4. Les Miserables(哀れな人々)(1)
藍の空静かに、中空に太った三日月が佇む。メタボか(台無し)。
セイタカアワダチソウとススキが生い茂る湖、そよそよと凪ぎ、水はひたひたと染みてくる。
さてさて青年エヴィル、
「おぇえぇええええええぇぇー」
水辺でのたうちまわりながら、盛大にゲロッパ(擬音)していた。
転がりながらのゲロッパ、まさしくローリングゲロッパ。同じ意味じゃねえか。
それにしてもソウルの帝王ジェームス・ブラウンに失礼ではないのか。これすなわち全ての黒人音楽ファンを敵に回す行為と言えよう。
しかし、JBのライヴ盤で受けた衝撃は、まさに土下座してひれ伏すものだった……「すいません、参りましたぁ!」的な。まさにファンクが極まった瞬間。あー、ファンクって何て説明すればいいんだろ……熱狂的で攻撃的で祝祭的な黒人ド演歌? と思っとけばよろしいかと。
エヴィルの今の超ゲロッパもそれに近しい激しさがある。ロケンロールに、ソウルフルに、吐いて吐いて吐きまくる。
顔色なんて、もはや悪くなりすぎて、何かの絵の具を塗られているかのようだ。
「人間ここまで悲惨になれるもんでありますなー」
「誰にも弱点はあるんだよ……いたた」
ぼけっとしながらその情景を見つめるアークと、ぽんぽん(お腹)をさすりながら答える時雨。
ここはアークに連れられてきた湖。
湖があるのは知っていたが、ここまで静かとは(それも青年のゲロッパが台無しにしているが)。
ある種の、砂漠と草原と森といった勢力の間の、非干渉地みたいなものか。オアシス? のようなものか。
ともかくも、この一帯にとっての水源がここである。
それにしても静かである。神が守っているかのような。
「おげぇぇえええ……もう出ねえ……頭痛えぇえぇぇ……」
「ほらほら、こっちきて休んで」
「ですです」
青年を休ませる二人。岸辺の草がベッドのようなものである。寝心地はそんなに悪くない。
「ううううぅぅぅぅう……」
余程あの酒の一撃が効いたらしく、酒精、否、酒毒が体中に回って、青年、この世の地獄を見ている。
畜生これじゃ人体実験じゃねえかと、いつもの自分の所業を棚に上げて恨みがましく思っているエヴィル。反省すればいいと思うが、こうなりたくないからこそ他人で実験するのだ、というロジックを持ち出してくるから始末に負えない。
「それにしても……さ、アーク」
「はい?」
「あんな特技があるなんて知らなかったよ」
「ああ、いきなりハイパワーになったことですか」
「そそ。いきなり銃口自分に向けるんだもん」
「あの弾丸には、『記憶を消す』きっかけ剤みたいなものが含まれているです」
「きっかけ剤って」
何だその妙な薬名は、と時雨は思った。
「それが無くても記憶、消せるんですけど、まあ、アレがあった方がパッと飛ばしやすいんです。で、代わりといっては何ですが、私、そうしたら強くなれるんです。どういう仕組みかは分かりませんが」
「忘れることによって強くなる? 記憶を吹っ飛ばすことによって?」
「はい。私、そういう体質なんです」
ああ。
忘れやすい、というのは、記憶を消せる、というのは、こういう意味合いだったのか、と、時雨はとことん思い知る。
つまるところ、彼女は、今までいくつもの記憶を吹っ飛ばして、こうして窮地を切り抜けてきたのだ。
彼女の「何でも屋」としてのレベルも、そこに起因しているのだろう。
だが……。
「それじゃ、いろんなものを失いっぱなし、っていうことじゃないの、あの屍霊術師が言うように」
「まず、嫌な、思い出したくない出来事から消すでありました。そうすれば人生楽でしたから。次に、どうでもいいトリビアから。それから、必要がないと判断したものは、どんどん消していきました。そうして、今までやってきました」
「ねえ」
「はい?」
「フォガット(Forgot)っていうのは、『忘れてしまった』って名字だったんだね、今まで聞いてこなかったけど」
「え、私の苗字、そんなんでありますか?」
「……え」
まさか。
「貴女、自分の名字も吹っ飛ばしたの!?」
「た……多分そうであります。時雨さん、そんな剣幕で言わないでくださいよぉ」
「そんな大切なものまで、簡単に吹っ飛ばせてしまえるものなの?」
「生き延びるためでしたから」
それを言われると、ぐうの音も出ない。
やはり自分が、あの場に居る全員を斬っておくべきだったか。そんな後悔の念が彼女を襲う。
「あはは、時雨さん、気にしないでください。どうせ、いつものことですから」
「……よく、笑っていられるね」
「そういう生き方しか、出来ないでありますから」
ああ、ああ。
これでは本当に屍霊術師の言っていた通りだ。
失い続けていく人生。それをよしとしている人生。
蟻地獄の砂壺に、ひょいひょいと自分の人生のフラグメントを投げ捨てている。
それはすなわち、ある種の自己破壊では? もとい、それが誰かのためならば、自己犠牲ですらあるのでは?
時雨、そのように考えた。
同情よりももっと深く、憐れむよりももっと悲しく、
そんな生き方の、ひたすらまでに哀れで悲しい、宿命じみたものに。
「記憶がディレクトリ構造になってるんだよな……完全にデジタルだ」
エヴィル、気がつく。目を覚まし、ぶつぶつ呟く。
「大丈夫でありますか、エヴィルさん!」
「お前の方が大丈夫なのかよ……事態は把握した。忘却による能力増大。つまるところ……メモリのリソースを大幅に拡大することによって、自分の能力を、自分のキャパ以上に使えるんだな」
「?」
どちらかというとコンピュータ用語が飛び交っているエヴィルの言葉は、アークには届かなかった。現代の我々には、ある程度の検討がつくが。コンピュータというメタファーを通して。が、この時代、当然パソコンなんてものはないわけである。
エヴィル、噛み砕いた説明をする。
「理屈がわからない、っつったな。じゃ説明する……おえぇ、気持ちわりぃ……」
「無理になさらなくても大丈夫ですよ」
「気晴らしだ。気にすんな。つまりお前の能力は、自分というものの記憶……『自分そのもの』か。あるいは『自分の情報』。長い間自分に蓄えられてきた情報。それを消し去ることによって、自分の中に、一時的に容量を大幅に空かすんだ。で、空いたスペースを最大限度活用することによって、お前は『超人』となる」
「子供に戻るようなモノなの?」
時雨が問いを発する。
「もっと強烈だ。恐らく、子供ですら記憶している類のこと……さっきの苗字がいい例だ。それさえも『飛ばす』のだから……記憶のナマモノさについては前話したな? 忘れたくても忘れられない。例えば、ある匂いを嗅いで、それによって記憶が引きもどされるような。けど、お前の場合は、それさえも根こそぎなくなってしまうんだろう?」
「はい。すっぽりと」
「ディレクトリ構造というのはそういう意味だ――ああ、一般的に通じる言葉に直せば、本と本棚の関係だ。アークの脳内は、すべての記憶が、順序正しく、すぐに取り出せるように、完璧に個々の事象が分割されて記憶されている。それこそ一日一時間単位で……」
「そうなの?」
「……言われてみれば、なんか、そういった『記憶のブロック』を吹っ飛ばしている感があります。なるほど、そうだったのですねー」
「感心してる場合か。お前……はぁ……はぁ……」
「エヴィルさん、だから、休んだ方が……」
しかし青年、なおも続ける。
「お前、歳、幾つよ?」
「だからそれは……」
「それも、忘れちまってるんじゃねえのか? 乙女心とか関係なく」
「めえ~」と話をずらす間もなく、エヴィルは指摘した。時雨は息を呑んだ。
「……はい。忘れてるであります」
「いつからだよ」
「少なくとも、この村で働くときには、忘れていたであります。ギルドにはその手の事項を記入しなくてはならないのですが、書けなかったのです」
「誕生石は? 誕生花は? 生を司る星の名は?」
いずれも、魔術に関連するキーポイントであった。この時代の人間なら最低限覚えている。保険証のようなモノと思えばよろしい。
「わからないです」
「……お前、さっき、苗字『フォガット』を忘れたって言ったよな。じゃ、あの時『吹っ飛ばした』のは……ゴホッ、カッ……苗字にまつわる、全てのことを忘れ……はぁ……はぁ……」
そろそろ息も絶え絶えになってきたエヴィルであった。
後はアークが引き継いだ。
「……はい。今私の脳内を検索しましたところ、苗字に関するあらゆる記憶が抜け落ちているです。けど、この苗字も、多分誰かが付けてくれたものであります」
「付けた?」
時雨が問う。
「今まで、2,3回、このようなことがありました。自分の苗字を吹っ飛ばした、というのが……それも、おさっさん達ギルドの人から聞いたことなのですが。だから、私は親さんのことを知りません。家系についても、兄弟姉妹がいるのかさえ。子供のころの記憶もありません。その時、結構私、強くなったんじゃないでしょうか? 結構大きめな記憶のはずですから」
「……悲しく、ない……の?」
若干、時雨は苛立っているところがあった。
そんなに簡単に己を殺してまで、すべきことがあったのだろうか、と。
記憶はナマモノだ。確かに消したい記憶もある。
だがそれさえも、やはり自分を形作っているものなのだろう。だとしたら、自分自身を、やはり破壊し続けていることになる――平然と。
その平然さが、引っかかる。
けれど、自分に何が言えよう。
誰がお前の人生は間違っていると、お前の人生の送り方は間違ってきたと、断罪出来る立場にあるだろう。そんな審問権利は――少なくとも、人斬りの、自分には、ない。
エヴィル君になら、あるのかもね、と、時雨は思った。
頼みの相棒は、今酒毒に苦しんでいる。よってどうとも言えない。
だから、自分には、何も言えなかった。
代わりに、ほとんど愚問と知りながら、「悲しくないか」と聞いたのだ。
返ってくる答えは、ほとんど分かりきっていた。
「この生き方しか出来ないでありますから。それに、悲しいという記憶も忘れるでありますよ、自分、アホですから」
「アホじゃない!」
時雨、そこは語気を強めて言った。それには言い返したかった。
「アホですよ、私は。こんな生き方しかできないんですから」
それを言われたら、ぐうの音も出ない。
それ以外の生き方が出来ないというならば、そうなのだろう。彼女の中では、決定済みの思考なのだろう。
「問題は……」
アーク、取りまとめて言う。
「あの遺跡のこと、です」
 




