銀と赤銅
静寂に包まれていた。
リビングに置かれた三十七型の液晶テレビから聞こえてくる、芸人達のテンポの良い掛け合いも空気に溶け込んで今の七海達には耳に入ってこない。誰もが動けず一点を凝視していた。
掃き出しの窓からリビングに入ろうとしていた朝陽は背後より迫った影に突き飛ばされ床に倒れ込み、突進してきた二つの影も一緒に雪崩れ込んできた。
重みが降り積もってきた圧力に朝陽は蛙が潰れるような声ともいえない呻きを上げた。
「お姉ちゃん!!」
間にもへったくれにも合わない七海の警告の後、藤岡家の一階は静まり返ったのだった。
「えーと……君達は誰かな? ていうか命が惜しかったら早く退いた方が……」
朝陽の上に乗っているのは小さな――といっても七海より少し下、中学生くらいの――男の子と女の子だった。二人は七海を目に留めるとパアと目を輝かせて立ち上がった。
「うぐっ」
再び聞こえた朝陽の呻き声に七海は冷や汗が出てくる。だが二人は気にせず七海に抱きついてきた。
「ななみ、ななみ!」
自分よりも華奢とはいえ、二人分の負荷に耐え切れず七海も敢え無く転倒。それさえ気にせず嬉しそうに身を寄せてきた。
「あら七海ったらモテ期突入?」
「たーすけろー! 圧迫死するー」
のほほんとした母親の反応に手足をバタつかせて抗議する。
美弥子はイスに座ったまま動こうとせず、助けてくれたのは隼人だった。二人の首根っこを掴むと無造作にぽいと放った。
宙でくるりと一回転して見事に着地した彼等に七海は思わず拍手する。
「何しに来た、ジジイの介護はどうした」
「え? 隼人知りあ」
「何してくれとんのじゃクソガキ共がぁーっ! そこに直れ、今この瞬間息してる事後悔させてやらぁ……」
がばりと起き上がった朝陽が闖入者達を怒鳴りつける。
朝陽を踏み倒したのだから当然の結果というか、選りにも選って幼さに免じる情け容赦など持ち合わせていない朝陽にしでかしたのが運の尽きというか。
七海と美弥子は同時に合掌した。
「それで。隼人の知り合い?」
怒号が鳴り響く中、慣れたもので七海は何でもないように隼人に訊いた。
隼人も気にせずコクリと頷く。
「お前も会っただろ、ジジイの後ろくっついてた。ていうか襲われただろ」
「ジジイって白狐さん……?」
はっと朝陽に怒鳴られ萎れている二人を見た。
男の子は小麦色の肌にシルバーの髪。女の子は白い肌に赤銅色の髪。
「あの時の狐か!」
まさか人型で現れるとは思っていなかったから、これほど特徴的な髪色のセットを見ても気付かなかった。だが考えてみれば隼人とて本来は狐であり人型に変化していたに過ぎないのだ。七海は出会ったときから勇人としての姿ばかり見ていたからつい忘れがちな事実だが。
珍しげに眺めていると二人は潤んだ瞳で七海に縋ってきた。説教を続ける朝陽が怖くて怖くて堪らないらしい。
「お姉ちゃんもうそろそろ……」
「ああん?」
「いえ何でもないです」
続きをどうぞ、と手の平を見せた七海にガーンと音が聞こえそうなほどショックを受けている少年少女。
素直なリアクションが可愛らしいな、とついつい頬が緩んだ。しかしこれ以上は彼等の心に一生癒えない傷を残しそうなので今度こそ割って入る。
ぱしぱしと全く痛く無さそうな軽い音をさせて二人の頭を叩き「これでもういいでしょ」と朝陽を宥めた。
「な、ななみ……」
「うんうん、皆まで言わなくていいから。鼻水拭こうね」
ティッシュを少年の鼻に押し付けていると少女が脇にしがみ付いてきた。
「何よ七海ったら、私を悪者に陥れて自分だけ優しいお姉さんキャラ確立させちゃって」
「私何もしてないよ! お姉ちゃんが勝手にその地位に落ち着いただけでしょ!?」
「言っとくが七海もキレたら同じようなもんだぞ」
「言わなくていいのよ隼人、そういう事は!」
一人良い人と認定された七海がどうも朝陽達は気に食わないらしい。
「仲が良いわねぇ」
美弥子はお茶を啜りながら呑気に傍観していた。
「ねぇ七ちゃんその可愛らしい子達紹介してちょうだいな」
予想外にも子ども好きである美弥子は上機嫌だ。
「ああ、この子達は隼人の兄弟の……何?」
七海は名前を知らない。隼人に目配せするも「知らん」と素っ気無く返された。
「まだ無いんじゃないのか」
「ない、です」
「ななみ付けて!」
「はい?」
名前が無いという事にも驚いたが、付けろとせがまれた事に慌てた。はっきり言ってネーミングセンスなど七海は持ち合わせていない。
一生ついて回る大切な名前を一介の高校生に付けさせるなど荷が重過ぎる。
「そう言われても、そうね……」
どうしよう。かなりテンパっていると口を押さえられた。隼人の手だった。
「やめとけ。名を付ければそれは絆になる。そんな事したら一生こいつ等お前に付き纏うぞ」
名づけ親と言うくらいだ。七海には彼等の親になれるほど大人でも人間もできていない。
責任を背負いきれない。
「そうだね、うん。でも無いってのも困るし。じゃあ君はギンくんで、君はシャクちゃんね」
男の子、女の子の順で指差した。
「これはニックネーム、愛称。正式名称じゃぁないから。それはまた別の人につけてもらうといいよ」
結局は付けている。隼人は溜め息を吐いた。
「で、何しに来たんだ」
漸く本題に戻った。二人は顔を見合わせた。
「七海のお手伝いに来たよ!」
「え、私? 隼人じゃなく?」
「白狐様がごめんなさいとありがとうの代わりに七海のお手伝いしなさいって」
遠慮がちに少女が言うには白狐の命らしい。隼人は舌打ちしている。
隼人の態度がこの通りだから白狐も素直に彼を助けろと言わなかったのかもしれない。
親子だと知ったときはそれはもう驚いたものだが、結構似ているかもと思ったのは内緒だ。
「手伝いって、一緒に榊さんとこ行ってくれるって事?」
「分かんない」
「帰れ」
冷たく放った隼人に銀髪の少年は牙を剥いた。仲が悪いようだ。
プルルルル
電話が鳴った。リビングに置かれてある子機を美弥子が取る。
「だったら手伝いって何だ」
「あ……あの、あたし達人間に操られてたとき、見たの。あの人あたし達以外にも使役してた」
「あれは邪だ」
「元は多分、あたし達と同じ神の使いだったと思う、でも穢れに負けると邪になる」
「要するに見境無く人を襲う化け物だ」
ギンとシャクの説明に首を捻っていた七海に隼人が補足を入れる。
邪は思考能力が低くただ闇雲に人を襲う。
完全に手なずけているわけではなく、いつもは動けないよう縛りつけ、必要な時だけ解放する気なのだろう。
「ねぇそういえば、ギンとシャクを操ってたっていう人間って……」
「勇人だ」
予想通りの答えに七海は項垂れた。隼人の身体の中にいる片割れが、隼人の神力を使ったのだ。
「七海」
電話の子機を持った美弥子が呼んだ。駆け寄れば「昌也よ」と子機を渡された。兄が電話を寄越すなんて珍しい。
「はい七海だけど」
『榊ん家、どうした?』
「はぇ?」
急に問いかけられ、しかも内容が掴めず間抜けな声を出した。だが嫌な予感に鼓動が早くなる。
『さっきから病院に榊の人がどんどん救急車で運ばれて来てんだけど』
電話の向こうでは慌しい足音と喧騒が響いている。只事ではない雰囲気が伝わってきた。
服をぎゅうと掴む。
「私は何も。そっちは何て言ってた?」
『すげぇ爆発音がして、家が半壊してたって』
勇人が目覚めた。そうとしか考えられない。背中に冷や汗を掻いた。
結界を張った部屋に閉じ込めていると言っていた。その部屋ごと吹き飛ばしたのだろう。
「ごめんお兄ちゃん切る! ありがと!」
子機を放り投げた。
「隼人! 勇人が起きた……!」
隼人の反応は早かった。言い終えたと同時にリビングを飛び出した。
「ちょ、待ってよ!」
慌しく七海も後を追いかけた。
ガチャン、バタンと乱暴に玄関を開閉する音がして「もう!」と美弥子は腹を立てる。
「考え無しなんだから」
ゆっくりとした足取りで戸棚に近寄り二段目のボックスを開ける。いつもの定位置から車のキーを取り出した。
近所とは言え榊の家まで走って行くだけで体力はかなり消耗される。
隼人は大丈夫かもしれないが、普段から特に運動をしているわけでも得意でもない七海には辛いだろう。
こんな時こそ家族を上手く利用すれば良いものを。
不器用と言うよりも要領の悪い七海に呆れた。
「じゃあちょっと行ってくるわね」
「はーい行ってらっしゃい」
元よりついて行く気のない朝陽は切迫した七海達を見ていただろうに全く緊張感を抱かず呑気に手を振って美弥子を見送った。
一人になりする事の無くなった朝陽はテレビでも見ていようかとリビングのソファに腰掛け、いきなり押しかけてきたカラフルな少年少女が消えている事に気付いたのだった。
「違う……みぎ、右ーっ!!」
十字路を直進しようとした隼人に七海が後ろから方向転換を促す。
道を知らないのなら先頭を突っ走るなと言いたい所だが、隼人からすれば七海の足が遅過ぎて合わせていられるかという苛立ちがあると分かるからそこは口には出さない。
だがこれ以上離されると隼人を見失い、見当違いな方向へ行ってしまっても呼び戻せなくなる。
ああ、どうして自転車に乗って来なかったんだろう。
七海は咄嗟に思いつかなかった自分の役立たずな脳みそを恨んだ。
「隼人ぉーちょー止まろうか! 電話するから! 直接聞いてみるから!」
取り敢えず隼人の足を止めたかった。
じれったそうにしながらも立ち止まって振り返った隼人にほっと息を吐く。七海もスピードを緩めながら駆け寄り、ポケットから携帯電話を出した。
アドレス帳を開き、上から順に登録者の名前を流し見する。
「あった! 私ってばちょーエライ!」
つい先日登録したばかりでまだ一度も掛けた事のない電話番号。
榊の代理で家まで謝礼に来た関に貰った名刺に明記されていた番号をもしもの為にと登録しておいたのだ。
何もなければそれに越した事はないが、しておいて正解だった。
耳を当てる。プルルル、プルルル。呼び出し音が続く。関が出る気配は無い。
コール回数が増えるたびに不安も大きくなった。隼人を見れば彼もまた同じような表情で七海を見ていた。
どんな状況なのか聞けば少しは落ち着くかと思っていたが、これでは先を急いだ方が良かった。余計に焦るだけだ。
「隼人ごめ……」
プーッ
七海の声を掻き消すクラクションに振り返ると直ぐ後ろに家の車が止まり、運転席のドアが開いた。
「ヘイ早く乗りな二人共! 事情は聞いてるぜ」
「お母さん! え、何キャラ?」
親指を立て、くいと後部座席を差した美弥子に唖然とする。誰に成りきっているのか分からない。
聞いたもなにも美弥子もあの場にいたはずだ。
首を捻りながら車に乗り込んだ。
もう一度関に電話を掛けるがコール音ばかりが虚しく響く。
「どこに掛けてるの?」
「関さんの携帯。ほら榊さんとこの使用人さん」
「そんな! 使用人が携帯を携帯してないなんて……」
「してないなんて、何?」
「……別にその続きは考えてないわよ」
付き合って損した!
物凄く時間を無駄にした気がしてバックミラー越しに美弥子を睨み付けた。
美弥子はそんな七海に気付いて目を逸らし左右の確認を無駄に何度も行っている。
「七海」
前に気を取られていた七海はようやっと隣に隼人がいる事を思い出した。
あまりに大人しく座っていたので存在を忘れかけていた。
携帯電話を耳に当てていた手にそっと隼人のものが添えられて、耳から離された。
「どうせもう着くんだろ」
「……うん、ごめん」
隼人の心をちょっとでも軽くしてあげたいのに上手くいかない。役に立てない事が歯痒い。
俯いた七海の頭を隼人はそろりと撫でた。
恐々といった仕草は不慣れだけれども懸命に慰めてくれているのだと思わせられて。逆に慰められては立つ瀬が無い。
「これ以上は無理ね」
交差点を曲がって後は真っ直ぐ進むだけ、というところで車は動けなくなった。
救急車やパトカーが駐車され、人集りが出来、そのせいで通り抜けようとしていた車がごたつき渋滞になっていた。
「こっから走りなさい。私は昌也の病院に行くわ。もしかしたら榊さんもいるかもしれないし」
「うん、ありがとうねお母さん」




