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自由が必要なのは

 榊の屋敷は騒然としていた。救急車とパトカーが同じ警告色を明々と回転させ、救急隊も警官も右へ左へと慌しく駆け回っている。

 

 ときに大声で指示が出されているのが、未だ事態の収拾の目処がついていない事を表しているかのようだ。

 

 負傷した人が救急車に乗り込むのを見て七海は直ぐに目を逸らした。その先の地面に血痕が付着していて、わけも無く泣き出してしまいそうになる。


「中へは入らないで下さい」


 門の下で止められた隼人は警官に殴りかかりそうだった。七海がさり気なく間に割ってはいる。


「この家の者です」


 隼人の腕をぐいと掴んで屈ませた。


「榊 勇人、本家の人間です」


 警官は一瞬迷いを見せたが、すんなりと退いて中へ入れてくれた。


 手入れの行き届いた庭木の間を通る石畳を駆けてゆく。以前榊と通った石庭を横切ろうとした時、目に飛び込んできた母屋の惨状に言葉を呑んだ。


 奥半分が崩れ、瓦礫の山と化している。

 建物の最奥部が一番酷く、そこに勇人がいて隼人の身体に残った力で壊したのだろうと思われた。


「勇人は何処行ったんだろ……」

「庵だ」


 隼人には明確に感じ取る事が出来た。元は自分の身体と神力だ。

 何処で使われ何処へ移動したのか手に取るように。

 


***



 円く区切られた窓を開ける。見えたのは雲の合間から覗く満月だった。

 

 勇人はそっと手を翳した。本来の自分のものより一回りは大きい。

 窓の位置も低く感じた。

 

 寿命が尽きようとしているとは思えないほど力に満ちた隼人の身体。ならばあの勇人のあれは何だったというのか。

 

 馬鹿にしているとしか思えない歴然とした差。

 けれどこの差があったからこそ勇人は救われるのだ。


「なあ、本当に自由が必要なのは肉体か魂か。どっちだと思う?」


 いつも考えていた。


 肉体は健康でも精神が死んでゆく勇人と

 肉体は滅び行くのに精神はまともである隼人


 どちらがより正常であるのか。どちらが残るべきなのか。


 そして勇人は生き残る道を掴み取ろうとしている。あと一歩だ。

 

 あとはこの神力を持って隼人の魂を今度こそ手に入れ、元の身体に戻ればいい。うっそりと笑った。


「勇人!」


 乱暴に襖が開けられ、切望した人物が庵の中に入って来た。


 月から目を離し、振り向いた先にいたのは象牙色の髪と瞳を持った己の姿をした隼人だ。


 遅れて入って来た七海は小さく悲鳴を上げた。部屋の隅で倒れ込んでいる榊を視界に捉えたからだ。


「榊さ……」


 抱き起こそうとして、手にぬるりと生暖かい液体が付着し身体を硬直させる。

 

 畳にもべったりと付着しているのは血だ。

 七海はシャツを脱いでキャミソール一枚になると、躊躇いも無くシャツを裂いた。

 

 覚束無い手つきで榊の頭に巻いていく。

 応急処置の知識などまるで無い七海の精一杯の行為だった。


「怪我したまんまここまで来てさ、すぐに気失っちゃったんだよね。病院行けば良かったのに」

「勇人……!」


 非難がましい目で見詰めて来る七海を嗤う。


「勇人。お前が欲しがっていた答えをやろう」


 隼人は一歩前へ出た。


「肉体と魂、互いが定められた組み合わせで存在していなければ自由も幸福も有り得ない。どちらか一方でなどない」


 勇人がこれから為そうとしている事は、彼が欲していたものを手に入れる行為では決して無い。


「今ならまだ間に合う、それを捨ててこの身体に戻れ」


 そして隼人も自分の身体に戻れば元通りだ。完全にとはいかない。

 壊れてしまった家屋、関係、絆。けれどもこのちぐはぐな状態は直すべきだ。


「どうして? 隼人はもう十分生きたでしょう、だから残りの分くらい僕に頂戴よ。一度はそうしてくれようとしたじゃないか」


 殴りかかってきた隼人の拳を寸でのところで避ける。

 間髪入れず入れられた蹴りを、今度は鳩尾に食らった。


「うっぐ……」


 込み上げてきた嗚咽感に逆らわず咳き込むと息と共に血が飛び出した。


「なんで」


 粗雑に口元を拭った。

 隼人は先程から普通に攻撃してくるだけだ。


 魂が人間であっても入れ物が神の使いであるから、ただ触れただけでは神力の影響は受けない。

 何故神力を使わない。


 神気とは本来魂に纏うものだ。

 勇人が今使っているのは身体に滲み付いた残りカスに過ぎない。

 

 だから隼人がその気になれば勇人などすぐに殺せてしまうはずなのだ。

 なのにそれをしないのは。


「……どこまでも、どこまでも馬鹿にして!」


 力を使えば人間の勇人の身体では負担が大きい。すぐに壊れてしまいかねない。

 

 また攻撃を受ける側の勇人の魂も然り。

 今更何を気にしているのか。今更過ぎるではないか。


「もう死ねよ! お前等なんか力だけ残して消えればいい!」


 前に翳した手の先に集まった白い光の球を隼人に向かって放つ。

 避けられなかった隼人は咄嗟に腕で身体を庇った。


「隼人!」


 手首から肘に掛けての皮膚が爛れていた。顔を苦悶に歪ませる隼人の動きが鈍くなった。

 続けて勇人は何発も同じものを放つ。


「はや……」

「君もすぐ同じようにしてやるよ」


 勇人が七海に気を取られた一瞬をついて、隼人が一撃を繰り出した。

 痛みでまだ動けないと思って油断していた。

 

 避けられない。

 自分がどうなるのか目に浮かべた直後、前に飛び出してきた人影で隼人の姿が見えなくなった。


 勇人を庇う形で隼人に向き合った七海の顔の僅か数ミリ手前で隼人の拳は止まった。血に染まった彼の手を両手でそっと包み込んだ。


「……あんた達がどっちもバカ!」


 手に力が入り、隼人は顔を顰めた。痕が痛々しい。


「君に言われたくないな」


 敵に背を向けるような奴にだけは。勇人は七海の首を後ろから片腕で抱いた。


「動くなよ隼人」


 先に七海を消してしまおうか。

 怒り狂った隼人の相手はしんどいが、いつまでも目の前をちょろちょろされても鬱陶しい。

 

 どうしてやろうかと思案していると、腕にぽたりと液体が当たった。


「どうして分からないの……、死ぬのは誰だって怖いよ」


 勇人だけじゃない。勇人だけに特別訪れるものではない。


「楽な死に方なんてない。どうやったって苦しいって知ってるから死にたくない。当たり前の事だよ、隼人だって変わらない……!」


 七海の涙声は最後、叫びに近かった。

 

 何故彼ならば生命を奪ってもいいなんて勘違いをした。

 どんな自分でも受け入れてもらえるという甘えか。

 

 事実隼人は与えようとした。

 だがそれが死んでもいいと思っている、死ぬのが怖くないと思っているのと決して同義ではない。

 

 恐怖を打ち消すほどの想いに何故勇人が気付いてあげられないのか。


 一番傍に、隼人の想いに近いところに居たはずの勇人が。


「隼人が何のために何百年もあの屋敷の中にいたと思う。榊の人の願いを叶えてあげたかったからでしょ。たくさんたくさん、幸せになってもらいたかったんだよ。勇人が苦しまないようにしてあげたかったんじゃない!」


 鼻を何度も啜り、泣き腫らした顔のまま隼人を見上げた。


「ごめん、ごめんね。隼人がまだ死を選ぼうとしてるって気付いてたよ。でも私は隼人の願いを叶えてあげられない。どうしてもあなたに生きてて欲しい」


 失いたくない。どんな形であってもいいから。

 七海を拘束していた勇人の腕が外れた。

 

 どさりと崩れ落ちる音に七海は振り返る。


「勇人!」


 しゃがみ込んで、勇人の肩を揺さぶった。


 まさかと服を寛げて見ると全身痣だらけで何処を触っていいのか躊躇われるほどだ。


「こうして人の形を保ってられたのも不思議なくらいだな……」


 生きた年数だけ衰弱してゆく病気だったのだ。

 そこへこれだけの負荷を与えれば、今まで消えてしまわなかっただけで奇跡と言える。

 

「そんな……」


 肩から放した手を痛いくらいの力で握られた。勇人だ。


「い、やだ……死にたくない……」


 その一心でここまで突き進んできたのだ。

 

 自我が削られても気力だけで持ち堪えてきた。これほどまでに強い思いを抱えていたのだ。


「うん、うん。死んじゃ駄目だよ……」


 七海の流した涙が勇人の頬に次々と流れ落ちる。

 

 勇人の魂と比例して壊れかけている隼人の身体。彼の手をやんわりと掴んだ。冷たかった。


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