日本人として大切なこと
劇的な十七歳の誕生日の翌日。
現在、夏休み真っ只中の七海はクーラーの良く効いたキッチンで美弥子と睨めっこを繰り広げていた。
とは言っても、牙を剥いているのは七海ばかりで、母はあくまでもマイペースだ。
お見合いだと七海を謀ったとき、そういえばこの子実際にどこかに嫁いだとしても家事全般何も出来やしないじゃない、これは女の子にとって由々しき事態だわ。
とこれまた勝手に危機感を覚えたらしく、更には料理の出来ない女の子はまず貰い手が無いという結論に至った。
今のうちから何とかしなきゃと思いついてしまったために料理教室紛いの事をさせられているのだ。
「掃除と洗濯はまあいいわ。問題はやっぱ料理よね。私が料理上手だったばっかりに全くさせてこなかったもの」
いけしゃあしゃあと自画自賛しながら「困ったわねぇ」と頬に手を当てて途方に暮れる美弥子。
確かに七海は学校の調理実習以外で包丁を握った覚えがないほど、経験値が低い。
その実習でさえ、包丁を持っただけで同じ班の子に
「私が切ろうか。うん、大丈夫大丈夫」
と慌ててぶんどられた事がある。
持ち方からして既に危なっかしかったのだと未だ気付いていない七海には何が悪かったのか皆目見当もついていない。
クラスメイトからすれば怪我をしては大変だという配慮からくる行動だが、そんなに私は使い物にならないのかと、ショックを受けたのも事実だ。
「ご飯も炊けないものね」
「馬鹿にし過ぎ。いくら何でもそのくらいできるし!」
ようやく七海は食い下がった。ここは引いてはいけない。
「私だって日本人なんだから、英語は読めなくてもこの世に生を受けた瞬間から米は研げるっての! 遺伝子に組み込まれてんのよ」
「じゃあやってみなさい」
美弥子はてきぱきと用意をして、さあと七海を促した。
七海は腕まくりをして水に浸った米に手を通す。
じゃりじゃりと数度手をかき回したかと思うと、腕を組んで仁王立ちした母親をそうろりと窺った。
「あの、爪の中に米粒入るんだけど、これどうにかなんないの?」
「爪を切れ」
呆れ果てたと言わんばかりの溜め息に七海は罰が悪くてそっぽを向いた。
今までの人生の中で米を炊くような状況に陥った事がなかったから、まさか自分がさせられる日がこんな突然やって来ようとは思いもよらない。
先のお見合い事件といい人生の転機とは、こうも前触れなく突きつけられるものなのか。
内釜の中で白く濁った水が静かに揺れるのを眺めているとガチャリとリビングのドアが開いた。
「……あーまたやってる」
眠たげに目を瞬かせながらカウンターキッチンの前のテーブルに腰掛けたのは、夜勤明けの疲れを引き摺った兄の昌也だった。
「お兄ちゃんおかえりー」
「うん。今度は何やらされてんの」
昌也は瞬時に、母親の思いつきに七海が付き合わされているという構図だと見抜いた。
毎度の事ながらよくも飽きないものだ、などと呑気に構えていられるのは自分にまで被害が及ばないと高を括っているからだ。
子どもの頃ならいざ知らず、今年から社会人になった昌也にはさすがにあれこれと口出ししてこない。
そしてそれは学生であっても成人している朝陽にも言えることで、つまりは現在美弥子の意識は七海一人に注がれている。
それを可哀想にと同情こそすれ、手助けはしない。下手に手を差し伸べて巻き添えを食わないようにと保守に走っているからだ。兄妹とは言え、所詮は他人事。昌也はそうドライに捉えている。
「もう聞いてよ、信じらんない! お母さん私をお見合いだとか騙して面倒事押し付けてさ、今だって花嫁修業って……」
「いやいやいや。は? 見合い?」
昌也は七海の言葉を切った。確かに信じられない単語が飛び出したような気がした。
適当に聞き流そうと頬杖をついてだらけていたのだが、思わず背を伸ばす。
「したのか、見合い」
「まさかまさか」
首と手を同時に横に振った七海の反応は当然ではあったけれど、万が一の場合が頭を過ぎってしまった昌也は安心したように二、三度頷きながら椅子の背もたれに倒れ込んだ。
母を盗み見れば、七海が放り出した研ぎかけの米をがしゃがしゃと慣れた手つきで洗っていた。
会話に入ろうとしないのは後ろめたさのせいか、ただ単に説明を放棄しただけなのか。
「榊さんとこの息子に会いに行かされただけだったんだけど」
「それがねー、近年稀に見る美形だったのよぅ!」
急に興奮した様子で語りだした美弥子に兄妹は白けた目を向けた。どうやら後者だったようだ。
「美形て。榊ってあのでっかい家だろ?」
「そうそう。でね、暫く息子さんウチで預かる事になったから」
「はぁ?」
驚くよりも、馬鹿げているという思いが勝った。
会いに行ってから預かる事になるまでの過程がごっそり抜け落ちていて、状況判断をしかねる。
「なんの遊び」
「真剣よ、大真面目よ」
そんな母親に口をへの字に曲げた七海を見れば、やはり禄でもなかったのだろうと手に取るように分かった。
「実際は?」
「んー、ちょっと顔がいいのは認めるけど、人間性がねぇ」
二つのカップにインスタントコーヒーを適当に入れていく。
「ちょっとじゃないくて随分なイケメンだったじゃないどうしてそんな風に言うの」
「どうしても何もあるか! あんなバイオレンスな奴!」
「何て?」
七海からコーヒーを受け取ろうと伸ばされた昌也の手が、ぴくりと僅かに反応した。
表情は変わらないものの、今まで眠たげだった瞳が僅かに力を持つ。ここにきてやっとこの話に興味を抱いたようだ。
「お兄ちゃん、いっつも変なところに反応すんね」
「毎度ネタ提供ご苦労さん」
美弥子や朝陽の奇行、七海に降りかかった災難を全て、第三者的な立場からネタとしてしか見ていない昌也を薄情だなどと責めはしない。
彼もまた藤岡家の一員であり、一般とはずれた感覚の持ち主である事は重々承知の上。
そして七海だって他人の口から聞いただけであったならば、この話を笑い飛ばしたに違いない。
コーヒーを啜りながら無言で詳しく話せと促す兄の向かいに座って、七海は昨日の出来事を洗い浚い述べた。
昨日は七海達が家に帰って来ると、美弥子がすぐさまリビングから顔を出した。ぱたぱたと聞き慣れない足音は、普段スリッパを履く習慣などないのに珍しく履いている美弥子が出しているものだ。
玄関を上がったところには、きちんと二足のスリッパが置かれている。勇人が名家のお坊ちゃんである事を意識しての急ごしらえの体裁を取り繕ったところで、ボロが出るのも時間の問題だ。勇人には履くよう促して、七海は自分の分をスリッパラックに戻した。
「勇人くんね、いらっしゃい」
良母を絵に描いたような笑みを浮かべている美弥子を白けた目で眺める。よく化けるものだと。女優にでも転身できそうだ。
勇人を先にリビングに入れた美弥子は七海にこう耳打ちしたのだった。
「お母さん、あの顔好きよ」
真顔で。
話している最中からふつふつと湧き上がってくる怒りと疑で頭がこんがらがってどうしようもない。ミルクも砂糖も入っていないコーヒーのせいではなく、苦い気持ちになった。
「よく意味が分からんけど、まぁ災難だったな」
「ついで言うと、家帰ってお母さんは本当にドラマの再放送見入ってたんだよ」
「あー」
一度こう、と決めたら揺ぎ無い人なのだ。
その母はと言えば、七海が語っている最中に来客を告げるチャイムが鳴り玄関へと足早に消えていった。
「ちょーっと散らかってますけどどうぞー」
よそ行きの普段より高い声で言いながらリビングに戻ってきた母の後ろについて入って来た人物は、七海と昌也に気付いて正しくお辞儀をした。二人もそれに倣う。
小太りの中年男性に見覚えは無い。
「お、おか、お母さん?」
「まー、ちゃんとご挨拶しなさい」
全くこの子は、などとダメ出しされる。しかし彼が何者なのかが気になって美弥子に反応は返さなかった。
「榊の代理の者で関と申します。昨日のお礼とお詫びを兼ねて参りました。あの、勇人様は」
「あ、寝てます」
昨日からずっと、とは言わないでいた。
「ごめんなさい、領収書とか必要でしょうか?」
「いえそんなものは」
首を横に振った関は、スーツのうちポケットに手を伸ばし茶封筒を取り出した。
「ありがとうございました。お受け取り下さい」
「こちらこそありがとうございます」
上機嫌で封筒を受け取る美弥子と深々と頭を下げる男性を七海と昌也は交互に見やった。
こういった場面をたまに目にする事がある。主にテレビで。というかテレビドラマくらいでしかお目に掛かった事がないといった方が正しい。
まるで美弥子が賄賂を受け取っているようだ。
領収書ってなんだ。思い切り中身がお金だと言っているようなものではないか。一抹の不安が過ぎる。この母親なら金額次第では娘を売り飛ばしかねないと、他でもない自分で以前考えた事のある七海だから余計に。
そしてにっこりと満面の笑みを浮かべた美弥子は封筒を掲げた。
「まーいどありー」
「おーかーんっ!!」
悲しくも予想が的中した七海は封筒を引ったくり、そのリアルな厚みに更に切なさが増した。
美弥子はこの薄くも分厚くもない札束で我が子を売ったのだ。
「おかんだなんて言い方しないの!」
娘を売った母親に窘められたところで効力などあろうはずもなく。白けた目で美弥子を見た。眉を潜めた美弥子に「別に」と返す。
「まぁこれは昨日わざわざ来ていただいた謝礼ですのであまり固く考えずお納めください。七海さんにはご迷惑をお掛けしてしまいましたし」
愛想笑い一つで話を切り上げた関は会釈をするとリビングを出て行こうとした。
ドアに手をかけるとき思い出したように振り返り、七海の前まで戻ってくる。
「もし何かありましたらご連絡ください」
そう言って手渡されたのは名刺だった。関がもう一度頭を下げて出て行くのを見届けて、七海はイスにすとんと座り込んだ。突然の来客は疲れる。