狐憑きの青年
「つ、突き刺さった! 顎って刺さるんだ!」
「てっめぇ……」
新発見などと呑気に言っている場合ではない。勇人は七海の服を鷲掴んで引き寄せると間近から凄んだ。
「何の真似だ」
「や、ちょっとイカれてるから、衝撃与えたら元に戻るかなぁと。思いやりよ、私の行動の半分は優しさで出来てんのよ」
殺せとか死ぬとか、穏やかじゃない言葉を連発する勇人はきっと暑さにやられて頭がおかしくなっているんだと思った。記録的な猛暑と言われる近頃に、こんなクーラーも無い部屋に引きこもっているから。
殴れば正常に戻るだろうか。精密機械であるテレビの不具合だって大抵は叩けば直るのだ。まぁ今ではほぼ見かけないブラウン管の話だが、この男だって同じような物だろう、一発で十分に違いない。
なんて思ったけど、手動かせないから頭突きでいいわよね
という思考過程を経てあの暴挙に至ったというわけだ。
自分の考えは間違っていないと後押しするように、うんうんと頷く。
「じゃあ残りの半分の成分が何なのかじっくり教えてもらおうか」
一度は起き上がらせた七海の身体をまた布団に沈めさせ、両手を縫いとめた。
天井を背景に、七海の真上にいる勇人の瞳が剣呑としている。
「いやぁそれは別に大したもんじゃなくってね。ゴミとかカスみたいなもんよ、私なんてさ」
只ならぬ相手の気配に怖気づいた七海は、簡単に自分という存在を地に叩き落とした。身の安全とを天秤にかければこの程度の自尊心など軽いものだ。あはは、と乾いた笑いで誤魔化してみる。
「どうだろうなぁ」
完全に七海を苛める事に面白みを見出してしまった勇人は意地悪く口の端を持ち上げて笑う。
サドだ。サディストがいる!
「サディスティックバイオレンス反対ぃー!」
ぷっと吹き出す声に七海と勇人は同時に顔を横向けた。そこには笑いを堪えようとして堪えきれていない榊が。
「ドメスティック……?」
「し、知ってます!」
態とですよと言いながら顔を真っ赤にしているから信憑性はない。
毒気を抜かれてしまった勇人は七海から手を離して隣に座り込んだ。
さっきからこの女は何なんだ。榊が連れて来たのは見たまま知れるが、突然現れて一体何がしたいのか。
やる事言う事が滅茶苦茶だ。
父親である榊を睨めば、その理由を的確に察して一つ頷いた。
「彼女がいれば、他の方法を見出せるだろう」
背筋を伸ばした榊は正面から勇人を見た。
よろよろと起き上がった七海は、急に話の中に入れられて居心地悪く縮こまった。
「……他の方法など考える時間はない。今すぐ殺せ」
アイボリーの瞳が刺さる。七海に向かって殺せと言いながら、こっちが射殺されるのではないかという気がしてくるくらいに、鬼気迫るものがあった。
「い、嫌に決まってるじゃない! 何で私が犯罪に手を染めなきゃいけないのよ」
二人して七海を無視して勝手な事ばかり言っている。初対面の人間にこんな物騒な話題を真顔でするのはやめて欲しい。じっとりとした目で見てくる勇人を負けじと威嚇する。負けず嫌いは今に始まった事ではない。
舌打ちをした勇人は「だったら」と妥協案を出した。
「なら、俺をこの身体から出せ」
「……は?」
「除霊してくれ」
ジョレイ。出来うる限りの漢字変換を脳内で行った。が、うまくいったのはやはり除霊という単語のみ。顎に手を添えて悩む素振りをして見せた。
「ごめん、ちゃんと聞き取れなかったかも。んー……『女優にしてくれ』?」
「お前耳っていうか頭大丈夫か」
心配気に額に手を当てて「熱はないな」などと真面目に確認され、そのせいで七海はじわりと顔が熱くなった。
私なの?
今のは私の方が会話を乱した事になるの?
いいや違う。先に変化球を投げてきたのは勇人だ。予想外の方向へ飛ばされた言葉の球を、それでも七海は何とか打ち返した。その結果更にとんでもなく的外れなところへと転がった。そう、あくまでも結果でしかない。原因は勇人にある。
「あんたが突然除霊とか言うから混乱しただけでしょ! 私はイタコじゃないっ」
「イタコは霊を自分に憑かせるんだろうが。逆だ、逆。とり憑いたのを落としてほしいんだ俺は」
「冷静に指摘してんじゃないわよ、逆も何も私は出来ないっつってんの!」
「人間は死ぬ気で頑張れば不可能も可能にしてしまう生き物だろ」
「やめてよ、ちょっとカッコいい事言っちゃったよ俺みたいなしたり顔。全然だから。言っとくけどそれ、ただの他力本願丸出しの発言だったから」
七海の中でいつの間にか、勇人の願いを聞いたら負け、という独自のルールが作られていて、どうだ参ったかとショックを受けているであろう相手を見やった。
だが勇人は七海を睨みつけていた。
それはほんの数十分ほど前に出会ったばかりの人間に向けるには、あまりに険しい表情で。焦りや苛立ち、憎しみまでも感じ取れて、びりびりと肌に突き刺さる。
「二秒やる、首を縦に振れ」
「は?」
あっという間だった。七海が聞き返すのとほぼ同時に勇人の指が首に絡まった。七海の足に跨った勇人はゆっくりと彼女を後ろへ倒しながら指への力を強めてゆく。
「……な、に」
これまでに経験の無い圧迫感と息苦しさに自然と顔が歪む。
「何も知らないガキが調子に乗るな、痛い目遭いたいか」
現在進行形で痛みを与えられている七海は、徐々に容赦のなくなってきた勇人の手から逃れようと身体を捩るも上手く行かない。息苦しいから息が出来ない状態になり、これは本格的に拙いともがいて、元凶である彼の手の甲に深く爪の跡を残した。
「やめろ!」
すると突如消えた圧迫感。七海は床に手を突いて咽た。ぱたぱたと畳に涙が落ちては染み込まれる。喉に空気が通るだけで焼けるように痛んだ。
ぼやける視界をそのままに声のした方を向いた。榊が鎖を引っ張って勇人を七海から引き剥がしてくれたらしい。勇人は忌々しげに榊を睨み付け七海から離れた。
「ちょっと……、息子さんの、教育、どうなって」
ひりつく喉を押さえながら、途切れがちに言う抗議に勇人は顰め面を、榊は苦笑する。
「返す言葉も無い」
「も、どんな理由、あっても女に手を上げるって、最低」
当の本人である勇人はそっぽを向いているのが余計に腹が立つ。
子どもか! と怒鳴りつけてやりたいが、まだ喉に違和感があるので堪えた。けれどそれでは七海の気が治まらない。
「人の話は、きちんと聞け!」
パァンッ
大きく開いた七海の手が容赦なく勇人の頬を打つ。
「何なのよその態度……ああ? それが人様の首絞めた人の取る態度ですか。こっちは同情して優しさ見せてやったってのに……。土下座して謝りやがれ!」
声は殆んど出ていないものの、浴衣を掴まれ至近距離で息巻く七海に勇人は圧倒されてしまい反論も思い浮かばない。
そんな様子を榊は複雑な心境で見守っていた。
「うーん困ったね、嫌われてしまったかな? これから七海ちゃんにこの子の事をお願いしようかなと思っていたんだけども」
「お願い、とは」
「こんな処に閉じ込めていては精神的なダメージが深刻だというのは解かっているんだ。唯でさえ殺せだなんて物騒な事を口走っているしね、本当は一人にしておきたくない」
この通りだから、と勇人を指す。暗に息子の性格が歪んでいるのだと言いたいらしい。そしてそれはここに居るようになってから酷くなったのだと。
「だからね、暫くこの子を預かってもらえないだろうか」
本日何度目か知れない、七海のぽっかりと口を開けた間抜け面をまたも曝け出す。
「えー……え? 預かるって」
「藤岡家に居候させてやって欲しいんだ。勿論お母さんのご了承を頂くよ」
初めに預かってもらえないかと七海に尋ねておいて、答える前に決定権を美弥子に移行してしまっている。榊という人は紳士的で温和に見えて、恐ろしく我を押し通す人らしい。
それくらいでなければ、大富豪と呼ばれる一族を率いてはいけないのかもしれない。
そしてやはりというか、状況判断を下す能力も兼ね揃えていた。短い時間話していて藤岡家の決定全権は父親ではなく母親の美弥子にあると察したらしく、更にはあの性格からして断りはしないだろうと見込んでいる。
あの母が。七海を騙すような真似までしてここに連れて来た美弥子がこの申し入れを断る確率は如何程のものか。脳内ではじき出した限りなくゼロに近い数値にうんざりした。
因みに断る数パーセントの可能性の主な理由は面倒くさい、だ。好奇心旺盛な美弥子を言葉巧みに榊がその気にさせる事を考えれば更に確率は低くなるだろう。
こんな事なら、是が非でも逃げておくべきだった。まさか天下の榊ともあろう名家が、自他共に認める変人揃いの藤岡家並に個性派だったとは。
はぁ、と盛大に吐いた溜め息を了承と取った榊は頷いて勇人に目をやった。
勘繰るようにこちらを見ていた。急な提案に動揺したのは七海だけではなかった。
「二人のやり取りを見ていたら確証が持てた。……やはり君の言った通りなんだね」
諦めが混じった声。乱れた前髪をかき上げる仕草さえもしんどそうだ。
「君をここに閉じ込めたのは一族の総意だ。私個人としてはね、君が居ないならそれはそれで良いと思っている」
「榊さん!」
七海の声音は責めるものだった。息子に与えるにはあまりに無責任なその物言いに。
だが榊は首を振ると続けた。
「君はここに居なくていい。まして病院に隔離される必要も無い。榊とは関係ない外に出てみたいとずっと思っていたんじゃないのか」
勇人は沈黙を守っている。ただ榊を見返すばかりだ。
「好きにするといい」
残された時間を。奪い取った時を取り戻せないとしても、もう手遅れだとしても、榊にはこれが精一杯だ。
本当はもっと早くこうするべきだったのだ。取り返しのつかない事が起きてしまった後では何もかもが虚しい。せめてもの償いにもならない。
「俺を野放しにしていいのか? 俺がアイツを殺すかもしれないぞ」
不穏な方向へ話が流れ始め、七海は眉を顰めた。内容が掴めず口を挟まないがこの父子の会話はまるで親子らしくなく、今すぐにでも止めさせたいくらいだ。
「その事に関しては、君の手を借りるつもりはないよ」
「……そうだといいけどな」