前編
男は薄暗い森を、木の根につまずきながら歩く。滑りそうになったりしてフラフラと歩いているその姿は初心者が不用意に森へ入ってしまったかのようだ。男は薄暗い森の奥底へ、その先の泉へ、不思議な光を放つという伝承があるその泉に向かってゆっくりと、やつれた顔で誰かに操られるようにして歩いて行った。
頼りない足取りのこの男は別に森に慣れていない訳ではなかった。むしろ他の人より慣れているはずだ。男の名はアルバクといい、村を囲んでいる深い森に入っては薬草の材料となる草やキノコを採り、調合して売っていた。医学の知識もあり、アルバク以外医者というものがいない大きな森に囲まれた小さなこの村ではありがたがられていた。村民たちからは「神の腕を持つアルさま」などと呼ばれ尊敬の眼差しを向けられるのだった。
大きな街からこの村に来たアルバクは医学以外でも何かと尊敬されアルバクもそれに応えた。大人には他の地方の見聞を伝え、子どもには学校を開いて文字を教えたりして大いに村を助けた。
アルバクは村に来てから少し経ったころ妻を娶った。村で一番美しいと噂の娘で、是非村の英雄たるアルバクにとのことだった。
妻の名はリディアといい、鼻筋が通っていて肌は白く、この田舎の村では浮くほど美しい娘だった。貴族の出と言っても通る気品に満ちていたリディアだったが、本人はいたって質素で贅沢をしなかった。
簡素だが決して貧乏くさくなく、清潔でさっぱりした生活を送った。普段は農民が良く着るような麻で出来たシャツとかこの地方の民族衣装でもある黄色の花模様を刺繍した赤いスカートに赤いローブという装いをしていた。器量もよく、覚えも早かったので最初は家事だけをしていたリディアはいつしかアルバクの薬学・医術の助手のような働きもできるようになった。それから3年間二人は互いを助け、そして村を助けた。
そんなアルバクの妻のリディアは今、死の病に犯されている。1ヶ月ほど前に体調を崩し、アルバクが診察したところ首筋に黒い斑点が現れていた。これが死の病と分かるのにアルバクにとってなんてことなかった。その時だけは自分が医者だったことを恨んだ。次第に体調を崩し、今ではベッドがから起き上がることもできなくなっている。
今から1ヶ月ほど前のこと、リディアがまだ自ら歩けた時。アルバクは藁をも掴む気持ちで村にある小さな教会へ相談に行った。しかし神父の説教を聞いてもアルバクにはあまり効果が無かった。
暗い霧が心から晴れないまま教会を出ると、黒のローブをまとった人物が近づいてきた。村人は全員知り合いと言えるほど小さな村だ。見たこと無いこの男は外から来た人だとすぐ分かった。
「お前は絶望に苛まされている。そうだろう?」しわがれた声でゆっくりと、重みを持って語りかけてくる。アルバクが黙っていると男は付いて来てまたしゃべりだす。
「森の泉には精霊が住んでいて、願いをなんでも聞き届けてくれるんだが…」その話はアルバクも知っていた。
この地に教会が建つ以前まで信仰されていた土着宗教と聞いている。今じゃ異端になっていてその話をするものは目の前にいる男みたいな奇人や変人くらいだ。
アルバクはさらに早歩きをしたがなおも男は後ろからついてくる。妻の病気のこともあり、カッとなったアルバクは「俺は忙しいんだ!お前に付き合ってる暇は無い!」と叫んだ。
すると男は勢いを弱め、しかし語りかけるようにして「いやぁ・・お前の役に、少なくとも教会の説教よりは役にたつかと思って言ってみたんだがなぁ」と言う。
アルバクは返す「第一そんな話が本当なら教会なんて今頃ないし、今まで同じ病で死んでいった人達の家族だってお願いして死の病から救えただろう。ところが実際はどうだ、ひとり残らず死者の国へ旅立ってるじゃないか」
男は言う「わかったわかった。まぁ…もし精霊様に会いたければこの石を森の奥の泉の湧き出るところに投げるんだ、いいか、精霊様は曲がったことが嫌いだからちゃんとやるんだぞ」と、半ば無理やり男はアルバクのポケットの石ころを入れた。アルバクはあとで石を捨ててしまおうと思ったが仕事と妻リディアへの想いから忘れてしまった。
それから20日ほどは出歩けていたリディアだったが10日前に急にリディアは弱り始めた。妻の姿は土気色の肌の色になり頬骨が見えるほどげっそりと痩せていった。それでもどこか気品を失わない悲しいほどの美しさがあった。
どんなときも「おかえりなさい」と「いってきます」のひと事を言うことを欠かさなかったリディア。弱り死にそうになってもリディアは弱々しい声で「おか・・・え・・・りなさい」といい、立ち上がろうとしてガクッとベッドに倒れ込んだりした。日に日に弱っていくリディア。そのスピードはだんだん早くなり、仕舞には家を1時間空けただけで出かける前よりも弱っているのが目に見えて分かるようになっていた。
リディアの肌がどんどん土気色になっていくにつれて、胸に光る白金のネックレスが浮き出るように目立つようになった。リディアが身につけていたもので一番高価だったのは、いや唯一高価と言えたものはアルバクが新婚当初に贈ったこのネックレスでこれそれを見るとたまらなく自分が情けない男に思えてしょうがなかった。
妻には贅沢のひとつもさせてやれなかったな、と。
リディアが起き上がれなくなってからは毎晩徹夜で寄り添い、辛そうにしていたら語りかけ、できる限り自分の持てる知識の限りの薬草を煎じて飲ませた。
さらに日が経つにつれて弱っていく妻。滝に流れ落ちた水を上流に戻せないのは至極当然。分かっているが彼は流れに逆らうよう抵抗を続けた。無駄な抵抗だった。
そして今日、貯めておいた薬草が尽きた。リディアに寄り添っていたい気持ちが強かったが薬草が無ければ生活の糧もなくなり延命治療もできなくなる。森へ行くしかなかった。一度森へ出たら薬草を採り終えるまで5時間以上はかかる。たった5時間だがリディアはもう今にも死んでしまいそうだ。しかし、行くしかない。
仕方なくアルバクはリディアに「本当は離れたくないが薬草が無いにはしょうがない。すぐ行って帰ってくる」と言い家を出ることにした。妻は寝ているか起きているか分からない状態にまで弱っていたので、返事を待たず出ようとすると弱々しくもはっきりと「…いってらっしゃい」と聞こえた。
こんな状態でも「いってらっしゃい」と言ってくれるんだな。特別な言葉じゃないが、それが特別なことなのだと改めて知った。気がつくのに遅すぎた。
思いたくもないがこれが最後の会話になるかもしれない。リディアの様子からふとそう思ったアルバクは居てもたってもいられず妻のところに駆け寄ろうとした。部屋に戻りリディアの弱った姿を見ると言葉が出なかった。
なんでも言い合えた仲なのに、こういう時に言葉が出ない。最後の会話になるかもしれないのに、言葉が出ない。
「リディア」と妻に呼びかける。妻リディアは小さく頷く。その次の言葉がもう、見つからなかった。
「行ってくる」リディアはまた小さく頷く。なんて馬鹿なんだろうか、俺はさっきも行ってくると言ったばかりじゃないか。
妻の病を知ってから、何かと手伝ってくれる隣のおばさん達に事情を説明して妻の看護を一時的に頼むことにした。おばさん達もアルバクの患者だったことがあるから快く了承した。
「本当は代わりに薬草採りに行きたいじゃが、さすがに薬草のことは分からないから採りには行けないけないじゃ」と言うと隣で
「その代わり、アルさまの奥さんは万事私達にまかせな」と、まるで一心同体と思えるほど息の合った返事をするおばさん達。
彼女らの手際はよく、さっそくリディアのいる部屋へ行き、手厚い看護を始めるのが窓越しに見えた。それを見て安心したアルバクは大声でお礼を重ねて言い、森へと駆け足で飛び出した。
森へ行き、少しでも病が楽になる薬を作るための薬草を頭の中で思い浮かべ、生えやすいところを探す。
薬草を採るルートは頭の中に入っていた。いや慣れすぎたおかげで本当に何も考えずとも正確に薬草を採ることができるだろう。
皮肉にも作業に頭をあまり使わなくて済むせいでリディアのことを考えてしまう。森の奥へ行けばいくほど気が重くなって、足取りも重くなっていく。
早く帰らねばならぬのは分かっているのにどんどん脚が言うことを聞かなくなっていく。脚が頭に反乱を起こしたかのごとく、
枝のつまずきフラフラとする。
目も言うことを聞かないのか、目が霞んでいく。
それが涙のせいだということももはや考えられなくなっていた。だんだんリディアへの想いが強くなる。
少しするとついに頭は完全にリディアのことしか考えなくなっていた。流行病などではなく、人に害を与えず自分だけが死ぬ病。
人に迷惑を最後までかけない。まるで妻らしい最期じゃないか――
「くそっ」ふいにアルバクは目の前の木に八つ当たりする。
「俺は医者なのにそんな女ひとりの命すら救えないのか」
そう思うと二重の意味で自分を恨むのだった。医者と名乗りながら人を救えないこと、夫のくせに妻のそばに居てもあげられないこと。
しかし薬草採りをしなければ生活もできないし何より妻の治療も続けられなくなる。「治療・・・か」そう思うと自分への憎しみのあまり笑いすら出てくる。
結局死んでしまう妻を延命させるための治療。生きて欲しい。でも先にあるのは絶望だけではないのか。
アルバクはまた根に足を取られそして転げ落ちる。悔しさのあまりバランスを取ろうという気にもならなかった。
「どうにでもなれと」森の斜面を崩れ落ち、木にあたり、やがて止まった。後から痛みが思い出したように現れ、彼は「ううっ」と呻いた。
彼は起き上がる気もなく、仰向けで木から顔を覗かせる僅かな空を見た。よく晴れた日だった。
ざわざわと風に釣られて葉が音を立てると種類の分からない鳥や動物の音、匂いがあたりを漂った。
急に森が歌いだしたようだった。アルバクは絶望のあまり周りの音も聞こえていなかったのだ。
土の匂いが鼻を掠め、小動物があたりを駆け巡る。まるで自分が森と一体化したような気分だった。
一気に疲れが出てきた。森が身体に白状しろと訴え掛けるように爽やかな風が駆け抜ける。身心はそれに応え「疲れた」と言い合っているようだ。身体が重い。いや、でも、行かねば。
疲れた身体と心にムチうち、頭は最後の抵抗をする。森の奥へ進み薬草を集める。手馴れたこの仕事は考えずともできる。
リディアとの思い出を頭から離そうとすると、別の思い出が自分の頭を支配し始めて苦しめる。やがて様々な思い出が頭を駆け巡り始め、自分がこの村に来てからのことも思い出したりした。
医者として活動するうち、どうしても治せない病に直面することもよくあった。
始めのうちは人の死を悲しんだ。小さな村だったから大抵は顔見知りだったし、もともとはただの薬剤師として生きていたから人の死は怖かったし、悲しかった。しかも自分が手を出して死んでしまった患者だからなおさらだ。
そうこうと村に来て1年くらい経ったとき、村に流行病が到来した。外国から来た病で、感染りにくかったが感染ったら高確率で死ぬ病だった。
あまりの忙しさに患者の死が身近になり、やがて患者が死ぬ恐怖というものが自分から離れていった。
それからは患者が死んでも表面上は悲しんでも仕事の一部として割り切れるようになっていた。いや、そのはずだった。妻が苦しむ姿を見て、死ぬとわかったら気が気でなくなった。同じ人間なのにこうも違うとは…。
リディアの病が判明した時からアルバクは持てる限りの知識で妻を支えた。最初は妻に病のことを告げなかったのにどうしてか妻は感づいた。
「私、死ぬんでしょ」そう告げられた。アルバクはまるで自分が死の宣告を受けたような衝撃が走ったことを鮮明に覚えている。
今から10日ほど前までリディアは普通に出歩けた。 徐々に肌に黒い点々が出はじめていたから死の病だということは確実だったが、当時は一見健康に見えた。ただときどき苦しそうな素振りを見せた。
もっとも、苦しそうに見せまいとリディアは努力していて、それが余計にアルバクの心を痛めた。
「仕事は休めよ、絶対に」と、当然のことをアルバクは言う。
リディアは「歩けるんだから当然私の仕事は私がやるわ」と当然じゃないことを言った。
「この”普通の生活”が近いうちに特別になっちゃうから…」というリディアの呟きはアルバクに聞こえなかった。
リディアはベッドから出てこられなくなる最後の瞬間まで―突然井戸の前でかがんだと思ったら倒れたその時まで―薬草を配達する仕事を続けた。
そんな妻リディアはもうすぐ死ぬ。延命が正しいのか分からない。でも妻とできる限り長い時間を過ごしたい。例え数分でも。これは自分勝手なことなんだろう。きっとそうだろうけどどうしようも無かった。
考え事に支配されてしまった頭はもう危険を回避できなくなっていた。ふいに枝に頭をぶつけ、ムチのようにひっぱたかれる。ふと気がついた時にはもう遅く、アルバクはまたよろめき倒れた。集めた薬草類や採集用の道具があたりに散らばる。急いでアルバクは薬草類を拾い集めていると見慣れない石があった。
そういえばいつだったか怪しい男にもらった石だ。すっかり忘れていた。
見てみるとなんてことないただの石で、そこらへんに落ちていても誰も気にしないだろう。真ん中に青い模様のような切れ込みがあるがただのヒビのようにも見える。
アルバクは何も考えず石を遠くへ投げた。すると「ポチャン」と水の音がしたと思うと急に水が光りだし、そこが泉であったことが分かった。いつの間にか森の奥の泉へと脚を伸ばしていたのだった。
確かに泉周辺に群生する水性植物も必要だったから泉へ行くのは当然だったのだが、まさか何も考えずにここまで来ているとは思わなかった。みるみる泉が光りだし、やがて人影が現れた。
人影は黒のローブを纏ったやせ細った男の姿で、顔は泉の光で目の部分が暗くなり見えず、口元のみ見える。泉の上に浮いて切れかかったローブをなびかせている。手には大きな三日月型の鎌を持ち、精霊というイメージからはかけ離れていた。
アルバクは「…精霊?」と、精霊への問とも自問とも取れる曖昧な言葉を吐いた。
黒のローブの精霊は答えた「確かにワシは精霊とも呼ばれているが自身をマモノと呼んでいる。願いを叶えに来たのか」
アルバクは戸惑いつつも「そうだ」と、まるで役者がセリフを言うかのごとく答えた。
「ワシが叶えられる願いは今世紀2つだけ。ひとつの石でひとつの願い。石は2つ。お前の石が最後だ」
マモノは続ける「長らく石は封印されていた。教会が現れてから神殿は破られ石は行方不明になっていた。
お前がなぜ手に入れられたかは分からないが、石を持つ者の願いを叶えるのがワシの役目。何も問わぬ。さぁ願いを言うがよい、夢を叶えてやろう」
信心深いとは言えない現実主義者のアルバクも、さすがに目の前の不思議な光景を目にして精霊のいやマモノの存在を信じた。妻を救う手がこれしかないから例え夢でも信じたかった。
アルバクは言う「妻を、リディアを救いたい」
するとマモノは口元を捻じ曲げいかにも「困った」と言いたげに沈黙した。そして1分が経過したと思うころ、おもむろに口を開いた「一応聞いておくが、お前は自分の命が惜しくないのか」
「えっ?なんだそれは」
「お前は伝承を完全に理解していないようだな。願った者はその命を対価として払うことになっている。そして死んだ者を生き返らすことだけはでない。ひとつの願いに対してひとりが対象だ。国を滅ぼせとか二人を幸せにしろとかは無理なのだ。世界を安定させるため契約で決まってるのでな」
アルバクは果たして願いを叶えるのか。マモノは静かに見守った。
後編へ続く