御苦楽
知らなかったんですよ、と男は言った。彼が家族と幸せそうに暮らしてたなんて、知らなかったんですよ、と。酌量を願うように、言った。眼鏡をかけた青年は男の言い分を黙って聞いていたがやがて、ゆらりと立ち上がったかと思うと長身痩躯の上体を屈めて男に手を伸ばす。光を背に受けて立つ青年は、土気色をした生気のない顔で、まじまじと男を見つめた。次いで「握手をしましょう」ぽつりとそう漏らした。男はそれで許されると信じきった様子で、慌てて青年に手を伸ばす。陰の中で冷や汗をかいていた男は、ぬめる掌で、青年の乾いた硬い掌と握手をかわした。
「知らないことはいいことです」
青年は握手を解きながら、うつむき加減に言った。「そうでしょうか」男は知らず反論するような言葉を口にしてしまい、はっとした様子で右手を握りしめた。青年は特に気にした様子もなく、「知っていてゴミを拾わない人は非難されますが、知らなかったら仕方ないで済みます」と続けた。ひょっとして自分の言葉は聞こえていなかったのだろうか、叶うのならばそうであるといい、と男は願った。
青年は男の正面にあったドラム缶に再び腰かけることはせず、男の座っている埃っぽいベンチへ腰を下ろした。上を見て、さっきまで彼が浴びていた、トタン屋根の割れ目から注ぐ光に向けてしばしばと瞬きを繰り返し、よろしいですかと小声で許しを請い、男の横でゴールデンバットをくわえた。男は唇の端を歪めるようにして、ええ、と答えて、ポケットをまさぐり百円のライターを探す。青年は左手でその動きを制すると、自らの着ていたインバネスの内ポケットから紙マッチを取り出し、器用に右手だけで火を点けると煙草の先端に火種を灯した。青みがかった煙が一筋、二筋、青年の口の端から漏れた。トタン屋根の向こうから下りてくる光が、煙とちりと埃を躍らせていた。
「あなたも吸いますか」
「いえ、私はけっこうです」
男が断ると、青年は取り出しかけた二本目を、少し寂しそうにポケットに戻した。
「僕は煙草を吸っている時が、人生で二番目に幸せな時なんですよ」
幸せ、という言葉により動悸が激しさを増す。固まった男の様子に気づいているのかいないのか、青年は男の横顔をちらちらと盗み見ながら、さも美味そうに煙を呼吸した。
「一番は」間が空かないように、男は青年が二度目の呼吸を終える前に、声をかけた。
「はい、なんでしょう」
「一番幸せなのは、どういう時なんですか」
「ううん。お酒を飲みながら煙草を吸っている時ですね」
「煙草が、お好きなんですね」
「幸せであるために必要なことは少ないんですよ。少ない方がいいんですよ。たくさんあると濁ってしまいます。二つ三つを大事に、ゆっくり楽しめばいい。あなたはどうですか」
切り返されて、男はまたも固まった。答えられるような言葉が自分の身の内に無いのかもしれない、と恐ろしい気持ちになって、足下を見た。割れた石畳の隙間に転がるがれきが、男に踏まれて音も無く砕けていた。男は顔を上げる。
「やりたいことならあります」
「それをしていれば幸せですか」
「いや、それでなおかつ、やりたくないことをやらなくてよいのであれば、それが幸せです」
「でしょうね。して、やりたいこととは?」
「心配せずに、ゆっくりと眠りにつきたいです」
青年は快活な笑みをたたえて男の目を見た。片手はところどころべっこう色になった眼鏡のフレームを持ち上げ、ヤニがこびりついている手の指先で煙草をつまみ、吹かした煙を輪にして吐いた。
「謙虚な願いですね」
「いえ、他に思いつかないだけなのです」
「ではそれは願いがないというより、危険に身を晒したくないだけなのでは」
言われてみると、そんな気もした。もうこれ以上危険のただ中に自分の身を置きたくなくて、男はそのような願いを口にしたように思われた。元より、男にはさして強く心に抱く思いや願いはなかった。消極的な考えの中で形にできそうだった言葉が、ただそれだったのである。男がどう返したものかと弱り果てて口をぱくりぱくりと開閉させていると、青年はただ笑みのみを強めた。
「可能性を追い続けることこそ危険の中へ身を晒すことと同じです。だからあなたは今の道を選んだのではないでしょうか」
今の道という言葉に鉄のようにひやりとした鋭い空気を嗅ぎ取って、男は顔をうつむかせ、手足を縮めて、己のシルエットを小さくした。足下に落ちる影の形から、青年が自分の後頭部を見つめている事実を知った。怖々と見上げれば、変わらぬ青年の笑みが男の猜疑心や恐怖心を少しずつ、溶かした。可能性は道ですよ、と青年が捕捉する。
「可能性、ですか」
「できるかもしれないと追い続けて実現できなかった時に、人は途方もなく追い詰められます」
吸わない間に燃え広がって、先端に残った煙草の灰を落として、青年は「時間を無駄にしてしまうかもしれない」と付け足した。
「だから、知らない方がいいと」
「そうです。知らなければそもそもできるかもしれないとも思わないでしょう」
そこか、と男は自分の考えと青年の考えとの間にある齟齬に感じ入った。けれどわざわざ指摘して掘り下げたい話題とも思えなかったため、下唇を噛んで手を組んだ。生ぬるい風が灰を粉にして、二人の腰かける廃屋の外へと吹き流れていく。この風はどこから吹き入って、どこへ向かうのか。男はそんなことを考えて、すぐに詮無きことだと断じた。青年はいつの間にか立ちあがっており、吸い口がわずかに残る程度に、深く一吸いを終えた。
「数えきれない道があっても選ぶ時間は限られています。だというのに誰もが時間の残り少ないことを知らずにいるんですよ。あなたはそれを知っていたと、それだけですよ」
「時間が残り少ないということを、知らなかったら。それは、幸せでしょうか」
「ええ、気付かないのはある意味でとても幸せです」
離れた男の鼻腔へ香る程度に、煙が撒かれる。地に落ちた吸いがらが骸のように踏みにじられ、火を消される。男はかぶりを振って、青年の言葉尻に己の声をかぶせる。
「けれどそれは一部だけを切り取って話しているのであって、全体を見渡したなら、やはり、幸せでない部分の方が多いのではないでしょうか」
「しかし終わりよければともいいますよね」
「ならば時間が残り少ないと知ってしまう前に、すべて終わってしまえば、と。そういうのですか」
「あなたはそう思ったからこそ、極めて苦しみの少ない方法で彼を殺害したのではないのですか」
ちがうのですか、と首をかしげて繰り返し問う青年に、男は返す言葉をもたない。己を抱きしめるように腕を身体に這い回し、またも小さくなって青年の視線に耐える。けれど青年は男が目を背けることを許さず、ゆっくりと屈みこんで膝をつき、じ、と眼鏡の奥から視線を投げかける。男は平静を装って腕を身体から離し、左手で一度口元を押さえてから、五指を広げて膝の上に置いた。膝から下はベンチの下へと隠れ、丸めた腰はそれでもかたくなに背もたれから離れない。
「あなたは生きたまま相手を嬲ることもできたというのに、実際は彼が死して後に暴行を加えていた。お世辞にも無垢とは言えないあなたがそのような行動を採ったのは、知らずにいられることを手向けとした、せめてもの思いやりではなかったのですか」
男は答えず、語らない。唇を舌で湿らせようとも試みたが、まるで舌がなくなってしまったかのように、口の中からはなにも出て来ない。息するだけで精一杯で、乾いた口腔には白く濁った泡しか残っていない。
「ただ、僕は思うのです。知ることすらできないことと、知ることができるが自らの意志で知ろうとしないことは、大きくちがうのではないかと」
淡々と続ける青年の言葉に、男は飛びかかってしまいそうな自分を制することを強いられた。すべてを暴きだされるようなことだけは避けたいと、青年に目を向ける。男の表情を見て笑みを引っ込めた青年は、くるりと背を向けて一歩踏み出す。がれきの隙間から顔を出していたなにかの茎が、音も無く折れた。「そろそろお酒が飲みたいですね」などと青年はのたまい、男は答えなかった。
「お酒を飲んだことはありますか」背を向けたまま青年が言う。これには、「それなりに」と一応答えた。何もしゃべらないままでは、相手に悪い印象を与えると思ったからだ。
「僕は飲まない日の方が少ないですね。酔いにくいもので翌日に持ち越すこともないんです」
「だから、どうしたというんです」
「毎日のようにお酒をあおっても、平気でいられるということですよ」
振り向く青年の顔には、喜色だけが映えた。発言こそ男の心中に影を落とすものであるのに、表情だけはこうも和やかであるため、青年と顔を合わせていると洗いざらい話してしまいそうだった。
やがて、光が消えていく。トタン屋根の隙間から注いでいた陽の光が、雲に遮られて薄くなる。すぐにまた光は射して、男は目を覆ったが、青年の横顔はむしろ空を仰ぎ見ることに集中していた。
「言ったでしょう、酒と煙草があると幸せだと。白状しますと僕は十八の頃から飲酒と喫煙に手を出しておりまして、以来今日まで欠かしたことがないのです。ゆえに幸せがありましたし、記憶を掘り返せば最初に思いだすのはそのことです。無論丁寧に思い返せば気に入らないことも多々ありましたが、おおむね良好な日々だったといえます」
嬉しそうに笑う横顔からは、何事か企みの臭いが感じられた。警戒して、顔を見ないように男が距離をとろうと膝に力を入れれば、移動を咎めるかのように青年の視線がこちらを捉える。
「気付かないようにしてしまえば、穏やかで幸せな日々はどこにでもあるのですよ。気付くことを定着させてしまうのが、知るということなのですから。知らずいるためには気づかないことです。そしてもっと、感覚的に生きるよう心がけてしまうことです」
「それで幸せになれるというんですか」
「頭で動くより身体で感じてしまう方が早いと思いますよ」
会話がかみ合っていない。抽象的なことばかり口にして、青年は男を惑わそうとしているのではないかと、そんな気さえしてきた。青年は続ける。耳を貸さない方がいいと、そう男は思いつつも、青年の語り口調は耳になめらかに流れて入りこむ。
「人には三つの大きな欲求があるといいます。食欲に睡眠欲に性欲です。けれど僕は、もうひとつ根幹に欲求があると思うのです。それは前に挙げた三つのように刹那的で短く満たされるものではなく、長きにわたって人に快楽をもたらすもの。所有欲です」
語の意味が男の頭に沁み渡るのを待つかのように、言葉を切った青年はこちらの様子を観察する。もはや、楽しそうに反応を眺めて新たな反応を引き出すべく話す、という青年の応じ方に慣れてきた男は、黙って頭を垂れ、うなずきの意を示した。青年の目がらんらんと輝いていた。
「趣味のものから貯蓄、あるいは形の無いものとして、人づきあいや記憶など。人はあらゆるものに手を伸ばし、持たざることに耐えられません。持つことが至上の喜びなのです。食べること寝ること眠ることを邪魔されて殺人を犯す人はそういませんが、自分の所有物をとられて誰かを殺した人は多いでしょう。金銭を介した問題などはまさにその一例です。だから、感覚的に生きるために、所有欲は捨ててしまうとよいでしょう。持ち続けることをやめるわけです」
それから青年は、消費し続けることの気楽さ、持ち続けることで表れる様々な弊害について、長くもなく、短くもない時間、喋り続けた。
「人は本来理性的になど生きていないのですよ。知るから、知ろうとするから理性で律して生きることになる。なにもかも理性から引き剥がして考えればよいのです。知ろうとはせず感じるだけでよいのです。僕は、自らの意志で酒と煙草を嗜むのです」
「じゃあ、私も気付かないように、知らないふりをして生きればよいというのですか」
「主体的にそうあろうとしてはいけません。あくまでも自然に、知ることがないように。たとえばあなたが加原氏を殺害してしまったことは、もう知ってしまっているのだから、忘れたよ知らないよといおうとするのは、とても不実で理性的にすぎる行いです」
「責めないでください、私は知らなかった。知らないことを言い訳にするつもりはありませんが、それにしたって、あの男がそのように普通の幸福の只中にいるだなんて、誰が気付けるんです」
「それは致し方ないことです。幸福は、麻薬なのですから。頭がそれに痺れている間は存在に気付けず、醒めてきた頃ようやく意識が感覚に追い付くものなのです。僕にとっての煙草と同じで、幸福であったと気付いた瞬間をして、人はそれを不幸と呼ぶのです。そこから先はもはや、幸せであった、という過去のものとしてしか接することはできず、そこで終わってしまっているのですから」
「たしかにいま私は不幸です。しかし、幸せであったとはとてもとても、思えませんよ」
「殺した瞬間の愉悦や、胸のしこりがとれたような開放感はなかったのですか」
責めるではなく、言い間違いを正すように、たしなめる語調で青年は男に幸福を説いた。いわれて、男は自分の行いを思い起こす。足を組み直そうとすると、がれきの一部が割れて、砕けた。
相手の事情もなにも鑑みることなく、ただゆっくり安穏と暮らしたいという願望のために、男は手にした鈍器で彼の者を撲殺した。叩いた瞬間、椰子の実を割るに似た感覚を覚えさせる加原の頭はぱっくりと傷口が裂けて、熟れた柘榴の弾けるがごとく、粘っこい血と脳漿を吹き散らしてぐったりとうなだれた。膿みたいな悪臭に満ちた部屋の中で男は後悔し、やらなくて済むのならやりたくはなかったと弁明した。
けれど胸にこみ上げる、叫び出したいような激情もたしかにそこにあった。いまこうして胸を押さえているだけでも思い返せる、今日この青年と逢うことになってしまってからも幾度となく記憶の中に繰り返した、鮮烈な感覚と感情が共に呼び起こされる記憶である。
何度も反復して味わいつくしたそれを、男は罪悪感というものだと思い込んでいたのだが。青年は明確に、ちがいます、と男に人差し指を突きつけた。鼻先に差し出された指から煙の香りがする。
「知らないふりをするのはやめなさい。自分の感覚に不実でいてどうします。気付いてしまったのなら相応の対処をすればいいのです。これからは幸福であることに気付かずいればいい。小さな幸せを消費し続けるわけです。所有することはせいぜい、その記憶だけに留めなさい」
それでも男には苦悩が残る。苦悩まで含めて男にとって味わうべき記憶なのだろうが、思い返せば思い返すほど、苦しくなるほどに締めあげられるのでは、たまったものではなかった。「苦しくなることと愉悦に浸ること、双方で表裏一体ということですか」悲鳴のように男の声がこだました。
「状態を比較しなければ幸福など感じ得ません」
冷徹にそう述べて、青年は足音高く、廃屋をあとにしていった。なるほど、これならばなにも知らず死んだ加原は幸福だったのかもしれないな、といまさらながらに男は思った。