コンビニとキツネ
玄関を出た途端、夏独特の風の凪いだ空気と目に見えない湿気が肌に張り付くようで、不快感に眉を顰める。今日は間違いなく熱帯夜だ。
外は街灯の心許ない明かりと、住宅から漏れる電気の光だけが頼りの暗闇に包まれていた。昼間は苛まれるほど晴れ渡っていたというのに、今は打って変わって月も星も見えない曇天だ。
母親に渡された千円札だけを握り締めてショートパンツのポケットに手を突っ込み、まるで子供が始めてのお使いに出るみたい。
勇人と二人並んで歩いても会話は無い。七海は足元に目を落として歩いていたが、こっそりと隣にいる勇人を盗み見た。
少し長めの髪の中にも夜闇が溶け込んでいて、色がくすんで見える。日光の下の方がきっと綺麗だと思った。
いつの間にか、まじまじと観察していたらしく視線に気付いた勇人に振り向かれ、慌てて目を逸らした。
悪い事をしていたわけではない。けれどなんとなくばつが悪くはある。誤魔化すようにヘラリと笑った。
「その髪さ、綺麗だなって思ったの。初めて会ったとき」
同じアイボリーの瞳が瞬く。
「……んなこと初めて言われた」
「そう?」
ボソリと呟いた勇人の顔を覗き込もうとしたが、反対側を向かれて叶わなかった。
ガラにも無く照れてたりするのか。
その可能性が大きいと決め付けた七海は一人忍び笑いを湛えた。
「お前……変な奴だな」
「無礼な!」
褒めたのに。お世辞を言ったわけではなく本心だ。心から七海は彼を褒めたというのに、それに対して変な奴呼ばわりとは我慢ならない。
少しは可愛げがあると思ったのは間違いだったらしい。
「ここは食後の運動がてら一戦交えるべきですか? ええ?」
ファイティングポーズをとり、毛を逆撫でる猫のように威嚇してくる七海に、今度は勇人が笑う番だ。
「別にさっきのは貶したんじゃなくて」
何と言えばいいのか。言葉を捜す。何気なく空を見上げた。
「こんな人間もいるんだなって驚いたんだ」
これまで勇人のいた世界はとても小さかった。ごく限られた狭い空間が総てだった。そんな中で出会える人間なんて僅かで。だから七海や彼女の家族のような人に出会うのは初めてだ。
奇異な目で見られる事も、恐れて逃げ出す者も多かった。
「ウチの家族が変って言うなら否定しないけどね。私はあの人達みたいに規格外じゃぁないのよ」
腕を組んで心外だと訴える七海。果たしてそうだろうか。勇人の少ない経験で今まで普通だと思っていたものと随分違いがあるのだが。それは勇人に言えた義理ではない。
というより、表す言葉などどうでもいいのだ。
「怒ってただろ、お前。なのに今はそんな事ないみたいだから」
「言っとくけど許さないよ、物凄く痛かったもの。でもあのテンション持続させるのってしんどいじゃない」
喜怒哀楽どれを取ってみても、一つの感情を保つのは意外と体力の要る作業だ。忘れるのも許すのもまた別だが、時間が経てば怒りは沈静化させられる。
大したリアクションはもらえなかったが、それでも昌也に愚痴ったことで最後の怒りの欠片も消え失せていた。
「それにまぁ、大抵はこの世の中何があっても不思議じゃあないわねっていう言葉で解決させんのが私の基本スタンスだから。あそこで勇人に苦しめられるのも人生、ここで勇人と打ち解けんのも人生よ」
伊達にあの家族と十七年間も生活を共にしたわけじゃない。このくらい軽く水に流せないようでは藤岡家を名乗れないのだ。何せ本人達がよっぽど周囲に迷惑をかけているのだから。
道路を挟んだ先に煌々と明るい光を発するコンビニエンスストアが見えた。
自動車が通り過ぎるのを待つ。
「何を買おうかなぁ」と思考を既に切り替えてしまっている七海は凡人ではないと思わされた。七海の言う通り、彼女の家族もまた然り。
あの時の勇人は焦りに苛立っていた。思い返せば七海の最低だという台詞も当然な行動を取っていた。怖かったに違いない。流した涙は生理的なものだけではなかったはずだ。
おいそれと「それも人生」などと片付けられるものではない。
今日は面食らってばかりだ。
「勇人? ほら行こう」
信号のない交差点。車が途切れるタイミングを見計らっての危うい横断。さほど広くは無い道路だが交通量はそこそこあって機を逃せば数メートル先のコンビニに辿り着くのにどれだけ時間が掛かるか。
もう既に視界の端に、車のテールランプが近づいてきているのが見える。ぼうっと突っ立っている勇人を促して駆け出した。
駐車場に到達して速度を緩めようとした瞬間、後ろから呼ばれた七海は振り返ると同時に肩を突かれ、飛ばされるように地面に倒れこんだ。
「いった……」
一切クッション性のないアスファルトにぶつかった衝撃と、咄嗟について擦り傷だらけになった手から痛みが走る。
「何すん……の」
地面に座り込んだまま、突き飛ばした犯人であろう勇人を振り仰ぐ。
だが勇人よりもまず目に入って来たのは、眼前で牙を剥く獣だった。息を呑む間も与えられないほどの距離だ。
だが悲鳴を上げたのは獣の方で、七海は勇人が獣を蹴りつけるのを尻餅をついたまま呆然と見ていた。
もし、突き飛ばされていなければ七海はどうなっていたのか。想像しただけで冷や汗が伝った。
「平気か」
「う、うん」
差し出された手に自分のものを重ねる。ずきりと傷が痛んだが、見上げれば勇人は無事だったようで安堵の息を吐いた。
そして漸く初めて自分がずっと呼吸を止めていたのだと知った。酸素不足のために早く脈打つ心臓をどうにかしたくて大きく空気を吸い込む。
身体を捻って地面に着地した獣と、それ以外にもう一匹いたらしく、勇人にやられたところを労わるように身体を擦り付け合っている。
大きさは犬くらいだが違う。猫でもない。
「キツネ……だよね。え、え、野良キツネ? てかこの辺キツネなんて生息してるもんなの!? 私初めて見たんだけど! ねぇあれって珍しいよね!?」
何が起こったのか理解出来ない七海は答えを求めるように勇人を見た。 指差した先にいる狐は七海が既知しているものとは異なる。襲ってきた方の毛は銀、もう一方は赤銅だ。こんなの見た事ないと興奮を隠せない七海と違い、落ち着きを払っている彼ならば知っているのではないか。
けれども、そんな事よりも、やっと目に入ってきた周囲の異変に気を取られた。
夜独特の濃紺の闇に包まれていたはずの辺りは、まるで色を失ったかのような灰一色。街頭の明かりはおろか、コンビニエンスストアさえも光を放っていない。
一瞬、自分の色彩感覚が失われたのではないかと錯覚に陥った。しかし隣にいる勇人も、こちらを威嚇してくる狐達も七海が認識していたものと何ら変わりない。情景のみがグレースケールになっている。
それだけではない。七海達以外に人はおらず、ひっきりなしに通っていたはずの車も今は一台だって走っていない。無音が続く。
「なんなの?」
七海の声だけがやけに大きく響いた。七海の不安に触発されたのか、再度狐が駆け出し襲い掛かってきた。
大きく跳躍した狐は真っ直ぐ勇人に噛み付きに掛かった。寸でのところで避けた勇人は脚を回転させ狐が着地する前に腹にめり込ませた。甲高い悲鳴に七海は耳を塞ぐ。
壁に叩きつけられるのと入れ違いにもう一匹が背後から勇人に近づいたが、難なくその首元を掴み同じように放り投げた。
「す、すごい……」
アクション映画のワンシーンを思わせる勇人の機敏な動きに七海は呆けながら呟く。
足から力が抜けへなへなと座り込んでしまった。
勇人は倒れこんだ狐の元まで行くと一匹を掴み上げ、顔を近づけた。
「簡単に使われやがって阿呆が」
貶せば言葉が分かったかのようなタイミングで狐は唸った。暴れ出し勇人の顔を噛みそうな勢いだ。
「誰が主人かも分からなくなったか? また一から教育し直した方が良さそうだな」
勇人は狐を掴んでいた手を離すと、拳を作り振り下ろそうとした。
だが自分の意思とは関係なく宙で止まった腕を鬱陶しそうに見れば、予想通り七海がしがみ付いている。
「ダメ! 動物虐待! ……可哀相だよ」
「可哀相? 言っとくけどな、これはお前の事本気で殺そうとしてたぞ」
「そ……かもしれないけど」
勇人の腕を拘束を解こうとせず、七海は狐に目をやる。
既に臨戦状態に構えている二匹に怯むも駄目だと首を横に振った。生々しい事件の目撃者になるなどご免だ。ましてその犯人が同居人だなんて。
勇人が反論しようと口を開いたとき空気が一変した。ずしりと肩に圧し掛かる。狐達は身体を萎縮させた。何事かと周囲を見渡す七海とは違い、勇人は黙ったまま一点を凝視していた。自然と七海も視線を辿る。四角いコンビニの建物の、店のロゴが掲げられているその上。灰がかった世界に溶ける体とは対照的に瞳だけが怪しげな光を纏い、ぎょろりと七海達を見下ろしているものがいた。
浮かび上がるシルエットが、目の前にいるキツネと酷似している。
「あれも……キツネ?」
七海の言に反応するかのように、ふさりと尾が揺れる。それがまるで人語を解しているみたいだった。
「大っきい……」
ライオンや狼ほどはありそうな立派な体格をした狐に、興奮気味に勇人に振った七海は表情を凍らせた。
「どういう事だ」
勇人は掠れた低い声を絞り出す。歯を食いしばって唸った。
その怒気に全身が総毛立つ。以前七海に向けられたものなど比較にならない。
地面に縫いとめられたのではと思うほど指の先も動かせない七海を尻目に、勇人は彼女の絡んでいた手を振りほどき一歩踏み出す。
「どうして、ここへ、来た?」
ゆっくり言葉を区切るその声からも抑えられない苛立ちが孕んでいた。
狐は勇人を静かに見下ろしていたのだが、反応を示さぬままふいと七海に顔を向ける。視線がかち合った瞬間に分かってしまったこの狐の異質さ。
言葉を理解したような動きを見せる、本来ならばこのような住宅地に出没するはずのない動物。立派すぎるその体躯は、七海がテレビなどで見て想像していた大きさを遥かに超える。
本当にこれはただの獣と言えるのか。
時が止まっているのではないかと思わせるこの色褪せた空間と同化した狐の体を覆う毛もまた灰だと思っていた。だが実際には無垢だった。穢れを知らぬ白。高貴ささえも醸し出す。
狐は前触れも無く静かに身を翻した。途端に七海は足の力が抜けてその場にへたり込む。時間にすれば数秒も満たないにも拘わらず、体力が削ぎ取られ脂汗が滲み出た。視界が霞む。
「おい!」
勇人の呼び止める声には反応せず、狐は建物の反対側へと消えていった。舌打ち一つで諦めた勇人は七海の傍に膝をつく。
「中てられたな……」
掌で七海の目を覆う。瞼に当たる温かさに安堵すると、七海は体の力を抜いて意識を手放した。
寄りかかってきた七海の顔の青白さが一際浮き立った。それは彼女の血の気が引いたわけではなく、その色の光が差したからだ。勇人の背後で車が通り過ぎる音がし、ドップラー効果で消えてゆく。コンビニエンスストアから出てきた人が倒れている七海を見て小さく悲鳴を上げた。
分厚く空に敷き詰められていたどす黒い雲は散り散りに切れ、月が顔を出している。
気がつけば勇人達の周りをウロついていた二匹の狐も消えていた。
振り仰いだ先にある、端が欠けた月に手を重ねる。
「お前は何がしたかったんだ……、俺はどうすればいい」
勇人の問いに答えられるのは一体誰なのだろう。