第11話
地球とあまり変わらぬ空の向こうにはおぼろげに火星の衛星が見える。
フォボスとダイモスに新たに加わった第三衛星、火星ではアレスと呼ばれている、新しい衛星だ。
コウキはドーム街にある自動運転のレールカーの車内から頬杖を着きながら呆けた表情でその光景を見上げている。
「今日はアレスがよく見えますね」
「……そうだな」
ルーツクレーターから掘り進んだ横穴から火星地表へと掘り進み、火星地表に建設した各地のドーム街と接続する。
重力の弱さがここでは幸いとなって、街を覆うドームの建設速度も進み極冠から木の根を張る様に増え続けていた。
「まだ昨日のことを?」
「ん? あぁ、ファルークと言ったか……フッリーヤからの新たな動きは?」
「……いいえ、残念ながら」
ハルは車内に備え付けられた通信端末にアクセスすると、僅か数秒でニュースサイトの記事をチェックする。
ファルークの所属していたテロ組織“フッリーヤ”の続報がない事を確認した。
靴を脱いで座席に膝立ちになり、外の様子を眺めたまま、コウキに向かって言葉を返す。
「コウキ、なぜ彼等は火星を狙うのです?」
「お前は情報として知ってるだけだからな。
簡単に言えば地球はもう住める惑星じゃないんだ」
「資源的には裕福なのに?」
「太陽系は太陽の周りを公転している。
それくらいは知ってるだろ? シミュレートしてみろ」
ハルは記憶領域に保存された。情報を元に太陽系の質量運動をシミュレートする。
宇宙空間は厳密には真空とは言えず運動エネルギーが永遠に失われない永久機関ではない。
無数の星間物質に地球の公転運動は抵抗を受け続け、月から受ける潮汐力による地球の自転速度の低下によって、運動質量も減少することで質量も軽くなる。
運動質量の低下による影響でより星間物質の抵抗は受け易くなる為に地球はやがて太陽に接近して公転周期は加速する。
彼女のシミュレーションでは最終的には太陽系に存在する惑星は全て太陽に飲まれ消え去ってしまった。
「地球は太陽に向かって“落ちている”んだぜ?
当然環境にも影響が出る」
「温室効果ガスによる。地球温暖化ですか?」
ハルの返答にコウキは鼻で笑うと、手に持った水をゆっくりと呷り言葉を返した。
「そりゃ原子力を推進してイエローケーキを売りつけたい連中の考えた方便。
地球は太古の昔に地球全域が氷に包まれる、全球凍結を起こしている。
だが今じゃそんな事は起こらない、何故だと思う?」
「太陽に近付いているのに冷える訳がありません」
ハルが尤もな意見でコウキの言葉に返答すると、コウキは髪を手櫛でさばく。
窓の外に目を移すと、深い溜息をついて更に言葉を繋げた。
「地球は閉鎖系で惑星スケールでは大気組成の地中への循環に数万年懸かる。
大気中に放出された二酸化炭素は比重が重い為に水素のように系外には放出されない。
地球温暖化にどれだけ対応した所で停止ボタンを押しているだけに過ぎないんだ」
究極的には生物の呼気に含まれる二酸化炭素を減らす必要がある。
コウキはそうした発想が一旦脳裏に浮かびはした物のすぐにその考えを振り払い、首を手の平で撫で回した。
ハルはコウキの発言を演算野で分析後に反証を組み立て即座に言葉を返す。
「大気中の二酸化炭素は植物により酸素に変換され、海洋にも吸収されるのでは?」
「結果として起きるのは海洋の酸性化だ。
酸素が水素と結びついて水になり、ここから生じた水蒸気は更なる温室効果をもたらす。
大規模環境変動の要因は二酸化炭素よりもこの水蒸気が役割が大きい」
火星の入植当時にも大規模なジオエンジニアリングによる大気組成の操作が行われた。
特に宇宙からの太陽風から火星を防護するジオエンジニアリング衛星による磁界障壁等がある。
火星のテラフォーミングの最大の難関は気圧の低さによって水が地表に定着する事ができない点だろう。
「地球環境は金星化している。
世界各地でハリケーンが発生、極冠の氷は溶け始めている。
赤道全域は完全に砂漠化、人口は増えているのに生活圏は減りはじめた」
「逆に火星は太陽に接近する事で気温が上昇する。
その為に火星への殖民計画があったのですね」
「いや……それは違う。
極冠の氷が溶けて水位が上がった場合、海洋面積が広がる事でアルベド効果が増す。
それによって太陽の入射率が下がり表面温度は低下することで水蒸気の放出量が抑えられる。
人間如きが助けなくても、地球には調整機能がある……ある程度はな。
結局は原子力で蒸気タービンを回すのも、火力で蒸気タービンを回すのも、水蒸気を放出する以上は温室効果の上では変わらないって話だ」
「水蒸気も二酸化炭素も温室効果をもたらす点では変わらないのですね。
合成の誤謬というものでしょうか?」
ハルの論理回路が導き出した結論をコウキが否定する。
仮にそうであれば、地球と火星の両者が戦争行動を犯す必要などないのだ。
「地球環境の激変は人類にとって不可避の課題でもあった。
だが、支配層はその事実をゴシップ誌によくある終末論のスキマに埋めちまったのさ」
「?」
ハルは理解出来ない様子で小首を傾げる。その愛らしい仕草にコウキは特に反応する事もなく。
彼の目は宇宙から伸びている軌道エレベーターの姿に釘付けになっている。
「地球の環境に変化が訪れるのは千年後、一万年後、とタカを括ってたんだ。
そして、いざ環境の激変が起こった時には生存に適した外惑星に先住民がいた」
「小学生の夏休みの宿題のようですね」
「だからネットをクロールして変な情報仕入れるのは止めとけ。
あとで始末書書くのは管理者の俺なんだぞ?」
ハルはコウキの言葉にペロッと舌を出してはぐらかすと、再び窓の外に目を移す。
そこには火星産まれのハルにとっては懐かしい景色が流れ去っていった。
「戦争……やめられませんか?」
「……残念ながら、な」
懐かしい景色が過ぎ去っていく中で車内では重苦しい沈黙に包まれた。
パイロットスーツに身を包んだイーリアが、彼女の持ち込んだ機体UNIT-9の前で腕を組んで立ち尽くしている。
その様子をめざとく見つけたバートンではあったが、特に興味を持たないまま彼女とすれちがう。
「バートン整備主任。少しいいかしら?」
「……はぁ、何の御用でしょう?」
「私の機体も地上戦用に換装できない?」
「それはちょっとばかり無理がきますね」
コスモポリタン製のEVCツィガーヌはUNIT-9とは比較にならない高い性能を持つ。
そのひとつにあるのが電磁誘導による慣性制御機構だ。
簡単に言えば加速する方向とは逆方向にコクピットブロックを稼動させる事で、加速時の慣性を相殺する事が出来る。
これを応用して地上戦でもバニーホップによる落着の衝撃を相殺。吸収を可能としている。
「コクピット周りは総取っ替えになるからねぇ……軍から許可も得ないと。
下手にいじるより、ツィガーヌに乗った方がいいんじゃ?」
「……え? いいのかしら?」
「そのへんの話なら……リュウ!」
バートンが遠巻きで整備員と会話していたリュウを呼び止めると手招きした。
リュウがイーリア達と合流すると、バートンはそそくさとその場から離れ、機体の整備へと戻っていった。
「何かようかな? イーリア少尉」
「私、嫌われているのかしら?」
「あぁ、バートンは視線恐怖症らしくてね。
人と向かい合って話すのは少し苦手なんだ。それで?」
「私の地上用の機体についてなのだけど……」
リュウはイーリアの言葉に若干思案した様子を見せると、眼鏡のつるを押し上げる。
「しばらくはツィガーヌで構わないかな?
我々はいずれ、月方面に向かって火星を経つ予定だ」
「火星を見捨てるの!?」
現在の月は条約の締結などが月面都市で行われ、永住には向かない立地ながらも盛んに交易も行われている。
地球と火星両方面からの避難民が疎開先として選択する月は一時的な中立地帯となっている。
「コスモポリタンには月に居住している親族も多いからね……君は宇宙へは?」
「軍からの召集はまだ……」
「君は軍人だから私よりも詳しいだろうが、火星軍の第一陣は既に地球に向けて出発した」
「えぇ、そのようね」
宇宙戦闘には大別して二つの戦術がある。相対速度域を等速に合わせた“非相対戦”。
これは、従来の戦闘と同じく火砲の威力などが重要なファクターを占める。
もう一つは異なる速度で対称と接触する“相対戦”。
今までの戦闘のように高い相対速度域にある攻撃は、全て対象にとっての致命打となる。
現状、地球軍と火星軍は交差線上にあるために必然的に戦闘は相対戦となる。
そしてその戦闘結果はどちらにもおびただしい被害を与えることは火を見るよりも明白だった。
「上手くは言えないが……嫌な予感がするんだ。
君も宇宙へ出た方が良い」
「私は……そうね。第一陣と合流できればそれに越した事はない」
イーリアはリュウとその場で別れると整備用昇降機に乗り込み、UNIT-9のコクピットを空けた。
彼女はシャッターを閉じるとそのまま目を瞑り。
コクピットにかすかに残る戦友との記憶を思い起こし、ゆっくりと眠りに着いた。