エピローグ
目を覚ました七海は、念のためにと数日間の入院を言い渡された。
だが視えてしまう七海にとって病院での寝泊りは一人罰ゲームを決行しているようなもので、
「無理です、お家に帰してください!」と泣きじゃくり、無事帰宅にこぎ着けたのだった。
鼻歌混じりに帰ってきた家は大きなブルーシートに覆われていた。
派手に壊れた家は全面改装が必要だという大事になっていたという。
そうとは知らなかったものだから、この悲惨な我が家の現状に持っていた手荷物をボトリと地面に落としたくらいの衝撃だった。
後から聞いた話、父の明良が出張から帰ってきたときも、持っていたスーツケースを同じように地面に落としたという。
「あなた達って親子ねぇ」と美弥子に笑われた。
当座の生活にいるものだけをピックアップしてカバンに詰め込み、車に乗って榊家が用意してくれた仮住まいへ訪れ、初めこそ新鮮さにそわそわとしていたのだが、三日もすればマンション暮らしにも慣れてきて、そして気がついたのは夏休みが残り二週間を切っていて、課題は一切手付かずだという事実だった。
大慌てで問題集を机の上に並べて奮闘する事一時間。背中に重みを感じて七海は走らせていたペンを止めた。
「何よ隼人」
顔を横にずらすと隼人のアイボリーの髪が見えた。背中合わせに座っているらしい。
「暇だ」
「そんなわけないでしょ、隼人も課題渡されてたじゃない」
隼人は二学期から七海と同じ高校に編入する事が決まっている。
齢何百歳にもなる彼が高校生かと思うとあつかましいにも程があると言いたいが、朝陽曰く外見は『大人びた高校三年生』で通用するらしい。
「知らないからね、私じゃ三年生の問題なんか解けないよ」
「やろうと思えばすぐ出来る」
「嫌味か! だったら私のこれ代わりにやっといてよー」
どうやら成績優秀だった勇人の頭脳の大半は隼人に吸収されてしまったらしい。
あんな苦しい思いをした私はなんだったんだと問いたい。
メリットはなんだ。有益に働いたものってなんだ。必死で考えていると隼人がぐいぐいと背中を押してくる。
「もー隼人!」
「違う」
「は? 何が」
「隼人は榊に使役されていた頃の名だ」
子どもっぽく拗ねた声音だ。
「改名したいと」
隼人が頷いたのが背中から伝わる振動で分かった。
「いいんじゃない?」
「七海が考えてくれ」
忘れたのか。肘で隼人を突いた。
七海がギンとシャクに名をつけようとしたとき、止めさせたのは隼人だ。
「自分で考えた方が良いと思うけど……」
机の上に置かれた辞書が目に入って来た。漢文の勉強に欠かせない漢和辞典だ。
あまりの偶然さに奇跡さえも感じた。
「やっぱ勉強しなきゃダメだわ。うん。あんたもグータラしてないでさっさとやらなきゃ。あれですか、最後の日になって親に泣き付いて手伝ってもらう派ですか」
勇人はぐらかされた会話が気に食わなくて七海を睨み付けた。背中を向けているのだから効果はないけれど。
「……ねぇ」
効果はなかったはずなのに、七海は声のトーンを下げた。真面目な話をするのだと知らせるように。
「名前、ハヤトがいいよ」
「だから……っ」
「勇ましい人って書いてハヤト」
後ろで息を飲んだのが分かった。
辞書もたまには真面目に引いてみるものだ。七海はクスリと笑った。
「勇人、勇人……」
言いながら、頭の中で漢字を思い浮かべているのだろう。気に入ってもらえたようだ。
また背中に感じる重みに、今度は彼の体温も伝わってきた。
「自分でつけといて何だけど。いいね、勇人って名前」
「ああ」
「二人で一つって感じ。すごい素敵だね」
勇人は静かに目を閉じた。自分の魂に溶けた、この身体に滲み込んだ彼を探る。解るはずがない。感じられるはずがない。だけど何故か、彼が笑う顔が思い浮かんだ。
「ああ。そうだな」
暖かいまどろみの中にいるようで心地良い。七海も勇人に凭れかかった。
人の寿命を遥かに超えた歳月を生きてきた勇人は、この先人と一緒に短い生涯を送る。
榊の姓を名乗る事は許されても、あの山の麓にある屋敷から離れて暮らす事を願った勇人は、榊の頼みで藤岡家で生活する事になった。
だから、これから勇人と生きていく人生が七海の新しい日常となるのだ。
途中からシリアス一辺倒でしたね、すみません。
書いてる間はずっとコメディのつもりだったんですが…
ここまでお付き合いくださいまして、ありがとうございました




