本編
【物語の舞台】
時代:宇宙暦300年
舞台:英国倫敦
冷たい夜だった。
氷を溶かしたような夜気が、静かに渦を巻いて墨色の曇天から落ちてくる。星ひとつ見えない12月の夜空は硬質に凍りつき、今にも雪を降らせそうな気配だった。風はなく、夜は静寂に満ち冴え渡り、月明かりさえ見せずに淡々と更けてゆく。
地球英国首都、倫敦の郊外。
静かに氷結した墨色の空に突き刺さるようにして、高く尖塔が聳え立っていた。レンガ造りの古い塔は外壁のいたる所が崩れ落ちて、年月の古さを物語っている。その陰に隠れるようにして夜の底にうずくまっているのは、同じく朽ち欠けて崩れ果てた礼拝堂だった。外壁と天井の大半が形を失ったその礼拝堂は、かつてヨーロッパでも屈指の名刹として知られていたが、二紀以上も昔に打ち捨てられ、それは長い年月を経て誰からも忘れ去られ、廃教会として管理する者もないままに無残な姿をさらしていた。
女がその廃教会に現れたのは、日付も変わろうとする深夜になってのことだった。夜目にも映える雪色の肌に、エナメルを流したようなブロンドの髪。青く透った瞳はサファイアの色。肌の色は吐く息よりも白い。毛の生え変わったばかりのような狐の色のコートに身を包んで、どこからかやってきた彼女は尖塔の前に一人、佇んでいた。
尖塔は時計塔だった。その頂には巨大な時計盤が据えられていたが、既に動かなくなって久しいその時計に二本の針はなく、枯れ果てた蔦が盤面を覆い尽くしていた。崩れたレンガの隙間に覗くのは赤銅色に錆びついた大鐘だったが、無論のこと鐘が音をたてることは有り得なかった。
女はしばらくの間、動かない時計を見上げていたが、やがてゆっくりと礼拝堂に向かって歩きだした。廃棄された教会の庭内は崩落した瓦礫や枯草で一杯だった。加えて、この夜の暗さである。彼女の手には、弱々しい蝋燭の明かりが一つあるばかりだった。にも関わらず、彼女は特に難渋するでもなく歩き慣れた様子で枯草を踏み分けてゆくのだった。
礼拝堂には扉がなかった。それはとうの昔に砕け崩れて、庭内のいずこかに転がっていた。彼女は、わずかの逡巡も見せなかった。何でもないことのように、崩れた外壁の隙間から中へと入り込み、軽くコートの裾を払った。その動作は、ひどく優雅だった。そこは確かにかつて入口のあった箇所だったが、彼女がそれを知っていたのか否か――。
ゆらめく蝋燭の炎に照らし出された堂内は瓦礫と埃の山だった。会衆席の大半はそれら大量の瓦礫の下に埋もれてまるで震災に見舞われたかのようなありさまだったが、奇跡的にも祭壇と十字架だけは形を留めていた。その祭壇に向かって、彼女はまっすぐに側廊を渡った。その右手には燭台が提げられ、左手の脇には一冊の書物が挟まれていた。石造りの床にブーツの底がカツカツと響き、ジリジリと蝋を焦がす炎の音と重なって、冷たく凝固した夜に小さな音の波形を刻み込んだ。
――と、
「汝は顔に汗を流して食物を得、ついには土に帰る。汝がそこから取られた土に……」
不意に、女が口を開いた。呟くようなその言葉は、聖書の一節だった。
「汝は塵なのだから、塵にこそ帰るべきである」
創世記。
世界の始まりと人間の基本的な罪について記された書の、最も印象的な一節。アルト歌手のように美しく響くその声は四方の壁に撥ね返って、木霊しながら鳴り響いた。
祭壇の前に足を止めて、彼女は燭台を置いた。木製の祭壇には薄く埃が積もって、あちこちにインクの汚れが散っている。彼女は静かに一冊の書物を燭台の隣に並べた。それは旧約聖書だった。どれだけ読み返されたのか、表紙が擦り切れて変色している。
彼女は腰を低くして両肘を祭壇の上につき、左右の手を組み合わせた。その手に自らの額を押し当てるようにして、何かを祈るように瞼を閉じる。それからゆっくりと顔を上げて、遥かな高みに掲げられた十字架を仰ぎ、一言、小さく呟いた。
「主よ、お許しください」
その一言で、彼女は意を決したようだった。姿勢を直し、胸の前で十字を切ると、コートのポケットに手を入れた。その中から白銀色の銃器が取り出し、祭壇の上に軽い音を立てた。
『夜想曲』。
そういう名の銃であった。
そっと彼女の手が離れると、無機質な銀色のその表面にはうっすらと白く指の跡が残った。それはたちまち消え失せて、代わりに彼女の唇から深く真っ白な息が吐き出された。
彼女の名を、マリア・ウェーバーといった。
不意に礼拝堂の入り口付近の瓦礫が崩れる音がした。
時が動くことを思い出しかのように、緩やかに風が流れ始める。
ゆるく流れ始めた風は礼拝堂の淀んだ空気を洗い流し、祭壇の蝋燭を瞬かせた。既に蝋燭はそのほとんどが溶けて燭台の底に固まり、芯は倒れかけ斜めにオレンジ色の火を発していた。
「第一級テロリスト、マリア・ウェーバーだな?」
礼拝堂の入り口付近から感情の排された野太い声が響いた。瓦礫を踏み潰す軋轢音が静寂の礼拝堂によく響く。
「地球連合軍中尉ウランフ・オフレッサーだ、貴様を逮捕する」
己の後背の声に振り向きもせず、女は蝋燭の炎を見つめていた。
サファイア色の瞳に映る炎は、彼女に何を思い出させるのか。
あるいは、何も思い出させはしないのか。
そもそも思い出すような何事かが彼女の中には記録されているのか。
一体、彼女は何人めの実験体なのか。
オフレッサーは、蝋燭の淡く揺らめく炎に照らされる女の後姿に、僅かに思索にふける。だが彼女が如何なる境遇であれ、己の成す事は変わらない。
ギシリ
巨躯を一歩踏み出す。
しかし、女は動かない。女が胸の前で握りしめる右手には、ノクターンの銃把があった。
テロリスト撲滅を目的とした政府の極秘計画トロン=リヴェスタの一環にて、遺伝子操作で造られた亜人間種。全てを塵に帰すことを目的に造られた女。
そして、造られた女の唯一の欠点は自我を持った事であった。彼女は自分の仕事を選ぶ。ゆえに彼女は己を創造した機関を滅ぼした。たった独りで闘い、たった独りで機関を滅ぼしたのだ。
造られた生命
造られた使命
造られた運命
――彼女は神に救いを求め、この廃れた礼拝堂に住み着いた。もはや彼女が、誰かに牙を剥く事はないだろう事は、予想に難くなかった。だが、彼女の圧倒的な殲闘力の前に、そして『彼女の存在』の前にそれは些細な事であった。トロン=リヴェスタはなかったと処理された。つまり存在しない機関の産物など、在ってはならないのだ。かくして彼女の住み着いた礼拝堂に、地球連合軍の殲滅部隊『愛国者』が送り込まれたのだ。
蝋燭の炎が大きく揺らぐ。蝋の焦げる音が苦しげに軋って、煤混じりの黒い煙が立ち上った。燃え尽きる寸前の炎が見せる、それは断末魔にも似た最後の揺らめきだった。
その一瞬の後には、もう炎は燃え尽きて、冷たい夜を照らし出す明かりはもはやどこにも存在しなかった。祭壇も、十字架も、聖書も、そしてマリアの姿もまた夜の闇に溶け込んだ。微かに礼拝堂の闇の中に浮かぶのは、猫の双眸のように輝くマリアの瞳だけになった。その色もすぐに閉じられて、堂内に完全な闇が落ちる。狂おしいほどの静寂が張り詰め――やがていずこかからそれを破ったのは、二人の銃声であった。
オフレッサーはゆっくりと礼拝堂から歩み出る。左腕がダラリと下がり、その指先からはポツリ、ポツリと紅が滴っている。表で待機していた愛国者の同僚たちが駆け寄ってくる。静かな笑みを浮かべた巨漢は、同僚の心配する声に右手を上げ応じ、足を止めて振り返った。
ちらちらと、空には幻影のように散りばめられた白。12月の夜空には雪が降り始めて、音のない世界を作り出そうとしていた。
汝のかけら全てを
葬儀屋たちよ、燃やせ
汝は塵なのだから
塵にこそ、帰るべきである
今際の女のうわ言が耳で木霊する。
殺すつもりで殺した。
それが任務だったから。
だが、あの女は殺されなければならなかったのだろうか。
兵士にあるまじき疑問。思ってはならない疑念。
それでも、己は闘うしかないのだろう。
「クソッ」
思わず吐き捨てた男の悪態は、舞い落ちる雪の中に掻き消され、誰にも届きはしなかった。
――了




