夫婦の危機
メリークリスマス(´∀`)
広々とした薄暗い寝室にひとり、夜着姿のクリスタは恍惚とした表情を浮かべていた。
彼女の目の前に並んでいるのは、明日から販売予定の老舗菓子店の新作だ。
職人技で薄く伸ばされたチョコレートの上に、細く焼き上げたシュー生地が飾られその周りにたっぷりのバタークリームが塗られている。
芸術的な見た目の菓子を手に取る前に、ティーカップの紅茶を口に含み心を落ち着かせるクリスタ。そして、誰もいないのをいいことに、片手で繊細な菓子をつまみ上げそのままパクリと齧り付いた。
「んんっ……………!!!!」
あまりの美味しさに言葉が出ず、チョコレートの香りが残る手で頬を抑えた。就寝前の至福のひとときを噛み締めている。
ー ガチャッ
「っ!!!!」
ドアの鍵を開ける音が聞こえたクリスタは、脊髄反射でソファーから立ち上がると燭台の灯を決して勢いよくベッドの中に飛び込んでシーツをかぶった。
腹式呼吸を繰り返し、あたかも熟睡中であるかのように必死に寝息を立てる。
「…おやすみ、俺のクリスタ。」
ー ガチャッ…カツカツカツカツ……
「え…出て行った…?」
遠ざかる足音を確認したクリスタは、ベッドから這い出て部屋の中を見渡した。そこにはもう彼の姿は無かった。
普段ならどんなに帰りが遅くとも、フランツはクリスタと寝床を共にしている。
それも、彼女が寝てようが寝てまいがお構いなしに、頬に触れ手に触れ瞼に口付けをして甘い言葉を囁きながら。
その激甘攻撃を避けるため、クリスタはいつもバレバレの狸寝入りで抗戦しているのだ。尤も、毎回耐えられず叫び声を上げてしまい、結局フランツの腕の中で寝る羽目になるのだが。
「私、何か気に触ることでもした…かな…?」
急に不安になったクリスタは、またベッドの中に戻り考えを巡らせた。
夜間、寝室には外側から鍵が掛けられており且つその鍵はフランツしか所持してないことは気に留めないくせに、彼から避けられることは気になるらしい。
結局思い至ることはなく、明日ハンナに相談しようとそのまま眠りについたのだった。
「それは、夫婦の危機ですね。」
「いっ…………………」
相談を持ちかけたクリスタに、ハンナは早々に断言をした。
彼女の迷いのない真っ直ぐな瞳に、クリスタの中の不安が増幅する。
「え、でも私何もしてないよ?寝室だって一緒にしたし、ベッドだって同じもの使って…照れ…るけど我慢してる、し…」
自分で言って恥ずかしくなったのか、頬を染めたクリスタの言葉が尻すぼみになる。
そんなことで一々顔を赤くしてどうするとハンナが頬に手を当て深いため息をついた。
「いいですか、クリスタ様。今の状況は殿方にとって半殺しなのです。」
「え!!!?私暴力なんて振るったことないよ!いやまぁ…枕投げつけたことなら何度か…でもアレはいきなりフランツが…ゴニョゴニョゴニョ…」
更に顔を赤くするクリスタに、ハンナは大きく頭を横に振った。目頭を指で抑えて瞑目する。
「そういうことではなく…例えばですが、クリスタ様の目の前に見たこともないそれはそれは美味しそうなケーキが置かれているのに、それを食しては駄目だと言われたらどんな気持ちになりますか?」
「……バレないようにちょっとだけ齧る。」
「なりませんっ!!!!」
「ひゃっ」
例え話が通じずとんでもないことを言い出すクリスタに、ハンナの怒号が飛んだ。
「如何にして食すかではなく、それをどう感じるかというお気持ちの話をしているのです。」
「それはまぁ…想像を絶するほどの辛さだよ。目の前にあるのに食べちゃ駄目なんて、どんな犯罪よりも罪が重いわ。極刑は免れないって。」
「ええ、ええ。そういうことです。」
「???」
ハンナの意図することが全く分からなかったが、満足気な彼女の気分を害する勇気はなく、クリスタは首を傾げるだけに留めた。
「分かったような分かんないような、分からないけど、で、私は一体どうすればいいの?」
「お任せください。ハンナに良い考えがございます。」
心得たとばかりに大きく頷くハンナに一抹の不安を覚えながらも、全く見当のつかないクリスタは黙って彼女の案に従うことにした。
***
ハンナに相談を持ちかけてから三日、腹を括ったクリスタは作戦を実行することにした。
本当はその当日にするはずだったのだが、元通りになっているかもしれないという淡い期待と、なるべくならやりたくないという気持ちで今日までズレ込んだのだ。
そして連日同衾を避けるフランツに、クリスタがとうとう決心した。
大して寒くもないのに、シルク地の夜着の上からストールを羽織る。その端と端を両手でぎゅっと握りしめドアのすぐ側で息をひそめる。
そのままフランツがやってくるであろう時間までじっと待った。
ー カツカツ
「…っ」
聞き慣れた足音が近づいてきた瞬間、クリスタは足元を見つめて表情を整えた。
長いまつ毛には透明のマスカラが塗られており、ドアから溢れる淡い光があたって儚気な印象を与える。
「クリ…スタ…?」
ドアを開けた瞬間、いつもならベッドの上で寝たふりをしているクリスタが目の前におり、フランツが目を丸くした。
緊迫した表情のまま彼女の肩に優しく両手を置き、顔を見ようと覗き込んでくる。
「どこか具合でも悪いのか?今から医務室に…いや、負担になるから俺が医者を呼びに…ああでも君を一人残しておくわけにはっ…」
混乱するフランツに答えぬまま、クリスタは糸が切れたかのようにストンと彼の胸板に体重を預ける。突然重みを掛けられたが、普段から鍛えているフランツはふらつくことなく彼女の背中に手を回して抱え込むように支えた。
「早く、医者をっ…………」
「フランツ」
焦りが頂点に達したフランツ。
そんな彼に、クリスタは上目遣いで縋るような表情を向けた。
「抱いて」
「………っ!!!!」
その言葉の威力は凄まじく、フランツの思考が止まり、鼓動さえもその動きを止めようとする。彼女の言葉のまま衝動に駆られたくなる気持ちと、それはいけないと働く僅かな理性がせめぎ合う。
時間にして僅か数秒、だが彼にとっては永遠のような気がした。
『上出来です、クリスタ様。さすがでございます。』
『…本当にこれだけでいいの?上目遣いは今更な感じでちょっと恥ずかしいけどさ…』
『はい、その言葉ひとつでどんな殿方でも悶絶間違いなしでしょう。特にフランツ様なら昇天なさるほどお喜びになると思います。』
『ふーん…よく分からないけど、まぁそんなに言うならやってみればいっか。でもこれ、どういう意味なの?』
『……本日のお茶菓子は隣国から取り寄せた希少な品だとか。』
『なにそれ気になる!今日はお茶の時間を早めよう!!』
ー って、ハンナに乗せられた気がしないでもないけど…ほんとにこんなんで効果あるのかなぁ…
クリスタのせいで理性が焼き切れそうになる一歩手前、フランツは論理的思考でこの場の最適解を見出そうと死の物狂いで頭を回転させる。
そうでもしなければ、このままクリスタのことを抱き抱えて寝台に飛び込んでしまいそうであった。
ー 俺はどうすれば良いっ………
クリスタは熱でおかしくなっているのか…しかし身体は熱くない。顔色も悪くない。ならばこれは本気で…いやでも言葉のまま捉えるのか早計か。この一瞬の判断ミスで彼女に嫌われるようなことがあれば俺はもう生きていけない。せっかく一緒に寝られるようになったというのに…
ここはやはり慎重に、まずは温かい紅茶でも用意して膝をつきわ合わせて彼女の話をゆっくり…だがもしクリスタが本気で言っていたら…?俺は彼女の勇気を踏み躙ることになる??もしや、この機会をずっと欲していたのに俺が奥手過ぎたのか…だから彼女があんな大胆なことを??
女性の渾身の勇気を無碍にするなど、紳士たる者絶対にしてはならない。それが愛する女性なら尚のこと。ならば、俺が選択する答えはただ一つだろう…
数秒の間に己の心とケリを付けたフランツが意を決してクリスタを抱き止める腕の力を強めた。慎重且つ大胆に華奢な彼女のことを抱え上げる。
「へ」
クリスタが間抜けな声を出したその一瞬で彼女の視界が切り替わり、気付いたら寝台の上に仰向けになっていた。
そこに覆い被さるように構えるフランツ。彼女の細い手首を掴みじっと上から見下ろす彼の瞳は今までないくらいに熱く、野生の獰猛さを感じさせる。
「っ」
普段ならやめてと一蹴出来るのに、今までにないフランツの切迫感と自分の速くなる鼓動に緊張が高まり喉が締め付けられる。指先の感覚がなくなり、瞬きすら出来なくなってしまった。カラカラに渇いた喉で唾を飲み込むクリスタ。
僅かに上下した彼女の首元に、フランツのタガが外れた。両手首を掴んだまま剥き出しの鎖骨に顔を埋め、真っ白な肌に吸い付くような口付けをした。
「きっ…ぎゃあああああああああああっ!!!」
「………っ!!!!!」
クリスタの耳を劈くような悲鳴でフランツの熱が一気に冷め、それと同時に手放した理性が戻る。
己の両の手の間で涙目になるクリスタを上から覗き込む構図に、全身の血の気を失う。
「…クリスタ、ごめんっ!」
慌てて彼女の上から身体を起こすと逃げるように寝台から降り、部屋の隅限界まで移動してその場に蹲った。
片手で前髪をくしゃりと掴み、立てた膝に顔を押し付けるフランツ。後悔と申し訳なさと羞恥心でクリスタのことを見れずにいた。
「び、びびび、びっくりした……」
ベッドの上で身体を起こしたクリスタもまた、フランツと同じように膝を抱えて蹲っている。
「本当にすまなかった。」
長く気まずい沈黙の後、ようやく顔を上げたフランツがポツリと謝罪の言葉を口にした。
その声は今にも泣き出しそうで、彼が心の底から後悔していることが伝わってくる。
「…ねぇ、私何かした?」
「え?いや、何かしたのは俺の方であって、君に非などあるわけが…」
「じゃあどうして私のこと避けてたの?さっきのだって…私に意地悪してきたじゃない…あんなくすぐり方してきて…」
「はい?????」
クリスタの言葉に目が点になるフランツ。いよいよわけが分からなくなり、ぐるぐると回る思考のまま彼女がいる寝台を見つめる。
「俺がクリスタのことを避けるなんてするわけないだろう?それに、さっきのはくすぐりじゃなく俺がクリスタに手を出…コホンッ…いやいい、今のは忘れてくれ。」
「今更嘘なんてつかなくていいのに。ここ3日くらい別の部屋で寝ていたでしょう?朝もそのまま仕事に行ってたみたいだし…」
「え?あ…それは、最近風邪を引いて体調が良くなくて、君に移さないために別室で生活してたんだ。今はこの通り全快したからまた君の隣で眠るよ。これ以上別室生活をしていたらそっちの方が具合が悪くなる。…って、まさかそのせいで勘違いを…?」
ようやく点と点が繋がったフランツはパッと瞳を輝かせる。クリスタが自分の行動を気にしてくれたことが堪らなく嬉しく、つい先程の愚行など頭から消え去っていく。
晴れやかになった心のまま勢いでクリスタの元に近づいたが、ふと一つの疑問が頭をよぎった。
「クリスタ、『抱く』って言葉の意味知ってるか?」
「いきなり何…?それくらい知ってるけど、馬鹿にしないでよね。」
「一応の確認だけど、意味を聞いても良い?」
「は?そんなの、隣り合った相手の肩に腕を回すって意味に決まってるじゃん。」
「くっ…………」
寝台の側に立っていたフランツが膝から崩れ落ちた。両手で顔を覆い、小刻みに肩を震わせている。
「な、なに…??」
「俺のクリスタが最高過ぎる。どこまでも可愛い人、君はどうかそのままでいて。」
「いや、意味わかんないんだけどっ」
なんとなく馬鹿にされているような気分になったクリスタが座ったまま両手足をばたつかせた。そんな子ども地味だ仕草さえも愛おしく、フランツは目を細めた。そして昂る気持ちのまま立ち上がり、彼女の側に片膝をついて身を寄せる。
「安心して。本当の意味は俺が丁寧にゆっくり時間をかけて教えてあげる。愛してる、クリスタ。」
「……ひゃあああっ!」
言われた言葉の意味は不明であったが、体温を感じるほどの距離で囁かれた声はクリスタの鼓膜を心臓を震わせた。
その隙にフランツは自分の腕の中にクリスタを閉じ込め、しばしの間離さなかったのだった。




