プロローグ
ふとした瞬間、例えば珍しくテストの答案用紙が早く埋まり、見直しも終わって時間を持て余しているときとか。どうしようもなくどうでもいい事をとうとうと考える。
普通とは何ぞや。
それは無個性である事。みんなと同じであり、目立たずその他大勢に埋没されてしまう存在である事。文武に秀でているわけでも、芸術的センスがあるわけでも、まして容姿が優れているわけでもない。突出した部分が無く、全てにおいて並である事。
そこそこに流行に乗り、周囲が飽きた頃には自分も見向きもしなる。
賞賛の拍手を叩きそうになるくらいに全部が全部当てはまる事実に、藤岡七海は満足げに頷いた。
普通である事が悪い事ではないとは思う。悪目立ちするような個性ならなくていい。
ならば、どうしてここまで自分は平々凡々なのかと疑問を抱いてしまうのかと言えば、偏に家族のせい。
誰に話しても
「変わった家族だね」
と返されてしまうくらいに、藤岡家の面々は普通ではないのだ。
母の美弥子は『我が道を行く』そんな言葉がぴったりくる人だ。周囲の目を気にすることなく自分のしたいようにするのがまず基本。一度こうだと決めたら頑なで、他人の意見など聞かず、それを邪魔しようものなら後でどんな制裁を加えられるか知れない。
とんでもない思いつきが多く、周囲(主に家族)を巻き込んだ挙句「なんだか思ってたのと違ったわ」などと文句を言って放り出すなど日常茶飯事。
そのくせ自分に甘く他人に厳しいせいか、害を与えられるのを事の外嫌う。相手に悪気があろうとなかろうと、癇に障った時点で敵とみなし態度を急変させる。勿論、やられたら十倍返しだ。
そんな彼女から生まれ育てられた子等は、行き届き過ぎなくらいにその精神を受け継いだのだろう。美弥子同等もしくはその上を行ってしまいかねない個性に恵まれた。
七海ではなく、上の兄姉二人のことだ。
一番上の兄である昌也は、思考回路が複雑怪奇なのか常人では理解し難い変化球ばかりが会話で飛び交う事もしばしば。更には行動もたまにおかしくなる事もある。
以前母に頼まれてスーパーへ出かけた折、七海が買い物を済ませて外に出ると、すぐ入口で昌也が流れているサンバ曲のリズムに合わせて踊っているのを目撃してしまった。
どうしよう近づきたくないと本気で逃げようとしたときに、直ぐ傍で口を開けたまま彼を凝視している小さな女の子がいるのに気づいた。
曲が途切れ、昌也も踊るのを止めた途端に少女は我に返り
「マーマー! おにーちゃんがぁーっ!」
と泣きじゃくりながら母親の元へと走り去った一連を、七海も泣きたい気持ちでいっぱいになりながら見届けたのだった。
昌也は何故か嬉しげに笑うばかり。頭が良すぎて変人じみている、と七海は思う。頭が良いのにと残念だと言う方が正しいか。
昌也は頭の回転が恐ろしく速い。それは勉強が出来るというだけではない。脳内の引き出しが異様に多く、どんな話題にも精通している。それなのに、それを覆い隠してしまうこの言動のおかしさ。
本人にも自覚があるらしく、人前では普通を装う術を持ち合わせているのが厄介というか、やはり賢いのだろう。
そして彼をして「人間としておかしい」と言わしめるのが、真ん中の姉の朝陽。
褒めようとすれば天真爛漫、貶せば傍若無人。いつだって本心をオブラートに包むことなく、あっさりと口にしてしまう彼女自身にはいたって悪気は無いのだが、大層な毒舌家である朝陽の言葉は時に刃となる。
けれど非難したところで彼女は「だって本当のことじゃない」と歯牙にもかけない。
そしてそんな朝陽がこれまでこの性格を貫き通せてきたのは、自他共に認める優れた容姿のお陰である部分が大きい。
街を歩けば男女問わず振り返る美貌は奇跡にも近い芸術的代物なのだと、他ならぬ本人が言っていた。
自分で言うなよと鼻で笑えても否定出来ないのが悔しいところだ。
綺麗なものには棘があるという言葉通り、朝陽は誰もが魅了される美貌の裏に針鼠も驚くほどの棘を持っていて、うっかり外見に騙されて近寄れば串刺しにされてしまう。
それでも彼女の周りをうろつく男達を見る度に、ああこの人達は朝陽が
「お金が無いなら男に貢がせればいいじゃない」
なんて平然と言ってのける人間だって知らないんだろうなぁ、と憐れむのが七海の常。
父親の明良はと言えば一見してみれば大人しく大らかな人で、事実その通りなのだけれど。それだけであるはずもなく。
普段優しい人ほど怒ると怖い。例に漏れず明良も一度キレると手がつけられなくなる。流石に女子供に手を上げる事は自制しているが、その分物への当たり方が半端ではなく、家の一室を使用不可能なまでにぼろぼろにしてしまった過去があるくらいだ。
当時まだ幼少であった七海はその暴れっぷりに腰を抜かして床にへたり込み泣きじゃくった。その後ちょっとしたトラウマとなりかけ数日間は明良に近づく事さえ出来なかった。
最初こそ家を壊した父に文句を言い連ねていたが、数日経って頭が冷えた頃に「一家の黒柱を担ってるだけあるわ、頼りになるったらありゃしない」と他人事のような感想を呟いた美弥子とは良いコンビだ。
そんな藤岡家の中にあって、特筆すべき点が無いのは七海だけだ。逆に彼女が異質であると捉えられかねないほどに突き抜けた個性を持ち合わせてはいない。
普通を絵に描いたような七海の平坦な日常。もし日記でもつけようとするならば、毎日同じような内容になってしまうだろう。変わるのはきっと天気くらいだ。
他の家族のように突き抜けた何かが欲しいかと訊かれたら答えは否。「普通が一番なのよ」としみじみ言えば「お前はおばあちゃんか」とツッコミを入れられたけれど。
高校二年生という多感で好奇心旺盛な年頃にも拘わらず、何事も波風立てず平穏に暮らすを好しとしている。
気に入っているのだ。「もうこの人達って本当変なんだから」とちょっと外から目線で家族に言える立ち位置が。
「テスト中にグダグダ考えてたあんたも変だと思うけどねー」
学校帰りに入ったファーストフード店で昼食を食べながら七海が話せば、テーブルに肩肘を付いた格好で冷たくなったポテトを咀嚼しながら友達はそう返した。
「私からしたら七海は藤岡家の集大成って感じするよ?」
「どこが!」
「自分の事を普通だと言い張るところとか」
ずぞーっとシェーキを飲み干すと、友達はにんまりと笑った。
「確かに七海の家族は常人離れしてる。けどそれを当然のように受け入れてるあんたの方が私は恐ろしいね」
友人の失礼極まりない発言に顔を顰めるも反論はしなかった。
確かに七海は変わり者ばかりの血縁者がやらかす珍事件を楽しんでいるのだから。
「でもまあそうね、一見普通の子っぽいよね七海は」
付き合ってみれば、やはりどこか変わった子だという印象にいつの間にか摩り替わっているが、知り合った当初はそうでもなかったように思う。
「隠す能力? 普通の皮を被れるっていうか装う才能っていうか」
「なんじゃそりゃ」
胡乱気に見やれば友人は「上手く言えん」と曖昧に笑った。
「常識人って言ってもらいたいね。ていうか……天は二物を与えずって言うけど、それなら唯一の才能が何になるのかくらい自分で選ばせてもらいたかったよ」
「ま、そりゃそうだ」
適当な相槌に溜め息を吐き出す。
使えない才能ならば無くていい。だから七海は現在無いものとして振舞っている。
空っぽになったトレイを持って立ち上がった。
「埃ついてる」
「あ、ごめん」
七海は友人の肩を二、三度軽く叩いた。ふわりと舞った埃はそのまま宙を漂い消えていく。
埃だなんて言い方をしてはいけないかもしれない。けれど七海それの名を口にしない。
妖怪、若しくは幽霊だなどと不用意に言ってしまえば、それが後でどれだけ自分に影響を与える事になるのか何となくでも解るから。
誰に教わったでもない。子どもが生活の中で自然と言葉を覚えてゆくように、当然の事として他者に言うべきではないのだと七海は考えている。
妖怪などという輩は、自分達が通常、人間の視覚に映らないのだときちんと認識している。
しかし、ごく稀に人間の中にも視えてしまう奴がいるとも。
だから妖怪に七海が視えるのだと気付かれた所で滅多に困りはしない。
だが人間は違う。十中八九の人はその存在を否定し、ただの空想の産物だという意見が世間一般的だ。ここではっきりと在るのだと明言してしまうのは即ち、自らを異質であると露呈する事。
七海が嫌がる悪目立ちに繋がる。
言えない。言うわけがない。人の前では視えないものとして過ごす。
そんな使い道の無い能力は、初めから持っていないのと同じ。
だから妖怪や幽霊を視る瞳を除外して考えた結果、七海は『普通』なのだ。
家族ばかりは隠し遂せるものではないから承知しているが、それ以外の人達には話した事は一度もない。
「そーだ、やっぱあんた普通じゃないって」
「ん?」
まだその話題を引き摺るのか。そんな思いを隠しきれない、どこか面倒くさそうな表情になってしまった。友人は気にせず続きを言う。
「厄介事に巻き込まれ体質」