コーヒーとお味噌汁
「つーか私もお腹空いてきたんですけど」
トースターにパンを入れている昌也の横でコーヒーの用意をする七海は口を尖らせた。客人である勇人の分もないというのが一番問題なのだが。それにしても、母は自分の朝食はどうするつもりなのだろう。
その辺は抜かりない人のはずなのに珍しい。
「勇人、取り敢えずコーヒー淹れるから向こうのソファ座ってて」
テレビつけてね、と頼めば勇人は素直に頷いた。ぺたぺたと裸足でフローリングを歩く音がする。スリッパの存在が消えていた。
気にする事無かったじゃん。
母の上品な家に見せようという客に対する小さな見栄は無駄に終わった。
「普通だな」
昌也は勇人を観察するように眺める。
それを居心地悪く感じたのか、勇人は僅かに眉を顰めた。
「狐憑き、なんて言うからヤバイ奴かと思ったけど」
「ヤバイ?」
「狐憑症とも呼ばれる、つまり病気だ。化け物に乗り移られたかのように急激に人の性質が変わる精神病ってところか。錯乱状態に陥るのが一般的」
こいつは錯乱しているようには見えない、と昌也はあっさりと言ってのけた。
だが七海はあっさりと聞き流すわけにはいかない。
そんな風に見ていたのか。
昌也こそが普通に、何でもないように会話をしながら勇人の様子を測っていたのか。
「お兄ちゃん……」
「実際に狐が憑いてようがなかろうが、精神がいっちまった奴の事を狐憑きって言う。でもじゃあ、コイツのこれは何なんだろうな」
榊は狐にとり憑かれた証拠として、髪と瞳の色が変化したのだと言った。
何故か触れられないのだとも。
人間がそんな風に変化するなんてありえない。病気の一種ですらない。
けれど、一般的に知られている化け物憑きの症状とも異なる。
ならこれは、勇人の身に起こっている事は一体何だと言うのか。
昌也は何が言いたいのか。
「……疑ってるの」
榊を、勇人を。そして七海を。
小さい頃から妖が視えるのだと言い、そのせいで巻き込まれた榊家の騒動。
七海が目にするものを昌也は共有出来ない。ずっと今まで信じていなかったのかもしれない。
狂言にしか聞こえていなかった。
「嘘つきだと思ってるの」
他の誰よりも家族に否定されるのが堪える。自然と七海の声は震えた。
だが昌也は、やはり何でもないように、平然としたままだ。
「俺が言いたいのはそういう事じゃない。ただこれは簡単に憑かれてるってだけの問題じゃ済まないだろって事だ。ソイツなのか榊全体がそうなのか、まぁ何にせよ隠し事が多そうだな」
勇人はただ昌也を見返すだけだ。
それが肯定なのか、反論しないだけなのか、七海には判断がつかなかった。
だけれども、彼がまだ自身の事について口を開かないままであるのは七海も思っていたことで。
「あらあらみんな早いじゃない。三文の徳でも狙ってるの? せこい子達ね」
随分と遅れて起きてきた母は、場の雰囲気を一瞬でぶち壊しながら入って来た。
兄妹はじとりとした目を向ける。けれども美弥子にはそんなもの痛くも痒くもない。勇人に「おはよう」と笑顔を振りまいている。
「お腹空いたでしょ勇人くん、朝ご飯あるわよ」
「はぁ!?」
声を潜めるでもなく、昌也の前で堂々と発したその言に七海は目を剥いた。
あるというのなら、昨日からのあのやり取りは何だったと言うのか。
七海と勇人の苦労を、昌也の腹の虫をどうしてくれる。勇人も唖然と美弥子を見つめた。
「ど、どこに隠してたの」
「隠してないわよ、ほら」
ぱかりと開けた炊飯ジャーの中には炊き立てのご飯が入っていた。立ち込める湯気と米独特の匂いが鼻を掠める。コンロの上に置かれたままの鍋の蓋を取れば味噌汁が。
「後は目玉焼きでも作れば出来上がりー」
料理番組さながらの台詞だが、作業としては温めると焼くの二パターンのみだ。
だがしかし今の七海にはこれでさえ豪勢な朝食に映る。
「ねぇ、何の嫌がらせなのこれホントに!」
「ま、言いがかりはやめなさい。昌也はこんなんじゃ納得しないって七海が言ったんじゃない」
言った。確かに記憶している。押し黙った七海に「ほお」と昌也問いただすような声音で呟いた。
「そ、想像してた場面とはかなり違うっていうか。私はもっとお兄ちゃんが昨日の夜のうちに起きてくるもんだと思ってたの!」
文句あるか! 半ば逆ギレとも取れる態度だ。とっくに沸騰していたお湯をインスタントのコーヒーの粉末が入ったカップへ注ぐ。
「勇人くんこっちいらっしゃい、一緒に食べましょう?」
「話聞こうよー」
ちゃっかり勇人と自分の分のご飯をテーブルに置いた美弥子に泣き縋る七海もまたカップを二つ置く。
「しまった! 勇人のも注いじゃった。飲むよね」
淹れてやったんだから飲めよ。言外にそう含めた。が、純和食に合うはずもない。
席に着いた美弥子は指を絡めた手をテーブルの上に乗せ、真剣な表情を作る。
「七海。食べ合わせを考えるっていうのは大切な事なのよ。健康は食から。それを疎かにするようでは結婚しても上手くいかないんだから」
「まだそのネタ引き摺る気?」
いい加減飽きてきた。もう何日目になるか。
カップに口をつけながら、残るもう一つをどうしようかと思案した。折角作ったのに捨ててしまうのは惜しいが、空腹に二杯のコーヒーはきつい。
七海の後ろから伸びてきた手が貰い手の無いコーヒーに伸びる。黙ったまま飲み始めたのは昌也だ。
「わーありがとう!」
手を叩いて喜ぶ七海に、どういたしましての意味を込めてこくりと頷いた。
「ただ飲み物が欲しかっただけよあれ。自分で作る手間省けた、くらいにしか本当は思ってないわよ」
美弥子は小声で勇人に耳打ちする。
昌也はパンなのだから何の問題も無い。しかも自分も飲みたかった。だから貰っただけで本来なら喜ばれるような事はしていないのだ。
決して妹が困っているからという殊勝な理由からではない。
勇人は何と返したものか分からず、曖昧に首を傾げた。頷いても否定しても、昌也か美弥子どちらかの角が立ちそうで、それを回避する為だ。
だが美弥子は特に返事を期待したわけでは無かったらしく「そうだわ」とすぐに話題を変えた。
「勇人くんね、七海の部屋で寝る事になったから」
嚥下する大きな音がした。次の瞬間に咽たのは七海。朝ご飯あるわよ、と全く同じ気軽さで言うものだから、ともすれば聞き流してしまいそうだった。
美弥子としてはそれを狙っての事だったのだろうが。
しかし内容が内容なだけにそういう訳にはいかない。息も絶え絶えの七海は胸を撫でながら美弥子を睨んだ。
「なんで勝手に決めちゃうの!」
「七海が反対しても実行に移すつもりだから」
「さらっと言ったよ……」
美弥子が人の話を聞き入れず、自身の意思を貫き通す人だという事を忘れてしまっていた。その性格を自覚していたのかという驚きよりも脱力感の方が今は大きい。
こうなっては七海が何を言おうと効果はない。
横で大人しく味噌汁を啜っている勇人はもう他人事。
「昨日作った濃いそうな味噌汁飲んでる場合じゃないでしょ。あんた当事者だってちゃんと解ってる?」
「別にいい」
「そうよねー」
「別にとか言うな!」
「腰痛い」
とっくにパンを平らげていた昌也は、つまらない若しくは興味が無いと伝える低い声で呟く。一人ソファで寛ぎテレビのチャンネルを変えた。自分に関係のない話題に加わる気はないらしい。
「どうして駄目なの、お母さんとしては七海の部屋が一番妥当だと思うんだけど」
「むしろどこをどう考えて良しとしたのか問いたい。私はどこで寝ればいいのよ?」
「リビング」
「どこが妥当!?」
「別にお母さん達の部屋でもいいけど」
でもね、と思案気に目を伏せた。
「今日からお父さん一週間出張なの、勇人くんと私が同室で間違いが起こらないって七海言い切れる!?」
「切れまくるよ! お母さんが襲わない限り万が一にもないから!」
何を言い出すのかと大人しく聞いていれば、ドラマの影響を受けすぎな妄想だった。「私ドロドロ系じゃなきゃ観る気しないの」と言っていた通り、美弥子が今必死で再放送を観ているドラマは痴情が縺れに縺れた人間関係を描いたもの。
冗談にしたってその世界観に勇人を引き摺り込むのは可哀想だ。さすがにこればっかりは黙って聞き流せなかったのだろう、味噌汁を気管に入れてしまい盛大に咽ている。
「だとしてもよ、一週間後にはお父さん勇人くんお母さんで川の字になって寝るっていう、かなりしょっぱい事態に陥っちゃうじゃない」
確かに想像するとかなり居た堪れない光景だ。父親と勇人ではお互い気の利いた会話の出来る人ではないし、痛い沈黙に包まれた夜を何日も過ごすのはきっとソファで寝るよりも辛いに違いない。
「書斎があるだろ」
一応会話に耳を傾けていたらしい昌也の発言。
この家には四帖くらいの小さな書斎があるにはある。だがそこは誰も立入れない開かずの間と成り果てている部屋だ。
七海が小さい頃に父の明良が短気を起こし、暴れた惨状が何年も経った今でも維持されている。
「壁の穴だって別に貫通してなかったはずだし、適当に掃除すりゃ使える使える」
当時既に高校生だった昌也は中の様子を鮮明に覚えていた。突貫工事でも行ったようにクレーター型に抉れた壁と、そこから毀れた土埃。棚に並べられていた本は床に散らばり足の踏み場所はなかった。
美弥子はそれを見て「あんたがやったんだから、あんたの小遣いで直しなさいよね!」と言い放った。
サラリーマンの平均的な小遣いしか与えられていない明良は雨風さえ凌げたらいいという最低限の補修、つまり窓ガラスのみ新調したところで書斎を封印したのだ。
「ね、お姉ちゃんの部屋使い続けたらいんじゃないの?」
朝陽は現在大学の近くに一人暮らし中だ。一日目は勇人はそこで寝させたのに、何故移動させる必要があるのだろう。
「ダメよ。朝陽もうすぐ帰ってくるもの」
美弥子は朝食を食べ終り、ご馳走様の意味を込めて合掌。すまし顔の美弥子は「ほら七海も手伝って」と後片付けを始めた。
だが立ち上がる気配を見せない七海と、少し離れた位置にあるソファに座り顔だけこちらに向けている昌也はぴったり同じ驚愕の表情をしたまま固まっていた。
瞳はどこか、陸に打ち上げられて酸欠に陥った魚のような濁り方をしている。
「またそんな急に……」
「そうよね、せめて先週くらいに電話で教えてくれてたらねぇ。今お父さんが迎えに行ってる」
「今!?」
時計を見れば未だ早朝も早朝。こんな時間にみんなが集まっているのが奇跡的であるくらいに。だから父が顔を出さないのは休日でゆっくりと寝ているからだと思い込んでいた。
出張という事は、遠出をしなければならない。休めるうちに休んでくのが普通だろう。なのにあろう事か普段より早く起こされてまでわざわざ迎えに行かされる羽目になるとは。朝陽の人使いの荒さは幾つになっても変わらないようだ。
「昔から立ってる者は親でも使えって言うし」
「いや立ってなかったんじゃない? 寝てたところを叩き起こされたんだよね」
朝陽の場合は親であっても立たせて使う、だ。
「お父さん可哀想」
「明日の我が身」
昌也が正しい。彼女が帰ってくれば可哀想などと他人事のように言えなくなる。そして他者を労わる余裕も失せる。
「勇人……覚悟しといた方がいいよ」
そう警告した七海が見せた笑みは翳りが強かった。




