース等をテーブルの上に広げていた。
「ええ、本当に…10年間よく耐え抜かれました。本当に、このハンナも大変嬉しく思っております。これでようやく、クリスタ様が他のご令嬢と同じような生活を送ることが出来ると思うと…感無量でございます。」
熱くなった目頭を押さえ、ハンナは震える声で思いの丈を口にした。
「ハンナ、本当にありがとう。貴女がいなかったら私とっくの昔に餓死してた。今日までずっと心配かけたね。」
「とんでもないことでございます。ほとんど何もできませんでしたから…ですので、これからはクリスタ様の専属侍女として、淑女の鏡のような女性に成長されますよう、誠心誠意尽くす所存でございますわ!」
「うげ…淑女とか絶対向いてないし…私はお腹いっぱい美味しいものを食べられればそれで良いんだけど…」
「そういえば、ご当主様からのお手紙に、カトリン様の代わりに、家庭教師の先生をお送り下さると書いてありましたよ。」
「え!?何それ聞いてないし!またいじめてくるようなヤツだったら嫌だな…まぁ、そんなの徹底的にやり返すけどさ。」
「ええと…はやとちりはおやめ下さいね?」
クリスタの徹底ぶりをよく知っているハンナは、彼女の言葉に不安しかなかった。
翌日、カバンを一つだけ持ったカトリンは、ひっそりと朝方邸を出て行った。見送る者は誰一人としていなかった。
同日、カトリンと入れ替わるようにして、家庭教師の先生がクリスタの元へとやってきた。
家庭教師の先生が待っている応接室に向かう前に、クリスタは手持ちのワンピースの中で、一番状態が良いものに着替えた。
だが、決して見栄えが良いとは言えなかった。服を誤魔化すために、ハンナに軽く髪を結って貰い、駆け足で応接室へと向かった。
ノックをして部屋に入ると、ソファーに座っている女性が背筋を伸ばしたまま音もなくすっと立ち上がり、クリスタの方を見た。
「クリスタ・ベルツ様、初めまして、わたくし、セレナ・アリーテと申します。どうぞセレナとお呼びくださいませ。此度はベルツ侯爵からのご依頼で、クリスタ様の家庭教師として参りました。どうぞ宜しくお願いしますわ。」
美しい立ち姿でにっこりと品良く微笑む姿は淑女そのものであった。
母親世代の年齢であったが、所作が美しいせいか、それを感じさせぬほど若々しく魅力的に見える。
「私は、クリスタ・ベルツでございます。先生を引き受けて下さりありがとうございます。セレナ先生、これからどうぞ宜しくお願いします。」
クリスタは貼り付けた笑顔で感情のこもっていない棒読みの挨拶をすると、ぺこっと頭を下げた。
彼女の挨拶、所作、しぐさは、同世代の子たちと比べてもかなり稚拙なものであったが、セレナは眉を吊り上げることもため息を吐くこともしなかった。
挨拶を交わした二人は、テーブルを挟み、向かい合って座った。
使用人は二人の前に紅茶を出すと、一礼をして退出して行った。
セレナは優雅な所作で紅茶を一口啜ると音もなくソーサーの上に戻した。
流れるような美しい所作に、クリスタは思わず見惚れてしまった。
「クリスタ様は、これまではお義母様から淑女教育を受けていたと聞き及んでおります。今後の授業の参考にしたいので、どんなことを学んだのか具体的にお聞きしても宜しいかしら?」
柔らかい笑顔を向けて尋ねてきた。それは、嫌味のない、親しみを感じられる笑顔だった。
「お義母様からの言い付けで、使用人と混ざって邸の掃除をしたり、お義母様が夕飯を召し上がっている姿をただ眺めたりしてましたわ。」
「えっと…かなり独特な手法を取ってらしたのですね。」
ここで初めてセレナの完璧な笑顔が崩れた。若干だが口元が引き攣っている。
「私に淑女なんて向いてませんから、そういうのは別に学ばなくて良いです。」
「クリスタ様は、どんなことが好きなのかしら?興味のあるものは何かしら?」
心を閉ざしたような、クリスタのつっけんどんな態度に、セレナはまずは彼女のことを知ろうと歩み寄る姿勢を見せた。
「食べることが大好きです!美味しいものがお腹いっぱい食べられれば私は幸せです!」
一気に軟化した態度で目をキラキラと輝かせて話し出すクリスタに、セレナは目を細めて微笑んだ。
「それは素敵なことですわね。では、将来美味しいものを食べて幸せに暮らすために、完璧な淑女を目指しましょう!」
「それ関係ありますか…?」
簡単に騙されないぞとクリスタは思わず半眼になってしまった。
「ふふふ。将来、贅沢をしたいのなら、優良物件を掴まえることに限りますわね!!」
「優 良 物 件 …?」
何かとんでもなく有益なことを教えてくれるのかも、とクリスタは期待の眼差しでセレナのことを見返した。