第4章 足を洗いたい
「いつから?いつから、そう思ってたの」
涙と共に鼻水も出てきて、愛はティッシュペーパーで思いっきり鼻をかむ。圭太が別れたいと思ったのは、きっともう少し前からのことなのだろうと愛は思った。
「一か月くらい前からかな」
一か月前というと、ちょうど一念記念日を過ぎたあたりの頃になる。
愛はその記念日に二人で行った夜景の見えるレストランを思い出して、圭太がどんな表情をしていたろうかと記憶を手繰り寄せる。普通に楽しんでいた、というのが愛の記憶にある圭太だったが、彼はあの時から違和感があったのだろうか。
「もっと早く相談してくれればよかったのに」
「いや、ごめん。言いづらかったのもあるし、俺の気持ちをまとめてからちゃんと言おうと思っていたら遅くなった」
圭太は顔を両手で塞ぐ。急に表情が見えなくなって、愛は彼が泣き出すのではないかと思ったが、嗚咽が聞こえてくることはなかった。
「そっか」
ここまで来てしまえば、もう何を言っても無駄である。愛はこれ以上かける言葉が見つからず、一人でティッシュペーパーを消費し続けた。圭太は泣かなかった。
私は一生、誰かに飽きられて捨てられる人間なのではないか。一度嫌な考えが脳裏をよぎると、愛はますます自己嫌悪に陥った。
これからきっとまた誰かと付き合って、笑顔で写真を撮り、お揃いの物を揃えて、くっついて一緒の布団で寝ることがあるだろう。けれど、そんな絵に描いたような幸せな日々が待っているとしても、その後で愛は必ず振られるのではないか。もう飽きた、つまらない、という正直な思いは蓋にして、ごめんと繰り返されて振られるのではないか。
そんな未来が待っているかと思うと、愛は怖くて怖くて仕方がなかった。振る側の人には決してわからない恐怖で胸が締め付けられた。両肩に重たい錘を乗せられているように身体がだるく感じた。
両手を顔から離した圭太は、愛がこれまでに見たことのない悲しい表情をしていた。この人、こんな表情もするのか。それは、愛だけが永遠に知っている彼の秘密のように思った。
「今までありがとう。愛が一緒にしたいって言ってたこと、全て叶えてあげられなくてごめん」
一方的に別れを告げられる。愛はまだ、圭太の要望を承諾してはいないのに。
愛は圭太と一緒にやりたいこと、行きたい場所のリストを作っていた。それを一つずつ、達成していこうと決めて二人で笑いあったのだ。一年と少し経って、達成の赤い丸印は、半分も付けられていない。このリストを作った当時の自分たちを笑い飛ばしてやりたい気持ちになる。絶対に達成できると信じてやまなかった若い恋人たちを。
もうじき、この部屋から出ていかなければならないかもしれない。何か、何か言わなくちゃ。圭太の先走る思いに動揺する。
「こちらこそ、ありがと。全部連れてってほしかったよ」
馬鹿だ。本当に言いたいのはそんなことじゃない。どこにも行かないで。あたしの傍から離れないで。頭に浮かぶのは、全て愛の悲痛な叫びだった。けれど、この本心を伝えたら、圭太をもっと困らせてしまうのだ。それに、愛がどれだけ引き留めたって、圭太の意思は固まっていた。
「そうだよね。ごめん。愛にはきっと、もっといい人がいると思う。だからその人に、連れて行ってもらうんだよ」
「そうだね、そうするわ」
男というのはなんて鈍感で阿呆なんだろうと愛は思う。愛が行きたいと思ってリストに書いた場所は、相手が圭太とだったから行きたいと思ったのだ。他の男に連れて行ってもらうなんて、死んでも嫌だった。
「愛から何か俺に言いたいことはある?」
言いたいことだらけだ。ここが天国だったとしたら、愛はすべての思いをぶちまけられると思った。けれどそのどれ一つ、愛は口にすることができなかった。何か言わなくちゃ、何か。
圭太の足が机にぶつかって、鈍い音がした。体勢を変えるのにぶつけたようだ。いててて、と圭太は軽く足をさすっている。
圭太の、ごつごつした足。人差し指が親指よりも少し長い足。いつか二人で川沿いで手持ち花火をしたとき、サンダルからのぞく指先を見せて、圭太は自慢げに教えてくれた。そう、あれは去年の夏だ。夜になっても気温が下がらず、暑くてアイスを食べながら線香花火をしたことを覚えている。
「足、足を洗っても、いいかな」
愛は口にしてしまってから、自分の発言に驚く。圭太は訝しげな顔をする。
「ん?ヤクザ的な意味?」
いや、とすぐさま愛は否定する。
「違うの。普通に石鹸で、圭太の足を洗いたいって」
圭太はあんぐりと口を開けている。その顔がなんだか可笑しくて、愛は小さく笑う。涙は不思議と止まっていた。そして今日初めて、笑ったということに気がつく。
「どういうこと」
圭太は苦笑している。意味不明な愛の提案にドン引きしているかもしれないが、愛にはそんなことはどうでもよかった。
「足を洗わせて、お願い」
「そんなことある?え、今から一緒にお風呂に入るってこと?」
「うん。ただし脱がないよ」
「いや、そりゃあね。え、俺だけ脱げと?」
圭太は明らかに戸惑っていた。愛の気が狂ったと思われても致し方ないだろう。愛は机から少し乗り出して、圭太が履いているズボンを確認する。
「服のままでいいよ。半ズボンだし、そのまま洗える」
「え。嫌だよ」
「お願い」
「意味不明だよ」
「最後のお願いだから」
愛はここで引いてはいけないと思った。顔の前で両手を合わせて懇願する。
「どうしても?」
「どうしても」
「洗ってどうしたいの?」
「どうもしないよ。ただ綺麗にするだけ。いつもお風呂に入るのと同じことだよ」
愛は不思議と饒舌になっていることに気づいて、自分は以外と精神が強いのだということを知る。
「じゃあ、洗ったら帰る?」
「帰るよ。二度と来ないようにする」
愛はきっぱりと断言する。その必死さに耐えかねたのか、圭太は渋々わかった、と言った。