#07 SCHRODINGER's CAT.
「……えっと。君が十七夜君……いやちゃんって言った方が良いかな?」
カデノーランド、ALL in WONDERLAND内。乾と立花が連れてきた少女が椅子にちょこんと座ると、テーブルを挟んで向かいの椅子に津島も座する。目線を合わせるように少し背中を丸めて前のめりになって困惑しながらも優しく話しかけるが、少女は怯えた視線を斜め下に落とし、何故か横にいる乾のスーツの裾から手を離そうとしない。
「この子が十七夜? 冗談やめろって」
「つっても本人がそうだって言ってるからなぁ」
「ほら、君もそんな突っかかって来ないで。十七夜、怖がってるでしょ」
常之が少女に顔を近付けると、逃れようと身体ごと向きを変えて乾のスーツを引っ張り顔を隠した。
少女の存在に気付くと初めこそは誰だか分からなかったものの、乾は何か閃いたのかすぐに「十七夜?」と声をかけた。
「……!」
はっとしたように顔を上げると少女は乾の顔をぼんやりと眺めた。
「えーっと?」
「…………」
「十七夜、なの?」
「…………っ」
「おい、どういうことだ?」
静かに頷く少女に、立花はありきたりな疑問を投げる。乾も言い出したはいいものの何がどうなっているのかさっぱり分からず首を傾げた。
「にしても、だ。乾、なんでこの女子が冠崎十七夜だと思ったんだよ」
「そうだな、言ってしまえばただの勘だ。でも雰囲気とあと……やっぱり目だな。この子、昔のあの子と同じ色の目してるからさ」
深く沈んだボトルグリーン。光も射さない暗い瞳に僅かな希望を儚く溶いた薄い幸福色が紛れている。
「それでも俺達が探していた冠崎十七夜は男で彼女は女だ、辻褄が合わねぇだろ」
「どうかな、性別を入れ替える能力くらいあってもおかしくはないだろ。そうでしょう、津島さん」
「えっ? 僕は聞いたことがないですけど、古見先生や柊さんは何か知ってる?」
「そうですね……僕も分かりませんが、存在しないことの証明が最も難しいとは言われていますからあるのかもしれないですね」
「でも、彼女からは能力の反応がないのです。性別を入れ替えるなんて能力は勿論、なんにも見えないのです」
普段はその辺に何か見えているのか、柊は腕を伸ばして視線の先の空を掴んだ。
「彼女は本当にわたしたちの知ってる冠崎さんなんでしょうか?」
「どういうこと?」
「うーん……でもこの場合は違うのかもしれないのです。今頭にある考えはただのわたしの仮説にすぎないので、できればもっとご本人からお話を聞きたいのですけど……」
柊の中である考えが浮かんだようだが、すぐに撤回した。そうして話を聞こうと少女の方を見るが、依然、乾のスーツを握りしめたままびくびくと震えていて何か話してくれるような様子ではない。
「あー、これだけ人が多くてかつ注目されてちゃ話せることも話せないさ、十七夜だったら尚更ね」
気付くと小空間に、乾・立花・津島・常之・柊・古見・瀧谷・雪乃……と八人も集結していて誰もが少女に注目し包囲していた。
「どうして彼女がおじさんにだけは心を開いているのかさーっぱり分かりませんけど、一旦わたしたちは退室してここはおじさんにお任せすべきなんでしょうか?」
「おい待て中学生」
「柊ですー!」
「ああ、柊。その冠崎らしき女子と乾を二人にするつもりか?」
「そうだ、それには僕も反対だ」
「なんだい君たち。まるで俺が疚しい考えを持ってるとでも言いたげじゃないか」
「「その通りだよ」」
「俺はそんな単純馬鹿じゃないんだよ、君たちとは違ってね。あと立花、お前には何度説明すればいいんだいい加減俺から犯罪者イメージを取っ払え」
いつもの調子で寸劇を繰り広げていると、少女がスーツを握る手を離して口を抑えやんわり笑ってみせた。
「おや、やっと笑ってくれたね」
津島が再び優しく声をかけると、緊張が解けたのか少女は少し俯きながらも顔を隠さずに身体を正面に向き直した。
「アンタ、ホントに十七夜なのか?」
「こら常之君、そんな訊き方しちゃだめでしょ」
「……チッ」
「…………えっ、と……、あの…………」
少女が微かに声を発する。しっかり聞き取ろうと津島は身体を寄せて耳を傾けた。
「……私は、冠崎十七夜……だと、思い……ます……」
「思います?」
「何か断定できない理由があるのかな?」
「……ごめんなさい」
「謝ることはないよ、話せることだけでいいからちょっとだけでも聞かせてくれる?」
柔らかな表情のまま丁寧に慎重に言葉を選ぶ津島に、少女も徐々に警戒心を弱めていったのかゆっくりと頷くと話を始めた。
「……私は、冠崎十七夜です……。でも……みなさんは、私……じゃない冠崎十七夜を……探してるみたい、なので……。それに……私にも、分からないことが……たくさんあるので……」
「そうだね、君は僕たちのよく知ってる〝十七夜君〟ではない。冷たい言い方になってしまうかもしれないけれどね」
「…………」
「それでも僕たちは君を見捨てたりはしないよ。ね、常之君」
「ま、アンタが十七夜だって言うならそうするしかないじゃん。十七夜が嘘なんてつけるはずないし」
すると、十七夜は顔を上げて僅かに頬を紅くして笑顔を向けた。
「そうだ、まずは分かることだけでも教えてくれるかな。例えば……乾さんについて。彼にだけは初めから気を許していたみたいだから」
「……乾さんは……なんて言うか……お兄さん……いや、お父さん、みたいな……」
「おいどういうことだ乾、説明しろ」
テーブルに手を叩きつけると立花はわざわざ乾を見上げる体勢になって目元を翳らせた。
「誤解だって。この子のことはさておき、昔十七夜のこと拾ったって言ったよな。その時しばらくうちで面倒見てただけで、どうやらその認識が彼女の中にもあるらしいって話だよ」
「怪しいな……。第一お前が冠崎十七夜の面倒を見る義理も筋合いもないだろ」
「そうだな。あの子から両親や家族の話は聞いたことこそないが、公的な手続きを踏んで親権を放棄してるとは考えにくいし、失踪宣告をしてる可能性だってある。なんであれ、俺があの子を保護する責任はどこにもない。ただの気まぐれとはいえ、なんでだろうな……」
「おっさんの昔話はどうだっていいんだよ。なあ、アンタの中の乾の認識がそうなら僕はどうなのさ」
このまま放っておけば乾と立花の不毛な口論は終わることを知らないだろうと、常之は十七夜に近付き問いかける。
「……分からない……ごめんなさい……」
「僕のことは知らないって?」
十七夜は申し訳なさそうにこくりと頷く。常之は「どうなってんだ」と釈然としないようで頭を掻き不服を唱えた。
「乾さんにだけ気を許していたことも考えると……僕のことも知らないのかな」
「……はい」
「やっぱり。だとすると、十七夜君と記憶や経験は共有しているけれどそれはあくまで過去のある地点までということらしいね」
「つまり、どういうことなんだ?」
「柊さんと同じくこれは僕の考える仮説に過ぎないけれど、彼女は過去のそしてこことは違う世界の〝冠崎十七夜〟という存在なんじゃないかな」
突拍子もない津島の発言に一同口々に疑問符を零すが、柊だけは確かに頷き「わたしもそう思いました」と話した。
「消えた冠崎さんと引き換えのように現れた少女冠崎さん、彼女は間違いなく冠崎十七夜さんであるのに確実に冠崎十七夜さんではない。こんな相反する事象が同時に起こり得るとすれば、わたしたちはこの世界ともう一つ分岐した別の世界の可能性を同時に観測しているとしか考えられないのです」
「シュレディンガーの猫ってやつか、これまた厨二病みたいだな」
「量子力学の思考実験ですね。でも柊さん、有り得た可能性は単に人間の想像の中にあるだけで現実ではないから並行世界は存在しないものと考えるのが自然ではないかな」
「古見先生は相変わらず現実主義ですね」
聡明とはいえまだ幼さの残る柊を相手にしていても科学的視点で見て不合理と考えられることを冷静に否定してしまう古見に津島は眉を曇らせ苦笑する。だが周りの成人勢は古見の意見に賛同しているようだった。
「俺は古見の説に乗る、俺の能力も同じようなもんでな。見えた未来も行動次第で目紛るしいくらいに変わりやがる」
例えば、わざわざ家にまでやって来た乾に洋食とは何たるかという説教を延々と聞かされる未来が見えたので、さくっと調べあげた情報を元にムニエルなる料理の材料を用意しておくことでそれを回避出来た――といったようなことだと立花は語る。
「そんで収束する可能性はいつも一つだ、複数選び取れる程この世界は甘くないぞ」
「だから言ってるじゃないですか、少女冠崎さんと引き換えにこの世界の冠崎さんはいなくなってしまったのだと。あまりに突飛なことだから受け入れ難いかもしれないですけど、世界が少女冠崎さんの可能性に収束したというだけの話なのです。そして、観測する可能世界は現実だけとは限らないのです」
テーブルの方を向いていた柊はくるりと背後へ向き直ると、部屋の奥の本棚の前に立つ雪乃を真っ直ぐに見つめた。柊の視線を辿り同じように雪乃を見ると立花は「ああそうか」と声を上げる。
「本の中の檻だ」
「そうなのです。正確には檻に限らず雪乃お姉さんが図書館で管理する物語世界全てが言わば擬似的な並行世界なのです。この場合は有り得た可能性ではなく創り出された可能性という方がいいかもしれません!」
「その説が正しいとすれば、彼女は私の書いた物語のどれか一つの中の存在ということなのね」
「そうなりますね」
「予想していた事態が両方とも起こってしまったみたいね……」
本の中に入った人物が出てこられなくなり、そして意図せず本の中の人物が現実世界にやってくる。奇しくもそれはどちらも〝冠崎十七夜〟という人間の身に降りかかっていた。
「でも待って下さい。そんなに都合良く創作の中に現実の人間と同じ名前の人物が存在するものなんですか? ましてや冠崎十七夜さんなんて名前、相当珍しいと思いますが」
ずっと部屋の入口付近で様子を見ていた瀧谷が徐ろに口を開く。乾は笑い交じりに「弥一まだいたんだな」と声をかけた。
「そうですねぇ、ですが雪乃お姉さんの作品と言えば取材を重ねたリアルさが魅力の一つだと聞いたことがあるのです!」
「確かに不合理な設定はありませんし、どこか既視感と言いますか親近感のようなものが湧いてくるんですよ! 例えばカデノ文庫レーベル四作目の……」
嬉々として話し出す古見を雪乃は勿論、読者である常之も少し引いた目をして見た。
「なんだよ読んでる男、僕以外にもいるんじゃん」
「僕も愛読してるよ、面白いよねぇ」
「津島先生もお読みになっているんですね!」
権威ある教授二人が無邪気な笑顔を向けあって自分の作品について語らう様子に、雪乃は照れくさくて恥ずかしくて体温が上がっていくのを感じていた。
「みなさんが盛り上がっている間に質問なんですけど、雪乃お姉さんは少女冠崎さんのようなキャラクターを作った覚えはあります?」
「うーんどうかしら。檻の為にって無心で物語を創ってばかりだったから一人一人のキャラクターまでは把握しきれてないわ。それに昔は取材なんてできなかったし……」
ここにあるハリボテやダミーとは比にならない膨大な数の蔵書がある管理局図書館を柊は思い出す。その中の一冊の登場人物の一人――結局は誰かになってしまうことを前提に生み出された形式上の人形。余程の訳か思い入れがない限り覚えているものではないだろうと、分かり切った調子で「ですよね」と呟いた。
「でも古見くんの言葉を借りるなら、いないって証明する方が大変らしいから、彼女は私の書いた物語の中の誰かと考えていた方がいいんでしょうね。でもこうして目の当たりにすると、なんだか母親にでもなった気分ね」
ふふっと嬉しそうに微笑む雪乃に十七夜は「おかあ……さん……?」と不思議そうな顔をして首を傾けている。
「おい乾どういうことだ?」
「だからなんもないって! ほらもう天王寺屋さんも変なこと言わないで下さいよ、十七夜も真に受けないで!」
「おかあさん……」
乾が慌てふためいている中、十七夜はぼーっと何か考えているようで何も考えていないような曖昧な表情をしている。
「つーかさ、普通に考えたら僕と十七夜が入った本のキャラなんじゃねーの? この……一応、十七夜? らしい奴は」
「では尾崎さんは本の中で彼女を見た、もしくはあなた自身が彼女になっていました?」
「それがさ、どんな話だったかだんだん思い出せなくなってきてさ……。なんか夢でも見てたみたいなんだよ」
その記憶がだんだん薄ぼんやりとしていく奇妙な感覚が認知出来る程に明瞭で、まるで頭の中が濃い霧で覆われて大事なことを全部隠して忘れさせようとしてくるみたいで、ぞわりと得体の知れない恐怖を煽ってくるのだと常之は言う。
「それってもしかして、本の中での記憶が現実に持ち越せてないってこと……?」
「普通なら本の中に入っているときは現実のことを忘れて、戻ってきたら中で体験したことと一緒に現実の記憶も取り戻すんだったよね」
「確かに俺たちは体験したことも現実の記憶も鮮明だよな」
「ええそうですね」
「肩書きだけでカーストの権力に屈した学級委員……ああ思い出しただけで情けないよ」
乾が天を仰いでいると柊は「おじさんらしいですねぇ」と無垢に毒を咲かせていた。
「これも何か関係してるのかな?」
「そう考えるのが自然ですよね、現に体験者の立花さん達には何も問題ないみたいですし」
「それじゃあ……ねえ十七夜ちゃん、君がいたかもしれない物語について何か覚えていることはない?」
「…………」
問いかけられて十七夜は絵に描いたような思案顔をしてみせる。そのまま暫く考え込むと「あ……」と小さく声にして顔を上げた。
「……あの子を……助けないと」