●時雨とエヴィルと忘却少女 はじめに
何作も続けますが、まずは「時雨とエヴィルと忘却少女」というお話からです。
だいたい88000文字です。
ちなみに、「ほうき星町」の、ずいぶん前の時代のおはなしです。
ここではないどこかの時空に存在するとある世界「レッズ・エララ」。
願わくば、しばし筆者の目を介して、皆様方にはご覧いただきたく思う。
とある二人――人斬りの彼女と、天才で変態な彼の無軌道な旅の記録を。
それから彼ら二人に巻き込まれる哀れで平凡な人々を。
そして――少々頭のネジが外れて、都合良く自分の記憶が消せて、その代償として強力な力を得て、でもやっぱり何かを失い続けている悲しい少女を。
筆者の視点は確かに神の視点ではあるが、どこまでいっても筆者はただの物書きに過ぎず、よって物語がどちらに転ぶか、人生喜劇がいかに展開されるか、筆者が制御出来るところではない。
言ってみれば筆者は映画のカメラを回している、ただそれだけの存在である。
彼らの声を聞き、
彼らの動きと世界の様相を見て、
彼らの心のうちをそっとしまいこむ。
筆者はただカメラを回し、すべてを録画しているだけにすぎない。
筆者は神ではない。真に神なるは読者である。なにしろ本書を投げ打てば、そしてこの世界は終わる。
しかしその衝動を我慢していただいて、少々のお話に付き合っていただくならば――何、長くはない。作中時間にしてもそれほどの日数がたっているわけでもなく、実際彼らにとっても、それは長い長い人生の1ページにすぎない。
ただそれだけの、ごくごく短い時間の物語だった。
だけど彼らは――時雨とエヴィル、少女と青年の名だ、彼らは忘れない。
悲しい少女は、その健忘症ゆえに忘れてしまうだろう。
それでも時雨とエヴィルは、人として、彼女のことを、いつまでもしつこく覚えていよう、と誓うのであった。
ああ、ああ、前口上が長くなってしまった。これから筆者は言った通り、カメラを回そう。
キネマの舞台に映し出されるのは、愉快痛快すちゃらか喜劇、ハンケチを用意するにはあたわない、お涙ちょうだいを吹っ飛ばす、のんべんだらりないい加減な旅。
場面はレッズ・エララのとある大陸の内陸も内陸、長い長い道を二人が歩くところからはじまる――もっとも、どの場面をとってみても、彼女と彼は旅をしているのだから、どれでもいいといえばいいのだけれど。
そんな散文的なうだつの上がらない前口上とは違って、彼女と彼は実に刺激的に……