朝ご飯を食べよう
夢を見た。漠然とだがこれは夢なのだと自覚する自分がいた。
七海の家の和室より大きな畳が敷き詰められた部屋を壁際までゆるゆると歩いている。しゅ、しゅ、と独特の布擦れする音だけが響いた。少し下を向くと普段着る機会などない和服に身を包んでいる。
端まで辿り着くと窓の障子をゆっくりと横へ滑らせた。
円く区切られた窓から見えるのは満天の星と、これまた見事な円を描く満月。
そっと手を翳した。その手もまた七海のものより一回りは大きく骨ばっている。明らかに男のものだ。どうも他の誰かになりきっているらしい。
夢ならばそんな事もあるだろう。鷹揚に考え特に気には留めなかった。
「なあ、本当に自由が必要なのは肉体か魂か。どっちだと思う?」
口をついて出たそれが、やはりこれが夢で自身のものではない事を示していた。七海がこれっぽっちも考えた例のない問いだ。哲学的だとでも言おうか。苦手な分野である事には違いない。
月から目を離し、振り向いた先にもう一人誰かがいた。同じように着物を着ている。誰か、としか言いようがないのは顔を確認する前に覚醒してしまったから。
びくりと身体が反って七海は現に引き戻された。目だけを忙しく動かしここがどこかを把握する。自分の部屋だとすぐに気付いて安堵した。
それにしても何だったのだろうさっきのは。
ただの夢として片付けるにはリアルだ。あの部屋は見覚えがあった。
庵だ。勇人が隔離されていた、竹林の奥に隠された寂れた庵。ならばあれは勇人だったのかと言われれば、声も仕草も言も勇人らしくなかった気がする。が、追求するにはあまりに不可思議で。七海はすぐに考えるのをやめた。
汗でべたつく体が気持ち悪い。一度そう思い始めると寝転んでいられなくなる。そうだシャワーを浴びよう。
思い立てばじっとしていられなくなり、ベッドから降りようとして初めて自分の片手が自由でないのだと分かった。
「……器用ね」
七海の右の手の平に己の額を押し付けて、ベッドに突っ伏す型で寝こけている勇人に思わず呟く。苦しくないのだろうか。息はどうやってしているんだ。色々な角度から観察した。というか、本当に寝ているのかどうかも疑わしい。
「ゆーとー」
つんつんと、勇人のつむじを爪で刺す。二、三度繰り返したところで勇人の手が円盤のように不規則な動きで宙を移動し、七海の手を掴んだ。
上げた顔はぼんやりとしていて寝ぼけ眼。焦点が合っていなさそうだ。
「勇人、手……」
頭は覚醒していないというのに、手にかかってくる握力は強い。
離してくれともう片方の手で勇人のそれを叩いた。
「い、たい」
咄嗟に力を加減しながらも勇人は繋いだ手を解かなかった。自分より一回り以上も小さく細い七海は、ほんの少しの負荷で壊れてしまう。
やっと逢えたのに。こうして体温を感じられるのに。
「脆いな……」
少しでも気を抜けば勇人が壊しそうだ。初めから怖じもせず勇人の手を取った七海は己を許容しうる人間で。何をしても許されると思っているわけではないが、甘えは無意識に乱暴な行動という形を持って出てきた。
他ならぬ勇人が七海を消そうとしてしまった。
それだけはしたくない。
「勇人?」
押し黙ったまま繋がった手を睨む勇人に首を傾げる。
七海は振り解かない。彼女は許さないと言った。
それなのにその舌の根も乾かぬうちに勇人と打ち解けると宣言してのけたのだ。意味が分からない。
でもはっきりと勇人はあの時受け入れてもらえたのだと実感できた。責任を押し付けただけでは飽き足らず、存在そのものを受け取らせた。
行こうと伸ばされた手を掴めば、もう独りじゃなくなると思えた。
だというのに、こうも脆弱では困る。
「七海は俺のものになればいい」
そうしたら何もかも総て打ち明けて、勇人に残された少ない時間、出来る限り七海を守るから。
七海は拘束力のなくなった手を引いた。すると勇人が途端に捨てられた子犬みたいに瞳を潤ませるものだから盛大に溜め息を吐いた。
「あんたそんなキャラじゃないでしょうよ」
無意識にやっているのだろうから性質が悪くて仕方がない。もう少し年齢が上の女性ならば母性本能を擽られるかもしれないが、七海からすれば手の掛かる弟もしくはペットに近い。仕方ないなぁと放っておけない。
末っ子の七海には慣れのないくすぐったい感覚だ。悪くない。
「じゃあ交換条件」
七海はよれたままの勇人の前髪を整えながら、にっと笑った。
「勇人が隠してる事全部話してくれたらね」
それは勇人の思いと前後する。どちらが先かというだけなのだけれど、勇人にはちょっとばかり難関だった。
*
物音がして勇人は目を覚ました。シャワーを浴びるからと浴室に入った七海にリビングにいるように言われて大人しくソファに座っていたが、いつの間にかうとうとしていた。
無意識のうちに寝そべっていて、どうやら本格的に寝ようとしていたようだ。
電気を点けなくとも周囲を視認することは可能だが、部屋の中は夜が明けきらぬ薄暗さを未だ保っている。
リビングのソファに寝転んでいた勇人は上体だけを起こして目を凝らす。カチャリと戸棚が開く音がもう一度して、リビングと繋がっているキッチンの方からしたのだと分かった。
今度こそ起き上がって覗き込むと、冷蔵庫から一線の光が漏れているのに気付いた。勿論、その前に立っている人物にも。
昌也が冷蔵庫の扉に手を掛けたまま、中を物色している。そして何も取り出さず静かに閉じた。
はぁ、と吐き出された溜め息が一番大きく響いた気がする。
どうして昌也の背中から苛立ちが見て取れるのか理由は解っているし、その原因の一端に自分も関与していると自覚しているからなかなか声が掛けられないでいる。
迷い、手を上げたり下げたりを何度か繰り返しているうち、昌也が振り返った。
その据わっている目に頬が引きつる。
「何食った」
「は?」
お早うもなく、勇人が背後に立っている事を不思議がるでもなく端的に発せられた言葉が質問だとワンテンポ遅れて気付いた。削られているが、多分晩ご飯の事を言っているのだろうと。
「え、と。しゃぶしゃぶ」
「ポン酢」
「いや胡麻ダレ……」
「白か」
「はぁ」
果たしてこれは会話が成立しているのか。何につけてしゃぶしゃぶを食べたのかという話なのだろうが、何故そんな方向へずれたのか。
「だからか」
だからがどこに掛かっているのか分からない。
一人納得して頷く昌也だが、勇人は謎が深まるばかりだ。昌也という人物の人となりが一切見えてこない。それきり黙り込んだ昌也に早くも二人きりでいる事に限界が近づいてきている。
誰か間に入って通訳をしてくれないだろうか。
勇人のそんな切実な願いが叶ったのか、リビングのドアが開いた。
Tシャツにハーフパンツという格好で、首にはタオルを巻きつけた七海だ。部屋の明かりをつけて二人に気付いた七海は、勇人の切迫した視線に気付きもせずヘラヘラと笑って「おはよー」とこちらへやってきた。
腕組みをして七海を迎えた昌也にきょとんとしている。何故に不機嫌さを顕にした昌也を前にこんなにも平然としていられるのか。
「昨日は豪勢な晩ご飯だったそうで」
嫌味ったらしい昌也に、漸く悟った七海は、はっと息を飲む。
「おか、お母さんの独断だからね!? むしろ熱気が凄すぎて食べる気失せたし。しかも後でお兄ちゃんの買いに行かされたんだから!」
「へぇ、じゃあそれどこ」
「ドコ!?」
鬼気迫る、けれどどこか縋るような瞳で勇人を見た。その迫力に負けて一歩後退する。
「か、買ってない」
「ああん?」
「なんだその態度。元はといえば七海があんな馬鹿狐如きに負けて気絶するからだろうが。店に出入りする客にも店員にも変な目で見られるし、担いで帰るの大変だったんだからな!」
気絶している七海を覗き込みながら「救急車呼びましょうか」と心配気に声を掛けてきた通りすがりのおばさんや、遠巻きに見守るカップル。
突然倒れた七海を病院に連れて行こうとしない勇人をあからさまに訝しんでいた。
「担いでですって……? 抱き上げなさいよ優雅にっ!」
「どう扱おうが俺の勝手だ」
「その言い回しやめて、誤解されたらどうしてくれんの」
「誰に何を」
「破廉恥!」
「意味が分からん」
ぎゅるるるる。切実な訴えは昌也の腹から。半日何も食べていないのだから当然だ。口喧嘩を止めた二人は気まずそうに腕組みをしてシンクに凭れ掛かる昌也を窺った。
「開けてみ? 冷蔵庫」
顎で促す。表情は変わらないが大層不機嫌そうな兄に逆らわず、素直に七海は冷蔵庫を開けた。勇人も覗き込んでくる。
中は見事なほど食料品が入っていなかった。あるのはペットボトルの飲料とドレッシングなど、それ単品では到底食事になり得ないものばかり。
あれほど粉チーズは冷やすなって言ったのに……
ポケットの隅に追いやられている円筒の容器を見やって関係のない事を思う。
それどころではないと気を取り直した七海はパーシャルを引き出した。ラップに包まれた薄ぺらい正方形のものに更に紙が丁寧に巻かれている。
紙には流れるような達筆で数行の文。母の字だ。
「『昌也へ ごめん、とりあえずこれ食べといて下さい。後でコンビニ行ってね。めんご』」
中身は予想通り食パン一枚だった。ラップと紙の間から千円札が出てきた。昨晩何も買えずにコンビニまで行って帰ってきただけの七海のポケットから抜き取られたものだろう。
さっき洋服を洗濯機に入れる前に思い出し、確認して存在が消え失せている事に落胆したのだから。
「『追伸 マーガリンもジャムもありません。ドレッシングならご自由にどうぞ』……ドレッシング?」
読み終えた七海は何となく兄を見た。
「な?」
「なって言われても……まぁでもどこからが嫌がらせかって、そりゃあ最初から最後までだよね」
肯定するように昌也は深く息を吐き出した。食パンをパーシャルに入れる必要性は感じられず、お金に至っては冷やした意味などありはしない。
そして好みは十人十色であるとは言え、昌也にドレッシングを食パンにかける趣向がないと当然ながら知った上で勧めているあたり悪意を感じる。




