#02 GRIM REAPER or DEVIL…GUARDED.
「オレは別になんにもしてないですよ」
正午過ぎ。冠崎十七夜は感謝された。突然家に押しかけてきた局員に管理局まで連れられ何事かと思えば、刑事に深々と頭を下げられた挙句感謝状まで受け取ってしまったのだ。
「何を言うか! 君のお陰で通り魔犯を捕まえることが出来たんだ」
「はぁ」
熱の篭った声で詰め寄られ十七夜は困惑した。「君のお陰」などと言われても特別何かをした記憶はない。謙遜でもなんでもない。だからこそ困り切るに留まらず罪悪感、更には恐怖心までも抱いてしまっている。
本当に全く何もしていなかったのだから。
話は昨夜のことになる。
十七夜は街灯など無く、抜け切った先の住宅地を照らす僅かな光だけが明るさをもたらす人気の少ない路地裏を歩いていた。特にその日その時にその道を通る理由も目的もなかったが、日常的に家路として利用している道を通るのにそこまで特別な理由は必要ない。だがそれは、通り魔事件のことを知った上だとすれば別の話だ。
その時既に十七夜は風の噂か誰かから近辺で通り魔事件が起こっていることを聞いていた。薄暗い路地は絶好の犯行現場になり得る。実際に事件もそのような場所で頻発しており、普通ならそんな状況では近付くことすら意識的に避けるであろうその道を、彼は何の迷いも躊躇もなく通る選択をした。
通り魔に恐怖する心を十七夜は少しも持っていなかったのだ。それは彼が強かったからではなく寧ろどこまでも弱かったからだろう。
十七夜の中で、恐怖心を抱く意味や理由はなかった。通り魔に刺されて殺されてしまう、死んでしまう、それがどうしたというのだろうか。
死ぬなんてことより余程この世界に縛られている方が恐ろしかったのだ。生きることに対する薄弱な意志、風前の灯――弱々しい呼吸ではその灯を自ら吹き消すことすらままならない。そこに通り魔、痒いところに手が届いたようなものだった。
刺されてみたかった、殺されてみたかった――死にたかった。恐怖はおろか、どこかで期待する気持ちを抱いて十七夜はその時その道を歩んでいた。
そんな期待或いは願いが叶ったかのように、十七夜の目の前に人影が現れる。全身を風が吹き抜ける違和感とどこからか微かに聞こえた呻き声とともに突如として出現したそれは、影と言い表すのが最も正しくそれ以外ではいけないのだと思わせる程に黒く黒い背を彼に向けていた。彼がきょとんとしていると、咄嗟に振り向いた影と目が合って互いにどきりとする。影の手にはナイフが握りしめられていたが、すぐにがたがたと震えながら力なく手放した。刃がアスファルトに打ち付けられ耳を劈く金属音だけが響く。
「なんで、なんで」と譫言のように繰り返されるが、訊きたいのは十七夜の方だった。
影は高速移動能力を利用して気付かれぬうちに目にも留まらぬ速さで近付き、十七夜の脇腹をめがけて刃を向けた――はずだったのに。影は気が付くと彼より前にいて、振り返ると彼は傷一つ負わずに平然とそこに立っている。衣服は確かに切れているのに。まるで刃ではなく影自身が彼を貫通した――すり抜けたようだった。
影は目の前で起きているその不可解な現象に恐怖し動けなくなっていた。そこに通りかかった管理局の刑事が呆然としたままの影を確保していった。十七夜はただ視線を落とした先、刺し傷を負って地面に蹲る猫を悲しげに見つめているだけだった。
「ああ、君も死んじゃうのか。こんな僕のせいで」
応急処置に必要な持ち合わせもなくどうすることも出来ず撫でてやることが十七夜に出来る精一杯だった。そこに、白衣の男が通りかかる。
「なんだ、ソイツ怪我してんのか?」
「えっ……? あ、はい」
突然声をかけられびくっとして声のした方を見てみると、白い長髪の男が鋭い眼光を向けてきたので十七夜は反射的に目を逸らす。それでもなんとか自分を作って保とうとした、異常だと思われないように。
「ちょっと診せてみろ」
「もしかして、お医者さん?」
「ああ、一応はな」
「へぇ、じゃあこの子も治せたり?」
「……まあ、このくらいならなんてことねぇだろ」
白衣の男が猫に手をかざすと、時間が巻き戻っていくように傷がみるみる小さくなっていく。その様子を十七夜は食い入るように見つめていた。
「まさか、治癒能力……?」
「そんな良いもんじゃねぇよ……っ」
「?」
猫の傷が治癒していくのに反して、男は苦い表情で汗をかき始めた。
「……大体治ったぞ、もう平気だろ」
素っ気なくそう告げると、男は光が薄くなっていく方へ去って行く。その足取りはどこか覚束無い様子で、押さえた脇腹から淡く朱色が滲んでいるように見えた。
まさか……と、十七夜の脳裏にとある可能性が過ぎる。彼の能力は性質で言えば自分とは全く真逆のものなのではないかと。誰かを傷付けてしまうような自身の持つソレとは真逆の――。
十七夜はそれが羨ましくて疚しくて、どうしようもなく嫌になる。結局男に礼を告げることも出来ずに、すっかり元気になった猫が光の方へ走ってゆく様をぼんやりと見届けると、心の中で「ごめんなさい」と呟いた。
目まぐるしい程に様々な現象に遭遇はしたものの、礼を言われるような謂れもなかった十七夜だったが、流されるままあれよあれよという間に感謝の言葉だけでなく品物まで受け取ってしまっていた。いらない、どうしようかと紙袋を見つめても答えは出ない。平気な顔をしてその辺にあるゴミ箱に捨てられる程冷酷にもなれないでやむを得ず家へ持ち帰ることにした。
「何その高そうなお菓子とか、また女の子に貰ったとでも言うつもりか?」
帰宅すると、日本人離れした艶やかな金髪と海色の瞳が、窓から射す陽の光を背に受けて威圧感を帯びさせ待ち構えていた。尾崎常之は十七夜の家に居候している青年だ。十七夜も決して容認している訳ではないが、何を言っても根を生やしたままでどうすることも出来ず仕方なしに居座らせているというのが現実、強引に追い出す労力も惜しいのだ。
「女の子も……一応はいたかな、覚えてないよそんなこと」
「アンタって相変わらず薄情だよね」
「そんなの全部覚えてる方が気持ち悪いでしょ」
十七夜は靴を脱いで部屋に入りダイニングテーブルに貰い物の入った紙袋を雑に置くと、その脇に置いてあった本を手に取る。
「プレゼント貰った相手が男だったか女だったかくらい普通覚えてるだろ」
「興味ないし別にいいでしょ、それにこんなのプレゼントでもなんでもないし。欲しかったらあげるけど?」
「アンタのそういうところ、ホント嫌い」
「なら出て行ったら? 何回も言ってるけど、オレのこと嫌いなんだったら……
「そうは言ってないだろ。十七夜のことは好きだ、だからデートしよう」
「は?」
あまりに突拍子もないことを言われたので、十七夜は本をめくる手を止めて常之の方を見る。すると常之はデスクチェアから立ち上がり、にやっと得意気に笑って十七夜にパソコンの画面を見るよう促した。
「オールインワンダーランド……? 何これ」
「カデノーランドの新しいアトラクションだ。今度先行公開されるから他より一足先に楽しめるんだぞ!」
「ふーん」
取り立てて興味も湧かなかった十七夜は、また読んでいた本に視線を落とす。どこまで読んでいたか分からなくなってしまった。
「なんでそんなうっすいリアクションなんだよ、本の中に入れるんだぞ。アンタ、本好きだろ」
「そもそも遊園地が好きじゃない。そんなに行きたいならせんせーと行ってきたら?」
「なんで津島となんだよ、僕は十七夜と行きたいんだ」
「まあ、せんせーを君と二人きりにさせるのはちょっと悪い気がするからなしとして。でもオレと二人でしかもデートってきつねくん、頭大丈夫?」
「僕は全くもって正常だ! 人混みがいやだってなら平日に行けばいい、僕たちだけなら予定もすぐ合わせられるだろ」
「はぁ。どうせ、何を言っても行くことは決まってるんでしょ?」
十七夜が諦めたように言うと、常之は「分かってんじゃねーか」とポケットからチケットを取り出しひらひらはためかせた。その日に何も予定がないことも当然のように把握されていて、逃げ場は無いなとまた受け入れることしか出来なかった。
十七夜は実のところ、本の中に入ることには前々から少し興味があった。ネットか何かで見聞きした本の中の檻の噂、犯罪者を収容するシステム、能力の無い世界。そこでなら普通に生きていられるかもしれない――或いは死ぬことができるかもしれない、そう思ったのだ。
なんとかして捕まろうと考えたこともあった。十七夜の能力は使うだけで犯罪だと言っても過言ではなかった。平たく言えば死なない能力、生命に関わるあらゆる危機を回避する能力だ。それは他者を、周りを犠牲にする能力とも言える。加護された死神か悪魔か……そんな風に比喩することが出来た。
だが、いくら自身の能力による犠牲を目にしても捕まることはなかった。
飛び降り自殺を図った先に人がいて寧ろその人が首の骨を折って死んでも、入水自殺しようとしてそれを助けにやってきた人の方が溺死しても。今回のように何者かから危害を加えられるところを代わりに猫が傷付いても――炎に四方を囲まれた部屋に取り残されていたところを懸命に救い出してくれた消防隊と家族を尽くみんな犠牲にしても。全部ただの事故として処理され、彼が悪いと責められることは決してなかった。犯罪と認定されることも管理局から危険人物と認定されることもなかった。
悪意はなくとも実害は確かにあるもので、その度罪悪感に苛まれる。何故自分は誰かの命を奪ってまでのうのうと生き続けているんだ、どうしてそんな権利を与えられてしまっているんだ、十七夜は自分自身を恨み呪い続けた。どうにかしてこの世界から消え去りたい……そう思いながら日々を過ごし、無駄だと分かっていながら一人になるとまた青い血管の浮き出た白く細い手首に刃を滑らせる。切って初めて見える赤い糸――なんの皮肉か、これにどんな意味があるのか。意味ならあった、少なくとも血の色だけは他の人と同じなのだと実感して安心出来た。そして、これでは死ねないという事実を痛みと共に突きつけられるのだ。
目の前をちらつくチケットは常之の手に握られていて、実質掌の上で踊らされていて。どこまで計算済みなのか、底知れぬ恐ろしさを十七夜は感じていた。