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ユキちゃん

作者: 臍美



 ケイちゃん、と、ケイコは自分を呼ぶ声に振り返った。

 「あさこちゃん」

 あさこちゃんは少し離れたところから、立ち止まったケイコの横に駆け寄ってきた。

 「あたし、今日、お習字お休みなの。一緒に帰ろうよ」

 あさこちゃんのくりっとしたまん丸の目がねだるように見つめてくる。

 「うん、いいよ。一緒に帰ろう」

 ケイコが頷くと、あさこちゃんがにぃと笑う。白い歯にはめた銀色の矯正具がきらりと光った。

 「ねえ、知ってる?」

 「何が?」

 ケイコがあさこちゃんの横顔を見ると、あさこちゃんは目だけケイコに向けていた。ぎょろっとしていて、魚の目みたいだった。

 「ユキちゃんの、お家のこと」

 ケイコは首を傾げた。

 「ユキちゃんのお家?」

 「そう。あの子のお家ね……ごみやしきなんだって」

 あさこちゃんがひそひそと小さな声で言ってくるから、ケイコはあさこちゃんのふっくらとしたほっぺに耳をうんと近付けないといけなかった。

 「……ごみやしきって、よくテレビとかでやってる?」

 ケイコも小さな声でひそひそと話す。あさこちゃんが頷く。丁度目の前を歩いていた上級生の子が、ちらりと二人を振り返って見た。

 ケイコはなんだかいけないことを話している気分になって、赤い靴を履いた足を立ち止まらせそうになる。

 これからあさこちゃんが話そうとしていることは楽しいことなんかじゃないんだ。だって、あさこちゃんが楽しそうににんまり笑うときは、必ずあたしの胸にモヤモヤを生みだす話をするときだもの。

 ケイコの予想は当たっていた。あさこちゃんの顔は、ご近所のおばさん達と人の悪い噂をひそひそ話すママの顔によく似ていた。

 「メイちゃんがね、ユキちゃんのお家に宿題のプリントとか、渡しに行ったんだって。そしたらね、あっ、ユキちゃんのお家ってあの大きな団地なの。でね、ユキちゃん家のピンポン押したんだけど、だあれも出てこなかったらしいの」

 「お留守だったんじゃないの?」

 ケイコは早くもげっそりとして、歩いているアスファルトの小石の色を心で呟き始めた。

 くろ。しろ。くろ。みどり。くろ。しろ。しろ。くろ。くろ。

 「ううん、留守じゃないんだって。メイちゃんがお家のピンポン押す前に、家の中でガサガサっていう音がしたんだって。だからいたんだよ。いたのに、そんときは出てこなかったの」

 「……ふーん」

 気のないケイコの相槌を気にもせず、あさこちゃんは綺麗に結んだツインテールを揺らして矯正具の光る口を動かした。

 「メイちゃんがしばらく待ってもだあれも出てこないから、諦めて一回下に降りたらね、ユキちゃんが上から降りてきて、プリントちょうだいって言ってきたんだって。きっと、お家の中見られたくなかったのね」

 なんかやってて、出られなかったんだよ。天ぷらでも揚げてたから、台所からささっと離れられなかったんだよ。

 ケイコは口には出さず叫んだ。あさこちゃんの口調は話すうちに段々と厳しくなってきていて、ユキちゃんを責めているみたいだったから。

 けれど、ユキちゃんが可哀想だよと思いながらも、ケイコははっきりと言葉にできなかった。

 「それにね、まいちゃんもかなこちゃんも言ってたんだけど、ユキちゃんのお家のドア、とってもクサいんだよ。学校の近くにあるごみ置き場みたいな匂いがするの。それに、学校で一人もユキちゃんのお家の中に入ったことも、玄関も見たことないんだって」

 ケイコは足を止めてしまった。小石の色を呟くのも、いつの間にかやめていた。

 前を見ると、さっき二人を見てきた上級生の子がすっかり姿を消していた。

 「ねえ、ケイちゃん。行きたくない?」

 あさこちゃんが数歩先で止まって、さっきのケイコのように振り返った。ニヤリと意地悪な顔をしたあさこちゃんを、ケイコはアニメで見た妖怪みたいだと思った。

 「……」

 ケイコは黙ったまま、微かに頷いた。









 ユキちゃんのお家は、町の中心にある大きな古い団地だった。

 松の木が近くの山に植えられていて、コンクリートでできた建物の群れの周りには、木がほとんどない。ケイコは一年中木や花に囲まれた自分の戸建ての家を思い出して、団地は寒そうだな、と憂鬱な気分で思っていた。

 「一番手前の入り口の、三階だよ」

 あさこちゃんが自信ありげに言って、汗ばんだ柔らかい手のひらでケイコの手を握って、一番手前のA棟へぐいぐい引っ張った。

 のそっとした牛みたいな棟には、三つの口が開いていて、それぞれ薄いけどひどく重い引き戸がついていた。それを二人がかりで引いて、薄暗い中に入る。

 外より一、二度気温が下がったように思える。あさこちゃんが身震いして、それが握った手を通じてケイコの体を震わせた。

 あさこちゃんのことは嫌いと言えば、嫌いなケイコだったけれど、暗くて寒いこの空間ではあたたかいあさこちゃんの手は大事なお守りのような気がした。

 入ってすぐのみぎがわには、あさこちゃんの矯正具と同じ色のポストがフジツボのように壁に並んで引っ付いていて、反対側にも塗装の剥がれた電気メーターが並んでいた。

 二人の正面には、どよんとした気の悪い空気をまとった階段が続いていた。あさこちゃんが、いい?とケイコを伺うように見てくる。ケイコはこくりと頷いて、先に階段に足をかけた。

 階段、踊場、階段、踊場と交互に上がると、五番目の階段に着いた。着いたところで、ケイコは思わず顔をしかめた。

 五番目の踊場の横の壁に埋め込まれてある、モスグリーンの塗装が見事なまでに剥がれた鉄のドアの向こうから、確かにごみの匂いがしたからだ。

 「ここだ」

 あさこちゃんの小さい呟きが、登ってくるときに響いた足音と同じように、五階まで続く棟の細長い空間でじんわりと広がってやがて消えていく。

 ドアに近づくにつれ、匂いもひどく、きつくなっていく。あさこちゃんが鼻をつまむジェスチャーをする。

 ふざけてやっているんだろうけど、ケイコはそれを見て突き放すようにあさこちゃんの手を離した。

 「帰ろう。あさこちゃん、帰ろう」

 懇願するように、そして突然手を離したことを誤魔化すように、あさこちゃんのコートの袖を引っ張る。

 「イヤよ。気になるもの。ケイちゃんだって、気になったからついてきたんでしょ。ユキちゃんのお家の中、見たかったんでしょ」

 恐ろしい顔をしたあさこちゃんが、怒ってケイコの手を強く振り払った。

 ケイコは困って、あさこちゃんの汗がついた湿っぽい自分の手をぎゅっと握った。冷たいこの空間に手のひらを晒しておくと、凍ってしまうんじゃないかと思った。

 「いいじゃない、もう。ユキちゃんのお家、ひどい匂いだったんだから。それって、ユキちゃんが本当にごみやしきに住んでるって証拠でしょ。わざわざ汚い中なんて見たくないよ。……晩ごはんが、不味くなっちゃうよ」

 まくし立てた言葉の最後は、ふざけて言ったことだった。この最悪な空気をどうにか変えたかった一心で。ここのクサい空気を外の新鮮な空気へ入れ換えるように。

 あさこちゃんはぎこちなくでも、笑ってくれた。あたしみたいに、突き放すなんてことはしなかった。

 そのとき、ユキちゃん家のドアの向こうからガサガサッと、何かの音がした。思わずあさこちゃんと顔を見合わせる。二人のぎこちない笑顔はさらにぎこちなくなって固まった。

 ガサガサ、とビニール袋を歩くような音がドアの向こうで、奥へ奥へ逃げるように遠ざかっていく。

 あさこちゃんに手を乱暴に引かれて、階段をかけ降りた。ダダダダッ、と足を踏み鳴らす音が耳の奥で響く。背負っているランドセルの中の物が、荒い移動に抗議するようにガシャガシャ鳴った。

 開けっ放しにしていた重い引き戸を通って外に飛び出す。冬の澄んだ空気を肺に押し込んで、今まで居座っていたごみの匂いを追い出す。

 「……か、帰ろう」

 白い息を吐いて、膝を抱えて踞ったあさこちゃんが立ち上がって先に歩きだす。ケイコはうん、と返事をするだけで、歩き出さずに、いつの間にか曇っている空を眺めていた。

 あさこちゃんに急かされて、砂利を踏んで敷地を出る前に、ふと目に入った三階の窓から視線を感じたが、ケイコは振り返らなかった。











 次の日、ユキちゃんは学校を休んだ。

 元から休みがちな子だったので、あさこちゃんは気にせずいつも通り、クラスの女子達と噂話を楽しんでいた。けれど、ケイコの方はというと、昨日あの団地から去ろうとしたときに感じた胸をチクリと刺すような痛みを忘れられなかった。

 ユキちゃんのユキエという名前にぴったりな、雪のように白い肌に怒りの赤が燃えている様子を、ケイコは想像する。ユキちゃんのお家の真ん前で、ずけずけと無遠慮に放った言葉の数々を、まだしっかりと覚えていた。

 あのモスグリーンのドアが棟の入り口の引き戸のように薄くないことを祈った昨晩の晩ごはんは食べる気になれなかったし、寝付きもかなり悪かった。

 聞こえてしまっていたのかな。あのときのあたしの声はよく響いていたし、あれはきっと棟に住んでいる人にくっついているよぼよぼのダニにまではっきり聞こえていただろう。音楽の先生に褒められるよく通る高い声を、ここまで憎んだのは初めてだった。

 「はぁ……」

 あさこちゃんなんかについていかなければ、あさこちゃんの話を聞いてあげなければ、あさこちゃんに一緒に帰ろうと言われたとき頷かなければ、こんなに落ち込むこともなかったかもしれない。募る後悔はまだまだある。

 「と、いうわけで、ユキエさんのプリントを届けてもらうのは、ケイコさんね」

 名前を呼ばれて、反射的に教室の教卓の前に立つ担任の水野先生を見た。

 そういえば、と今さら遅いが今は帰りの会の途中だった。

 「あの、先生、聞いてなかったんですけど……」

 いつも真面目に聞いているのに珍しいわね、とクスクス笑いながら水野先生はビニール袋に入ったプリントの薄い束を掲げた。

 「メイさんは今日、習い事があってユキエさんのお家へは行けないんですって。あまり遅くなるといけないから、終わってから行くのは駄目なのよ。メイさん以外にユキエさんのお家に一番近いのはあなたなの。それにあなた、ユキエさんのお家の場所を知っているらしいじゃない」

 水野先生が、そう言ってあさこちゃんを見る。あさこちゃんの隣の席にはメイちゃんがどんっと座っていて、二人でにまにまと変な笑いを浮かべていた。かっとケイコの体が熱くなる。二人がどういう頭の中身をしているか知らないけれど、あの二人はあたしがユキちゃんのお家に行くのを面白がっているんだわ。

 「……わ、わかりました」

 しぶしぶ請け負ったけれど、ケイコはメイちゃんの習い事であるバレエは毎週火曜日にはお休みだということを思い出す。

 黒板の端に書かれた"火曜日"の白い文字を睨みながら、ケイコは心の中で意地の悪い二人を口汚く罵っていた。

 水野先生がご機嫌に頷いて、みんなにさようならと言った。 

 「ちょっと、ねえ、あさこちゃん! メイちゃん!」

 帰りの会が終わったすぐそばから、子ネズミみたいに素早く教室を出ていったあさこちゃんとメイちゃんを追いかける。途中で水野先生から引ったくるようにしてプリントを受け取った。二人は丁度、昇降口で下履きを履くところだった。

 「なあに? ケイちゃん」

 トントン、とタイルの床にピンクの靴の爪先を打つあさこちゃんが振り返る。何の悪びれもない顔に、ケイコは一瞬言葉が詰まった。

 「さ、さっきのこと、どういうことなの?」

 「さっきのこと、ねえ?」

 意味がわからないとでもいうように、肩をすくめてみせるメイちゃんが、隠す気もなくクスクス笑うあさこちゃんに目配せする。

 「ふざけないでよ! あたし知ってるよ。メイちゃん、あなた今日習い事があるだなんて嘘でしょ。ユキちゃんのお家に行きたくないから嘘ついたんでしょ」

 二人の顔つきが変わった。あさこちゃんはケイコの剣幕に少し怯んだようだけれど、メイちゃんはそうはいかなかった。

 普通の女の子より倍大きい体を膨らませて、ケイコの小さな体を覆うように、前に立ち、ケイコを見下ろす。

 「急に火曜日もやることになったのよ。あたし、今度のバレエの発表会で役を貰ってるから、練習しなきゃいけないの。文句ある?」

 文句? 文句なんて、あるに決まってる。

 メイちゃんの尊大な態度に負けじとケイコはメイちゃんを睨み上げて、くいと顎をしゃくった。

 「ふん、どうせメイちゃんは役は役でも、岩か大木でしょ。まさかプリマだなんてこと、あるわけないもの!」

 堂々と言い切った後、かなり無謀だったかもしれない、とケイコは後悔した。メイちゃんのホームベースみたいな顔がみるみる真っ赤に燃えていく。大きく開いた鼻の穴からは、白い煙が出そうな勢いだった。

 「な、な、な……!」

 「そ、それか機関車かもね! プリマの妖精を乗せて、しゅっぽーっしゅっぽーって走り回るんだわ!」

 言葉を失うメイちゃんへのケイコの一押しに、あさこちゃんまでもが耐えきれず吹き出した。

 「あんた……っ!!」

 恥ずかしさと怒りで、真っ赤を通り越して赤黒くなったメイちゃんが、岩のようなげんこつを振り上げる。

 ケイコはこのとき、殴られてもいいと覚悟していた。けれど、実際に頬のうぶ毛にげんこつが触れると、想像以上に恐怖が勝ってすぐに避けようとした。

 けれど、遅かった。

 ケイコは自分の体がランドセルごと一瞬ふわりと浮いたと思った。でも、それは違って、物が軽々と叩き付けられるように、ケイコの体は下駄箱に打ち付けられた。

 「きゃああ!!」

 あさこちゃんが悲鳴を上げる。ケイコは頬を押さえて、口には出さずに、このおバカとあさこちゃんを罵った。

 なんであさこちゃんが怖がってるの? あたしのほうが叫びたいよ!

 「あなたたち、何やってるの!?」

 ケイコの崩れた体に、誰かが駆け寄る。痛みで涙の滲む目でメイちゃんを睨みつけていたケイコは駆け寄ってきた人物に視線を移した。

 「大丈夫? ぶたれたところ以外に、痛いところはない?」

 昨日、あさこちゃんと歩いていたときに二人を見てきた上級生の子だと、ケイコはすぐにわかった。真面目そうな顔つきで、しゃがんでもケイコより背丈が高い。

 「だ、大丈夫です……ほっぺだけです」

 すぐに立ち上がろうとして、膝が笑ってケイコは危うく再び下駄箱に倒れそうになった。

 上級生のお姉さんが優しく受け止めてくれた。お姉さんから漂ってきたふんわりとした香りに、ケイコはドキッとした。

 「怖かったのね。大丈夫よ」

 まるで小さな子供をあやすようにいい香りに抱き締められて、ケイコはあたし、もう三年生なのにと目を白黒させた。

 「大丈夫ですから! ちょっと、びっくりしただけで…ありがとう」

 お礼を言って、ずっとくっついていたくなる、惚れ薬のような香りから逃れる。殴られたショックで未だ震える膝にしっかりして!と喝を入れると、ケイコはすっかり顔を青くしたメイちゃんとあさこちゃんに向き直った。すぅっと息を吸って、吐き出すように叫ぶ。

 「人の悪口なんて、あたしは大嫌い! ユキちゃん家の前で言ったことは取り消せないけど、あたしはあんなこと本当は思ってない! メイちゃんに言ったことも謝る。ごめん。でも、これだけは言わせてよ。ずっと、言いたかったの。あたし、人の悪口言ったり、根も葉もない噂して楽しいなんて思ってるあなたたちのこと、すっごくカッコ悪いって思う!」

 ずっと、ずっと文句を言いたかった。ママも友達もそうだけれど、人の悪口を口にするなんて、どうかしてるのよ。本当はメイちゃんやあさこちゃんのことも悪く言いたくない。今まで曖昧にしてやり過ごしてきたけれど、あたしは悪口より楽しい話がしたい。猫や、妖精や、少女漫画やアクセサリーの話。好きな男の子の話。まだ八歳だからって油断して、悪口ばっかり言ってて大切な時間が無駄にならないように。悪いことで思い出がいっぱいにならないように。あたしは、雪のように真っ白で綺麗な思い出が欲しいんだ。

 「悪口と、殴ったのとで、おあいこよメイちゃん。じゃあね、二人とも! お姉さんも、心配してくれてありがとう!」

 ケイコの足が、そわそわしだした。

 ケイコはポカーンとした三人に叫ぶと、走れ!と命令する上履きを脱ぐと、お気に入りの赤い靴を履いて、走り出した。

 手には殴られたとき思いっきり握ってしわくちゃになったユキちゃんのプリント。昇降口を飛び出すと、ケイコは立ち止まって空をわぁと見上げた。吐いた息が、真っ白になって空に溶けていく。

 「雪だ!」

 白い小さな雪が大空からふわふわと落ちてくる。ケイコの瞳がそれを映してきらきらと幼く輝いていた。

 ──そういえば、ママが雪は空のごみや埃でいっぱいで汚いから、食べちゃダメだって言いつけてたってけ。

 ケイコがまだまだ小さかった頃の話だ。今でもそうだが、今以上にいたずらっ子で母親の言うことをなかなか聞かなかったケイコは、その話を聞いたそばからふざけて空から降りてくる雪を食べてしまった。雪はわたあめのように甘くはなく、埃っぽい味がした。

 ケイコは悪いことを考えついたあさこちゃんみたいに、にんまりと笑うと、あーんと思いっきり口を開けて目の前を舞う雪を食べようとする。けれど雪は食べられまいと意思をもってかわすようにふわりと舞うと、ケイコの赤くなった鼻の頭に落ちて溶けた。

 後ろで昇降口から出てきた下級生の子供たちがはしゃいで声をあげている。ケイコは一人、恥ずかしくなって顔を赤くしながら、また走り出した。肌に突き刺さってくる凍った風が、腫れた頬に気持ちいい。

 鼻の頭の小さなしずくは、勝ち誇ったようにきらきら輝いていた。









 寒い階段を駆け上がる。不思議と昨日来たときよりも棟の中があたたかい。今日のほうが寒いはずなのに。走ってきたからかな、とケイコは荒く呼吸をくり返しながら思った。

 違うかも、と思ったときにはもう、ユキちゃん家のドアの前に立っていた。

 やはり、ごみの匂いはする。けれど寒い中を走ってきたケイコの鼻は、鼻水のせいで多少効きづらくなっていたから、それほど気にはならなかった。

 手袋をはずしてコートのポケットへ突っ込む。指先の跡を残して薄く剥げている呼び出しベルを押す。グッと押すと、ピンと跳ねるような音がして、離すとポーンと間延びした音が鳴る。

 ごくり、と唾を飲み込むケイコは、しばらく待った。このしばらくは、ケイコにとってとても長く感じられた。ケイコは思いきって銀色の丸いドアノブを回してみた。ドアノブはとても冷えている。

 カチャリ、と音を立てて回すと、握ったままゆっくり手前に引いてみる。

 ──ダメだ。鍵が閉まっていて、開かない。ドアノブを離すと、カチャッと首を回して戻った。

 ケイコはぴょんぴょん、と歩き始めの子猫のように跳ねる心臓を押さえ付けて、優しく宥める。

 「ゆ、ユキちゃん」

 つい、ユキちゃんを呼んだが、それはなんでもこだまする棟にも響かない小さな声だった。

 自分の声がひどく掠れていて、ここまで走ってきた間にこんこんと湧いていた自信や、ユキちゃんへの言葉たちがすっかり怯えて、ケイコの中に隠れてしまっていることに気がつく。二の句が継げず、ついにケイコは踵を返すことにした。

 コーン、コーンと階段を降りる音が響く。ユキちゃんと自分を隔てる、あの忌々しい鉄のドアから離れても、ケイコはものを言えそうになかった。

 もしかしたら、このまま降りていったら、ユキちゃんがあのドアから出てきて、にっこり笑ってあたしにプリントちょうだいって言ってくるんじゃないかな。

 そう思うと、ケイコの枯れた松林のような心に一輪の花が咲きだす。ケイコはせっかちな猫になったつもりで、ひらりゆらり、軽やかに階段を降りていく。

 けれど、ケイコが一階の踊場に着いても、ユキちゃんは出てきてくれなかった。

 ケイコの周りが急に寒くなる。心の花が霜に覆われていて、空から半端に射し込んできた光に溶かされ、茶色く萎れる。

 ケイコは寒さに震えながら、垂れてくる鼻水を啜った。

 とぼとぼと元気なくポストの群れの前を通り過ぎて、入ってきたときは素早く開けられた引き戸をのろのろと引く。サッシの溝にはまった小石がなんとも憎たらしい。

 なんとか外に出ても、ユキちゃんが出てきてくれる気配はない。すがるように見た三階の窓は警戒するように緑色のカーテンが全部閉められていた。

 ケイコが黒い森に這う気味の悪い霧のようなものを胸にまとわせたまま帰ろうとしたとき、ケイコの耳にサンタクロースのソリに取り付けられた鈴のように楽しげで、明るい声が届いた。

 ピタリ、とケイコの動きが固まって、しばらくしてから砂利を踏む音を立てないように、静かに音の方を振り返った。ケイコの目が不安気に曇る。

 音は止んでいた。

 意地悪な雪の妖精の声だったのかもしれない、とケイコはがっかりして立ち去ろうとする。けれどまた、その声が響いた。今度はひときわ大きく、ケイコを惹き付けるためのように思えた。

 ケイコははっと息を吸い込むと、バネのように跳ねて、声の方へ走った。

 棟にある三つの引き戸を全て素通りして、建物の角を曲がる。曲がった先は小さな坂になっていて、くだると少し大きめの公園があった。公園には、大きめの松の木が一本立っているだけで、他の植物は雑草でさえ生えていない。

 綺麗というか、物悲しく整備された敷地内で、唯一置いてあった青いジャングルジム。そのてっぺんに座っている少女がいた。

 ──雪の…妖精だ。

 鉛色に曇った空からは光もなにもないのにきらきら輝いて舞う雪の群集の中心で、まるで讃えられているかのように嬉しそうに、幸せそうに微笑むユキちゃんがいた。

 「ユキちゃん!」

 振り返ったユキちゃんに、ケイコは駆け寄った。

 ユキちゃんとなら、楽しい話が沢山できると思えた。





 おわり。

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