己が己である為に
どうして七海がこんな目に合わなければならない。
片手で顔を覆う。最近狐が関わる事が多い気がする。勇人もそうだ、狐が憑いていると言っていた。
『簡単に使われやがって阿呆が』
『誰が主人かも分からなくなったか? また一から教育し直した方が良さそうだな』
あの時勇人は狐達の事を知っている風な口ぶりだった。
「勇人……勇人の事を知っていますか!?」
「この前一緒にいた子かい」
「そうです!」
「知っているかもしれないし、知らないかもしれない」
「は?」
「お前と私の認識がずれているかもしれないという事さ」
ふわりふわりと宙を舞う葉を追いかけるように掴みどころの無い会話だ。キャッチボールが成立しているのかも怪しい。
態とはぐらかしているのか。食えない人だと頭を抱える。七海の抱く疑問全ての答えを有しているだろう神様は、容易には教えてくれそうに無い。
「まあそうだね、お前にはこれから頑張ってもらわねばならない。人の子、一つ良い事を教えてあげよう。本来人間の身体に入る魂の定員は一つだけれども、やろうと思えば他の者の魂も取り込めるよ」
見開かれた七海の目元をそっと親指の腹で撫でる。
誰かに教えられたわけではない。ただ七海の経験上、憑くという言葉どおりぴったりと霊が密着しているものしか見た事がなかったから、霊は生きた人間の中に勝手に入り込めないのだと思い込んでいた。
「普通はそうだよ。けれど稀なる子、生者が自らの意思で他者を取り込んだとなれば話は違ってくる」
「でもどうやって……」
「簡単だ。人が何かを摂取しようとするならば、それは口からだろう」
つまり、魂を食べてしまえばいいと言う。
どこが簡単なものか。馬鹿げている。
笑い飛ばそうとした七海だったが、頬は引ってとても笑みとはいえないものになった。
霊が見えて触れる事のできる七海が、それは嘘だと言えよう筈も無かった。
「その通り。お前のような稀なる子ならば可能だ。相当な苦痛を伴うがね」
魂同士が反発し合いそれが激痛を伴うからだ。魂に傷がつく即ち肉体と精神を同時に壊される事を意味する。
「卵のように掻き混ぜてしまえるのならば問題はないのだが、そう上手くいくはずがないと感覚的に理解出来るかい」
霊魂とは自我。個を示す最小単位であり、己が己である為に必要不可欠なものであるが故に、他と混在する事は許されない。
混ざり合ってしまえば、それはまた別の個になってしまうという事。もし二つの魂が交わったならば、両者は消滅しどちらでもない第三の人格になってしまっているのだ。
だから本能がそれを許さない。相手を壊してでも残ろうとする。生物は須らく自身の生に貪欲なものだから。
「あの子は今人間の身体の中でもがき苦しんでいる」
はっと七海は顔を上げた。男は憂いを帯びた表情をしていた。
「それは……」
それは勇人が狐の魂を食べたという意味だろうか。彼の中には本当に狐が潜んでいるのか。
体内にいるのならば七海に見えなくて当然だ。レントゲンでもあるまいし、そこまでの性能を七海の瞳は持ち合わせていない。
そうであるにも拘らず勇人は狐がいるのだと断言した。榊は勇人が突然暴れ苦しむのだと教えてくれた。そのどちらにも合点がいった。
勇人の身体の中では今、二つの魂が主導権を賭けて争い続けている。
新たに湧いてくる疑問。
どうして勇人はこんな危険な真似をした。何故殺せとせがんだ?
「残念、不正解だ」
「え?」
「人間とは情を持ちながら、ほんに利己的なものよな」
困った、と言いつつも白狐はどこか楽しそうだ。解け掛けた矢先に問題はその難しさを増した。
「もーっ! わけわっかんない」
投げ出してしまいたくなる。成り行きに任せた方が早い気がしてならない。七海のおぼつかない頭で考えたところで埒が明かない。
「本人に聞くのが早かろうて」
「それが出来たら苦労しません」
勇人は依然黙して語らず。
話題に上げる事さえ憚られるほどだ。放っておいても良いものならば七海だって悩まない。けれどこうも次々に巻き込まれ続ければ謎を謎のまま放置しておけない。
探偵でもあるまいに自力で閃いて新事実へ辿り着けるわけもなく、頭がこんがらがってどうしようもない。
白狐は静かに笑んだ。
「人の子、お前の稀なる力はきっとあの子等の助けになる。救ってやってくれまいか」
勇人に捕らえられた狐の魂を。方法など知らないが静かに頷くと男はやんわりと七海の頭を撫でた。
白狐は七海の手を取ると小さな玉を乗せた。
「役立てるといい」
彼を表すような白い玉だ。
「模造物ではあるけれど、大層ご利益はあるからね。ではハヤトが世話になる」
「ハヤト?」
「愚息の名だ、人間がつけたものだがな」
勇人が飲み込んだ狐の名。白狐の息子の名。聞き覚えのあるものだったけれど、どこできいたものか思い出せない。
ぱしぱしと軽快な音を立てて、白狐が二匹の狐を叩き起こした。跳ね起きた二匹は眠気を飛ばすように頭を振る。
見慣れれば可愛いなと、手を伸ばす。触れる直前、狐に牙を剥かれて動きを止めた。七海はそれを拒絶だと思ったからだ。しかし手を引いても狐を唸るのをやめず、七海の肩越しに後方を見据えていた。
自然とそちらに目をやった瞬間、外れるのではないかと心配になる勢いで開かれたドアから勇人が滑り込んできた。
「七海!」
血相を変えた勇人が駆け寄ってくる。白狐と勇人が鉢合わせするのは拙いのでは。この間は一触即発の寸前だった。どうしようと振り返ると、白狐は不遜な態度でふんぞり返っていた。
「何をやっている」
聞き覚えのあるその低音。七海は思わず首を竦めた。
「どうしてお前がここにいる、何をしに来た、七海をどうする気だ」
矢継ぎ早に飛ばされた詰問に、白狐はただ静かに見詰めることで返した。
「折角張った結界を壊したのかい、やれやれ無茶をする。邪魔をされる前にお暇するつもりでいたが、間に合わなかったね」
勇人が苛立たしげに七海の肩を掴んで自分の後ろにおいやった。狐との間に勇人が入ってきた途端、急に体から力が抜けた。以前ほどではないにしろ、やはり中てられていたらしい。じわじわと身体から吹き出す汗を乱暴に拭った。
勇人が手を振り下ろすと、二匹の狐は身を翻して避けた。そもそも当てるのが目的だったのではなく距離を取るためなので、それ以上は仕掛けない。
「おおいやだ、これが流行の家庭内暴力かね!」
「ただの暴力だと思います」
大袈裟に狐達を守るように腕で囲い、勇人を非難する白狐に、七海はついいつもの癖でツッコミを返した。神と狐と勇人と七海。誰一人として家族ではない。
「最近の若者はすぐにキレるというのは本当のようだね。そんな君達に残す言葉がある」
「どうしよう、この人のキャラが掴みきれない」
所詮人間如きが把握できなくて当然なのかもしれないが、彼の一挙一動に右へ左へと一々全力疾走させられるのは骨が折れる。
七海のさり気ない、けれどこれ以上はないほどの思いの丈を勇人は潔く無視した。
「……かりそめという字は、仮に初めると書く」
凛々しい表情の稲荷に、勇人と七海は反応しきれなかった。
「まぁ何が言いたいのかと言うとね。その場凌ぎでのやっつけ仕事では長続きしないって事さ」
補足したにも拘らずぽかんとしたままの二人に、豊かな白髪を掻いた。
お布施も無しに神に行動を起こさせるなどいい度胸だ。
自分の説明が抽象的過ぎるという事実には目を瞑る。
「お前が必死に繋ぎとめている一つの魂。今は大人しいが近いうちに暴れ出す。狂おしいほどの願いは成就せん。結果は分かるな」
未だ七海は四割以下しか理解出来ないでいるが、勇人にはこれで十分だった。目を背け、白狐の言う通り仮初の平穏に浸っていられる時間はごく僅かだ。こうしている間も虎視眈々と総てを食らい尽くして表へ出てこようとあいつは狙っているのかもしれない。
険しさの増した勇人の表情を見て、白狐は試すように言葉を紡ぐ。
「よく頑張ったとここでお前を消してしまうが優しさかもしれん」
咄嗟に勇人の前に出ようとした七海を、しげしげと見やった。
七海は勇人が何をし、どうなっていくのかを知らない。いたずらに延命すればするほど苦しみが増すのだと知らない。
「だが私は元来薄情な性質でね。何百年とそれを放置していたのがいい証拠さ。今回も傍観に徹しさせてもらうよ」
長い指がするりと勇人を指す。
「今日のところは帰ろうかと思ったが、そうさな。もう少しばかりその娘に私の分まで働いてもらうことにしよう」
勇人に向かっていた指は彼の隣をすり抜けて七海の眼前で止まった。額を軽く突かれた瞬間息が詰り、そのまま七海はベッドの上に崩れ落ちた。
噛み付かんばかりに威嚇してくる勇人の迫力に、二匹の狐は白狐の後ろに隠れた。
「怒る事ではあるまい、お前と娘の意見の折衷案だ」
「昔からお前の話は回りくどくて解り辛いんだよ、ジジイ」
「阿呆な息子の頭を動かして、少しでも利口になるようにと苦心した結果だよ」
暴言を吐くもあしらわれて終わる。舌打ちとともに埒の明かない会話を早々に打ち切った勇人は七海の顔を覗き込んだ。そこに苦悶を見出せない事に安堵する。
「さあ正念場だ。その人の子はお前達のどちらの望みを叶えるだろうね」
高みの見学と洒落込もう。白狐は金目を細めた。
「私にここまでさせたのだから、満足な結果を残せ」
勇人の前に手を翳す。頭に針を刺されたような痛みを感じた途端、落ちるように意識が無くなった。




