(7)
場は完全に乱戦の様相を呈していた。
時雨がばったばったと斬り伏せていく。相手の数などものともせずに。
エヴィルは、時雨から離れた場所に居る連中を、炎や氷や雷といった魔法をひょいひょい放って倒していく。
つまりは時雨が先陣きって切り込み、エヴィルは後方から魔法で援護射撃、というのが、この二人のいつものパターンであった。
何しろエヴィル、魔法の詠唱速度が速すぎる。発動速度が速すぎる。略式魔法すら使うものだから、タイムラグなどはほとんどないものと言ってもよく、さながら現代戦場のじゅうたん爆撃のような。
そして、エヴィルはアークに向かって、ひとつのサインをした。
アーク、手に持った銃を天井に向け、ばしゅっ、と弾丸を射出した。
刹那。
パン! と音を立てて真っ白な光が弾けた。
「時雨君! 心眼で斬れ!」
辺り一面、突然の光によって、視界の自由が利かなくなった。
百戦錬磨の冒険者、いくら素人であろうとなかろうと、このような洞窟に何日も閉じ込められている連中にとっては、この突然の閃光は目に悪すぎた。立ちくらむ者すらいる。
だが時雨にとっては、見えなくてもこのレベルの敵なら問題がない。
(このレベル、といったが、物語の最初の賊と違って、確かにこの冒険者たちは百戦錬磨であり、危険を数限りなく冒してきており、それに対応する技量も持ち合わせているのだが、しかしひとえに才能の違いとしか言いようがない)。
確かに時雨の目も光に満たされ、見えにくくなっているのは確かだ (それでも、ある程度は見えるのがまた才能というか、技量の違いというか、研ぎ澄まされた肉体というか)。
が、時雨ほどの剣士になると、相手の位置感覚を、気配で感じ取ることが出来る。
彼女はそれを「気」と呼ぶ。原理的には、魔法・魔力と同じ類なのだが、あくまで肉体の鍛錬から生まれたエネルギーである。それを戦闘に用いる。
具体的には、先の「時計仕掛」のように、肉体の速度を上げたり、精神集中による居合抜き (抜刀術)で、万物を切ったりするほどの切れ味を上げたり、など、など、など。
魔法と同じ類、というのはそういう意味合いである。「我々の世界の人間」の道理を越えている。あえて近いものを挙げるとするなれば中国 (内気)拳法か。
時雨が剣聖である所以はここにある。同時に化物性も。ネクロマンシーが驚愕したのもさもありなん。そんな剣士など、ざらにいた試しがないからだ。
時雨、まさに心眼で斬りながら、屍霊術師との間を狭めていく。
その間も、彼女は「生きている」人間を殺さない。
それはある種の偽善であろう。彼女もそれは自覚している。
つまりは「殺したくない」。
殺す、という意味での「切って」しまった方が、彼女にとっては遥かに楽なのである。何でも切れてしまうのだから、人間など、骨で繋がった肉の塊にすぎない。
それでも殺したくない。ひとえに、そこに対話の余地があるから。思考する存在であるから。
だから、多分時雨は会話が出来るのなら、虫だって殺さないだろうし、逆に会話が成立しないモノ……例えば魔獣、そういったモノは、ばっさばっさと斬る。
偽善、というのは、そういった意味合いだ。「所詮は自分ルールではないか」という。
ラノベの定義とか、萌えの定義とか、やおいの定義とか、文学・非文学の境目とか、そのあたりの議論に筆者、いささかの根源的な疑問を抱いてしまうのだが、それもひとえに「それ自分ルールを無理に拡張しているだけじゃん」みたいに思えてならないのだがいかがか。
そんな心意気に似た疑問が、確かに時雨の行動にも……行動基準の定義にも現れている、という指摘をすることは容易い。
だが……。
彼女とて悩んでいるのだ。
(わかっちゃいるんだけどね、どうしても、嫌なんだよ、これ以上殺すのは)
そんな、自分ルールだけども、「もうこれ以上は」という、殺人機械に徹しきれない殺人機械の究極の自己矛盾が、彼女にあることを知っている。
これまで、斬って、斬って、殺して、殺して、生き延びてきた彼女だからこそ、そう思うのであった。
例え偽善と言われても。
最後の一歩のところで、殺人機械にはなりたくない。
だから、余裕があるときは、こうして斬らない、殺さない。それが彼女の生き方であった。
屍霊術師の間合いまであと数歩。
圧倒的な足の速さ……否、「機動力」。時雨の武器は、圧倒的な手数と斬り口の鋭さがひとつ、もうひとつがこの機動力である。そこにすべてがかかっている。
これで屍霊術師を打倒して終わり……
が。
術師、かすかに笑う。
「……ふぅ、ギリギリ間に合ったわ。術式構築完了、且、展開」
術師はいつの間にか、自分の傀儡から剣を取っていた。右手に握っていた。
その瞬間、ゾクりとするものが時雨の背筋に走った。一歩、引いた。




