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傲慢王子が笑うとき

それでもあの日、守りたかったもの

作者: 田仲絵筆
掲載日:2026/05/24


 王宮の中でもひときわ美しい、賓客を招くための部屋。設られたセンターテーブルに、まだ10歳にも満たない美しい王子と令嬢が座っている。実に微笑ましい光景だ。

 令嬢はきっと、作法を覚えたてなのだろう。顔には貴族らしい控えめな笑みをのせながらも、意識はカップを持つ角度に集中しているのがわかる。


「……その気持ちの悪い笑い方で淑女気取りか?」

 ぼそりと呟かれた王子の言葉だったが、カップに集中している令嬢は聞き間違いかと思ったようだ。

 聞き直すのは失礼だから、少しだけ小首を傾げて王子を見る。

 この子はちゃんとマナーが頭に入っている。部屋の片隅で控えていたキアラは感心した。

 王子の方は不機嫌そうな顔を隠さずにしていて、それでも令嬢は笑みを絶やそうとはしない。


 だが目の前の王子は令嬢の懸命の努力に、露骨に顔を歪めてみせた。

「本心を見せないことが美徳だと思うなら、せめて貼り付ける表情は不快感を与えないものにしてほしいものだ」

 そう言って立ち上がり、「不愉快だ」と言い残してさっさと去ってゆく。

 

 もはや残された幼い令嬢は笑みを浮かべていない。泣き出すこともできずに、ひたすら茫然としている。

 キアラは頭を抱えたくなる衝動を抑えて固まっている令嬢の元に近づき、目線を合わせるために跪いた。何を置いてもまずはこの少女の自尊心を守らなくては。

「失礼しました。ディアミド殿下はどうやら機嫌が良くないようです」

 それはいつものことだが、特に言うことでもないだろう。


「わたくしが、失礼をしてしまったから。か、顔も、気持ち悪いって」

「まさか。フィオナ様には何の落ち度もありませんでしたよ。笑顔も美しくていらっしゃいます。殿下に代わってお礼を申し上げます。新しいお茶をお淹れしましょうか。それとも、お菓子を召し上がりますか」

 少女はふるふると首を振った。「……帰りたい」


 キアラは軽く頷いて立ち上がり、少女の手を引いた。自分とふたりきりだとこの子も気詰まりなだけだろう。

 感情があまり現れないキアラの表情は冷たいと評されがちだ。しかし、この王宮に勤めているには重要な性質だと思っている。


 別室で控えていた侍女のところまで連れて行く。知った顔を見て安心したのか、少女は侍女に抱きつくと、火がついたように泣き出した。

 戸惑っている侍女にざっとあらましを説明する。話すごとに侍女の目は剣呑なものになっていった。

 責めるような目で見られながらも、キアラはどこか安心していた。彼女にはああして庇ってくれる者がいる。屋敷に戻れば、今日のことなど忘れるだろう。


 圧倒的にこちらが悪いのはわかっているが、形式的な詫びの言葉と軽い会釈に留めた。これ以上の過剰な謝罪は王家の威信を失墜させる。そもそも、この事態を引き起こしている人物は王家の中枢にいるのだ。


 沈着冷静な侍従だと評されることの多いキアラをもってしても、幼い令嬢の涙は見るたびに心が抉られてゆく。


(こんなこと、いつまで続ける気なのか)


 苦々しい気分で歩いていると、声をかけられた。

「また泣かせちゃったんだ」

 扉のところに人影があった。宰相補佐のグレン・マクグラスだった。

 令嬢の泣き声を聞いたか、姿を見たのだろう。


「またというより、あの人を人とも思わない態度、日ごとに酷くなっていく気がします。あの綺麗な顔を一度思い切りぶん殴ってやったらすっきりするかしら」

 真面目な顔で吐かれた愚痴とも冗談ともつかない言葉に、グレンは「怖いなあ」と笑うだけだった。

 実際にそれを実行するのはキアラが王宮を去る日でもあるだろう。そもそもキアラはディアミドと私的な会話を一切しないように厳命されている。


 彼は王室付侍従のキアラとは既知の仲である。だから比較的腹を割った話もできる。


「そうは言っても、向こうから持ちかけてくる縁談だからねえ。とりあえず第二王子だし、見た目だけはとんでもなく良いし。とりあえず話がくれば断らないというのが現王室の方針だし」

 それでも、流石に社交界にはディアミドの悪評はじわじわと拡がりつつある。

「王室はどうかしている。ディアミド様の評判を貶めるためだけに、年端も行かない令嬢を傷つけている」


 それからぽつりとキアラがこぼす。

「……憐れだと、思います」

 グレンは誰のことかは訊かない。お互いの考えていることは大体わかっている。


「ねえ、グレン」

 キアラは問いかけるように、グレンの家名ではなく名を呼んだ。王宮内では珍しい。


「私達の選択は、正しかったのでしょうか」




***

 王都にある王立学園は高貴な者しか入れないことで知られていた。入学にあたっては、学園の生徒に相応しいかどうか、血統と本人の資質を厳格に審査される。

 当然生徒は皆そこに所属していることを誇りに思っている。だからこそ異端者を排除しようとする動きは強い。


 学園において、キアラは編入した時から異端だった。彼女の出自が庶民であることを学園で知らない者はいない。それだけではない。彼女の姉アイリーンは王室の敵だ。正妃でもないくせに、国王の子供を産んだのだから。


「庶民の上に売女の姉を持つ人間がこの学園内を我が物顔で歩いているわ。いったいどういう神経なのかしら」

「同じ空気を吸うだけでこちらまで汚れていくようだ」

「あの冷たい顔をごらんになって。恩人であるはずのグレン様にまであの態度なのよ。下賤の血の上に恩知らずだなんて」


 耳に入る囁きだけでこれなのだから、陰ではさぞかし聞くに堪えない悪口が交わされているのだろう。

 キアラは努めて顔を上げて歩いた。感情を読み取られないための無表情も板についている。

 ここでは決して弱みを見せてはいけない。編入して一年と少しの間に、キアラが覚えたことだ。



 雨が降っている訳でもないのに水音がしたと思ったら、次の瞬間にはずぶ濡れになっていた。

(またか)

 キアラは内心でため息をつく。紳士淑女たれという学園のモットーに従って、あまり露骨な攻撃は無いにしても、こまごまとした嫌がらせは枚挙にいとまがなかった。


「おっと。ネズミがいたみたいだ。気づかなかったな」

「あら、人間の皮を被ったドブネズミね。ちょうど良かったわ、これで少しはきれいになるってものでしょう」

 にやにやと笑って複数人の男女が近づいてくる。ひとりは手にバケツを持っていた。


 この人達は本当に貴族なのだろうか、とキアラは内心首を傾げる。下町にいた頃だってこんな低俗な嫌がらせをする者はいなかった。

 それに、キアラに顔を見られることを何とも思っていないようだ。どうせ犯人が知られたところでどうにもできないと思っているのだろうか。


 顔ぶれを見る限り、この学園内においては比較的地位の低い者達だった。さすがに上位貴族はこんなことはしないだろうし、するとしても直接手を下すことはないだろう。


「ほら、そんな汚い格好でうろうろしないで、さっさと着替えにでも何でも帰りなさいよ」

「もしかしたら、着替える服も無いんじゃないのか。貧乏人がこんなところに来るから恥をかくんだ」

 下卑た笑いでそんなことを言うのは、成金で有名な男爵家の次男だ。


「着替えはあります。支援してくださっている方より、学生生活に困らないだけのものは支給されておりますから。万一紛失や破損などで充当が必要になれば、その理由を言った上で申請することが許されております。オドラン様、ガーヴィン様、ドノヴァン様、フィンデル様」

 キアラが正確にその場にいた者達の家名を呼ぶと、彼らが顔色を変えた。まさか庶民の娘が名前を認知しているとは思わなかったのだろうか。


「なによ、マクグラス様の名前を出すつも!? 何て卑怯なのかしら」

「まさか言いつけるつもりじゃないだろうな? 庶民の分際で図々しい」

「お言葉ですが」

 目に見えて狼狽え出す彼らをキアラは遮った。誤解は早目に解いておかなければいけないと思って。

「私の後見人はマクグラス伯爵ですが、この学園に通わせて頂いている支援者はグレインフォード侯爵夫人です。学園内で起きたことを報告するなら、彼女宛てに手紙を書くことになるでしょう」


 この国の貴族なら知らぬ者はいないほどの有名人の名前に、目の前の生徒たちはこれ以上ないほど目を見開き、一拍置いて言い訳を始めた。

「ち、違うんだ、俺はただこいつらに水をかけろって言われただけで、仕方なく」

「はあ!? 何よ、自分だけ言い逃れするつもり? 元はと言えば、あんたが面白がってやろうって言うから」

「水なら過失だって言えば済むし、証拠も残らないって自信満々だったのはお前だろうが! そもそも俺はやめた方がいいと思ってたんだ」

「一番ノリノリだったくせに何言ってんの!?」


 突然始まった罵り合いに、キアラは内心でため息をつく。人に水をかけておいて、その程度の責任すら自分達で負おうとしない身勝手さに失望する。

(失望してばかりだ。この学園に来てから)

 貴族というものはこんなものか。これが国の上位に位置すると言われているものの正体か。


「……もし制服が駄目になっていたら、然るべき方には報告します。故意に汚されたということになれば、そちらにもお知らせがいくでしょうから、ご沙汰をお待ちください」

 この程度のことをいちいち侯爵夫人の耳に入れる気はなかったが、こう言っておけば、露骨な嫌がらせは少しは無くなるだろう。


「待ってよ! 単なるいたずらじゃない!」

「そうだ、第一こいつらと一緒にいるのは脅されてるからで」


 口ぐちにわめく声にそれ以上耳を貸す気になれず踵を返す。幸いかけられたのは汚水ではないようだが、早めに清水で洗わなくては。

 ここの制服はベスト部分以外は目に痛いほど白い。純真と潔白を意味するらしい。染みでも残ってしまったら大変だ。

(これだからお金持ちの人が通う学校は)

 高価な制服の買い替えを願い出るつもりは毛頭なかった。


「キアラ」

 その時、声がかけられた。

「ずぶ濡れじゃないか。大丈夫?」

 現れたのは見るからに育ちの良さそうな男子生徒だった。

 キアラは眉を寄せる。彼は、苦手だ。なるべくなら会いたくない人間だった。特にこんな風に、キアラがトラブルに巻き込まれている時には。


 グレン・マクグラス。

 名門マクグラス伯爵家の嫡男で、努力家というわけではないのに、何でもそこそここなしてしまうような人だ。いつも余裕ぶっている表情が苦手だった。


「グレン様……!」

 こんな時だというのに、後ろでキアラに水をかけた生徒のひとりである女子生徒が高い声をあげた。さっきまでとは別人のようだ。

 あまり自分の立場がわかっていないのだろうか。ずぶ濡れのキアラを見て何が起きたのかわからないほどグレンは鈍い男では無い。


 グレンは後ろの生徒達を見た。

「何かあった?」

 グレンの視線を向けられて、彼らは一様に身を竦ませる。家格がグレンの実家のマクグラス伯爵家に匹敵する者はここにはいない。

 だがキアラの方はいい加減にうんざりしている。もう話は終わっている。早くここから離れたかった。


「何でもないわ。行きましょう」

 そう言って踵を返す。

「何でもないって感じじゃないけどなあ。普通に歩いてたら、そんなびしょ濡れにはならないだろ」

「た、たまたま水を捨てようとしたら、その子が通りがかって……」

 グレンは言い訳をはじめた生徒に構わず歩いていくキアラを見てから、振り返る。


 肩越しの眼光は、言い訳じみた謝罪を黙らせるには充分だったが、すでに背を向けているキアラは気づかない。

「知ってると思うけど、彼女は今うちで面倒を見ている。彼女に何かすることは、マクグラス家にするのと同義だということ、忘れないでほしい」


 アイリーンとキアラの姉妹の一時的な後見人がグレンの父親のマクグラス伯爵であるというのは、学園でも有名な話だ。

 キアラが学園の者達にこれだけ嫌われていながら、あまり露骨な虐めに合わないのはこのためだった。


(たまに、さっきみたいな考え無しの連中もいるけど)

 いつも通り顔を上げてすたすたと歩くキアラの後ろをグレンがのんびりとした歩調で付いてくる。それなのにあっという間に追いつかれてしまった。


「何かされたら言うようにと言ってるのにー」

「別に、あの程度のこと、私ひとりで対処できます」

 元よりグレンには、実家の伯爵家が評判の悪いキアラ達の後見人をしているということで多大な迷惑をかけている。これ以上借りを作りたくない。


「たまには人に頼るのも大事だよ。君は何でもひとりで解決しようとし過ぎる。せっかく俺がいるんだから」

 まるで心を読んだように穏やかに諭すグレンの言葉は、キアラの神経を逆撫でした。


「結構です。私は今まで誰にも頼らずにやってきました。そしてこれからも、そのつもりです」

 思わず刺々しい言葉になってしまったが、直後に後悔する。キアラがこうやって分不相応な学園生活を送っているのも、グレンの父と祖母のおかげだというのに。

 これではまるで、恩恵を当たり前のように享受している他の貴族と変わらない。


「……すみません。実はさっき、あなたのおばあさまの名前を出しました」

 キアラは懺悔をした。先ほど脅すつもりで名前を出したグレインフォード侯爵夫人というのは、彼の祖母に当たる。実際この学園へは彼女のおかげで通えているのだ。

「べつに謝ることじゃない。名前の威光がものをいうということは貴族の誉れだ。おばあさまが聞いたらむしろ喜ぶんじゃないかな。それに才能のある子を見つけては教育を受けさせるのは、彼女の道楽みたいなものだからね」


 そう言ってグレンは笑う。この男は、学園生の中でも変わっていると思う。実家がキアラの後見をしているのに嫌な顔をせず、それどころか頼るようにと言ってくる。散々寄生虫だの泥棒の妹だのと蔑まれているキアラに向かってだ。


 それに、生まれつき恵まれているせいだろうか。彼は特権を使うことも、他者へ慈悲を与えることも躊躇しない。

 キアラはこっそりと苦く笑った。そのせいでこちらがどれだけみじめな気分になるのか、考えもせずに。



 一年半前、姉のアイリーンの妊娠がわかったとき、完全に財産目当てだと決めつける大人達の言葉を、キアラは茫然と聞いていた。

「庶民風情のくせに、こんな分不相応な名乗りをあげるなんて」

「陛下は責任感から認めているが、誰の子かわかったものではない。大方、心当たりが多すぎて言えないのだろう」

「美しい顔とは裏腹に、悪魔のような女だ」


 姉はそんな人間ではない。その美しさをかわれて保養地の邸宅で働いていたところ、身分を明かさずに訪れた国王と恋仲になったのだ。

 大人の男女が出会い子を成したのだから、どちらかが一方的に悪いという話ではないはずだ。いや、身分を偽っていたのなら、責任は国王側にある。


 それなのに身分が無いというだけで、何故姉だけがここまで言われないといけないのか。

 無力感に苛まれるキアラの前に、ひとりの老女が立った。それはまるで救いを体現したような神々しさだった。


「身重の女性は、この世で最も大切にされなくてはならない人間のひとりです。それを、大の大人達が寄ってたかってがたがたと。今はただ、彼女が健やかに子を産む環境を整えるのが、身分あるものの努めでしょう。父親が誰だとかは、無事に子供が産まれてきてから話せばよろしい」


 グレンの祖母に当たるというその女性、モリーン・グレインフォード侯爵夫人は、すでに還暦を超えているが、この国でもたいそうな発言力を持っている人らしかった。特に女性に対するそれは、王室をも凌ぐらしい。


 国王の正妃であるイーファ王妃を恐れて誰もアイリーンとキアラの後見人にはなりたがらなかったところ、ほとんど鶴のひと声で決まったのだ。


「せめて赤子が産まれて乳離れするまでは、あなたの家で庇護なさい」

 その場にいた息子のひとりにそう言って後見を申しつけた。それがグレンの父であるマクグラス伯爵だった。


 それから彼女は、ほとんど茫然となりゆきを見守っていたキアラを見た。

「あなたはどうしたいの? 難儀な家族を持ってしまったことによって面倒ごとに巻き込まれるかもしれないわね。これを機に独立して生きて行きたいならそうしなさい。働くために援助が必要ならします」

「難儀なんかじゃありません。お姉様も産まれてくる子も、私の大切な家族です。なるべく離れないで、ふたりの助けになるつもりです」

 傲慢な物言いにむっとしながら答えたキアラに、夫人は特に感慨もなさそうに頷く。


「ではあなたは学校へお行きなさい」

「学校に、通えるんですか!?」

 キアラは驚いて聞き返す。市井にいた頃はかろうじて初等学校に通っていたけれど、基本的なことしか習っていない。

 両親が亡くなってからは、姉と同じ保養地の邸宅に一緒に住み込みで働いていた。

 十代前半の子供ができることといえばもっぱら下働きの仕事で、自分はこのままここで働き続けるのだろうと漠然と思っていた。でも本当は、もっと学びたかったのだ。


 夫人は当然です、と頷く。

「王族の血を引く者の身内として生きることを選ぶのなら、最低限の知識と教養は必要です。手続きはこちらで済ませておくので勉学に励むように。しばらくは家庭教師に基礎的な習熟度を確認してもらうことになるでしょう」


 そう言って、あっという間に話は進んだ。

(まさか、この学園に入れられるなんて、思ってもみなかったけど)


 キアラの基礎学力は初等学校卒業程度のそれだったが、覚えは悪くない。半年ほどみっちり勉強すれば、貴族が多く在籍する王立学園で学ぶのに問題はないという家庭教師の見立てだった。


 外国語や教養科目はほぼ一からなので下級生と学ぶことになるが、この学園の存在意義は勉学よりも貴族としての本分を身に付けることにある。

 それならば最高峰の場で学ぶべきだというのが侯爵夫人の言い分だった。たまたま同学年に後見を申し付けたマクグラス伯爵の息子のグレンがいたことも作用したらしい。


 そしてキアラは異例づくめの編入生として、一年前にこの学園に来ることになったのだ。卒業までの援助は侯爵夫人がするという約束付きで。


「おばあさまーーレディ・モリーンの言葉に逆らえる者なんてこの国にはいないからねえ」

 グレンがしみじみと呟く。身内だけあって、いろいろと見知っていそうな口調だった。

 



「まあ、ちょっと会わない間に美男子になったわね」

 ディアミドの小さな手を包んでキアラが微笑む。からかい混じりの言葉の半分は本心だった。


 キアラとグレンは、マクグラス伯爵家が用意してくれた、姉のアイリーンとその息子ディアミドのためのテラスハウスを訪れていた。

 王都の中でも、比較的高級な住宅街の一角にあり、治安の心配もない。


「何か不便はありませんか。ディアミド殿下が動き回るようになったのなら、ここは少し狭すぎるのでは。郊外になってしまいますが、もう少し広い屋敷を用意することもできますよ」

 後見人の息子として母子の様子を見るという名目でキアラに付いてきたグレンの言葉に、姉妹は驚いて目を見張った。


 この一階の客間部分だけで、かつて家族4人で住んでいた部屋よりもかなり広い。両親が亡くなって移り住んだ住み込みの部屋などは従業員が何人も寝泊まりするだけの場所だったのだから、比較対象ですらない。

 更に二階には寝室と食堂があるのだ。


「不便なんて、とんでもない。これだけ良くしていただいて申し訳ないくらいですわ。それに立派な使用人までつけていただいて」

 アイリーンが恐縮したように首を振る。マクグラス家からは通いの使用人まで派遣されている。

「それなら良かった」とグレンは微笑む。

 

「それにしても、美しい顔立ちにおなりですね。お母様似なのかな」

 ディアミドの顔をしげしげと見るグレンの言葉にキアラも頷く。ディアミドに会ったのはひと月ぶりだが、顔を見るたびに輪郭がはっきりしてきているように思える。

 ぱっちりとした瞳も、くるくる変わる表情も、きーあとキアラを認識して呼ぶようになった声も、すべてが可愛らしい。

 来月には産まれて丸一年になる。すでに見るものを虜にせずにはいられない、愛らしい子どもだった。


「この子はきっと、みんなから愛される子になるわね。でもちょっと頑固かも」

 キアラの言うとおり、ディアミドは少し我が強いところがある子供だった。気に入ったおもちゃでいつまでも遊び、希望が通らないと大泣きする。個性の範囲内ではあると思う。


「癇の強さは王室によく現れる形質だと聞いているよ。御年3歳におなりのパトリック王太子殿下も、使用人が中々苦労しているみたいだ。ある程度意志が強いのは次期施政者として良いことだけど、少し間違うとわがままになってしまうからなあ」


 そう言えば王太子とディアミドは、腹違いの兄弟になるのだ。

 キアラは王室の話題になって、アイリーンが浮かない顔をしていることに気がついた。

「どうしたの? お姉様」

 グレンがいるせいだろうか。少しためらっていたが、やがて決心したように口を開いた。

「実は、王宮から伝達が来ているの……」


 アイリーンの話によると、当初の予定通りマクグラスの後見が外れた後は、王宮が正式にディアミドの後見人になるということらしかった。

 もともと、マクグラス伯爵家の庇護下でいられるのは、ディアミドが乳離れするまでという約束だった。せいぜいあと半年程度だ。


「今更? あれだけ誰の子供かわかったものじゃない、だのなんだの散々言っていたのに」

 キアラは眉をひそめる。

 ディアミドが産まれると、いちおう父親についての疑惑は晴れた。顔立ちと金の髪は母のアイリーン譲りだったが、深く青い眼が父親である国王にそっくりだったからだ。

 だからと言って、王室がディアミドに良い印象を持っているとも思えない。


「その場合、お姉様はどうなるの……?」

 おそるおそる訊くと、アイリーンは下を向いてしまう。

「少なくとも、この子を監護する資格は無くなるらしいわ」

「そんな! 無茶苦茶だわ、母親から子供を奪うなんて」

 思わず大きな声を出したキアラに、グレンが割って入った。

「貴族社会では珍しい話でもないよ。身分の低い母親を子供から遠ざけようとするのはね。ましてや王族なら尚更だ。それに少なくとも、教育に関しては最高峰のものが受けられる」

 諭すようなグレンの言葉にキアラは唇を噛む。この一年貴族というものに失望し続けていたが、それの極めつけだと思う。


 グレンが言っているのは、血統が価値を持つ貴族社会では正論なのだろう。だからといってすんなりと受け入れられるかというと、それは別の話だ。


「いっそ市井に戻って、お姉様とディアミドと私の三人で暮らすというわけにはいかないのかしら」

 口に出すと良い案だと思えてきた。アイリーンもキアラも、王家の名声や財産に興味があるわけではない。何もいらないと言えば、案外あっさりと手放してくれるのではないだろうか。

 ディアミドが大きくなるまでぐらいなら、ふたりのことは自分が守ってみせる。今までだってそうやって生きてきたのだ。


「それはよした方がいい。下手したら殺されるよ」

 間髪入れず、グレンが冷静な声を出した。思いもかけず物騒な言葉に背筋が冷える。

「殺すって、王宮がディアミドをということですか? まさか……。陛下の血を分けた子なのですよ」

「君は、イーファ王妃を知らない。彼女は敵にまわった者には決して容赦しない人だ」

 思わず反論するキアラに、グレンは淡々と続ける。その表情にいつもの緩い笑みは乗っていない。


「今になって王室がディアミド殿下を引き取りたいと言ってきたのは、美談にしたいのもあるだろうけど、一番の目的は王宮の監視下に置くためだろう。反乱や厄介ごとに巻き込まれるのを防ぐために」

「そんな、私達は反乱なんて考えていません!」

 驚くキアラだったが、考えてみれば、王宮に不満を持つ者が担ぎ上げる者として、ディアミドは最適だった。その気づきを見てグレンが頷く。


「いくら君たちにその気はなくとも、利用したがっている人間は山ほどいる。みすみすそんな火種を放っておくぐらいなら、今のうちにひっそりと始末しておいた方が良いかもしれないと、国政に携わる者なら考える」

 キアラは絶望的な気持ちでグレンを見た。では最初から選択肢など無いということだろう。


 姉とディアミドとキアラ、三人でひっそりと暮らしていきたいという望みは呆気なく潰えた。


「そんな顔をしないで、キアラ。私はもう折り合いをつけているの。この子が不自由なく育てて頂いて、きちんとした教育を受けられるのなら、それは決して悪いことではないわ。そうでしょう?」

 ことさら明るい口調のアイリーンが悲しかった。子供を手放さなくてはいけなくなって、一番つらい思いをしている姉に慰めの言葉を言わせてしまうなんて。


 それというのも、自分が無力だからだ。

 キアラは手を握りしめる。力をつけなければ。少しでも、大切なものを守れるように。




 春が終わる頃、正式にディアミドの後見人がマクグラス伯爵から王家に移ることに決定した。それに伴って姉のアイリーンも王室で保護される。ただし、ディアミドとは引き離され、王都の外れにある住宅街に居を移す予定だ。


 ディアミドは城で王子として養育を受けて育つということだ。グレンが言っていた通り、夫の愛人の子を育てるという正妃イーファの寛大さは美談として王都中を駆け巡った。


 キアラは卒業まではこの学園に在籍できることになっていたが、やはりマクグラス伯爵家の庇護からは抜けることになった。

 長すぎたぐらいだと思う。そもそも冷静に考えると、マクグラス家には姉妹の面倒を見る義理など一切なかったのだ。それなのに甘えて、ずるずるとこうして一年半も世話になってしまった。



 キアラは胸の虚無感を必死に見ないふりをしながら、ペンを走らせていた。

 結局、今の自分にできることをやるしかないのだ。

 取りあえず、今は勉強に全振りすることにする。

 あまり興味を持てなかった教養科目も、将来少しでもディアミドの近くに行くためには必要なものだ。



 放課後、いつものように薄暗くなってきたのも構わずに、ひとり教室で書き物をしていると、同級生のブキャナンが入って来た。

 キアラは内心で眉をひそめる。あまり素行が良くない男子生徒だ。グレンとは別の意味で苦手だった。

「相変わらずガリ勉か。最近少し目つきが悪くなってきているぞ」

「ご心配なく」


 手を止めないキアラにブキャナンが近づいて来る。

「マクグラスからの後見はもうすぐ期限が切れるんだろ? そのあとはどうするつもりだ」

「べつに、今までとは何も変わりませんが」

 学園には卒業するまでいることができる。ただ名家の後ろ盾を無くすというだけだ。


「だったら、俺が守ってやろうか」

「何を」

 言ってる意味がわからずに手を止めて訝しい目をするキアラに、ブキャナンがにやりと笑う。

「マクグラスの庇護が外れたら、狙われるぜ、お前。性格は暗いが顔は良いからな。残りの学園生活を怯えながら過ごすなんて嫌だろう。俺の女になれば、他の奴は手出ししてこない」

 そこまで聞いて、やっとブキャナンの意図に気づく。しまった、と思う。学園内だと思ってすっかり油断していた。


 姉のアイリーンと市井で暮らしていた時も、こうやって声をかけられることが無いわけではなかった。そのたびに、何とかやり過ごしてきたのだ。

 ふたり暮らしになった時、姉につきまとう男に家を知られて、ひと晩中刃物を持ってドアの影にうずくまっていたこともある。あのあとすぐに住み込みの仕事を見つけたのだ。


 まさか、身分の高い者ばかりの学園でも似たようなことになるとは思わなかった。最近はすっかり気を抜いていたけれど、庶民のことを同じ人間だと思っていない貴族がいることも知っている。

 もしかすると、その分過酷な目に遭うのかもしれない。


 いくらブキャナンとはいえ、さすがに教室で変なことはしてこないだろう。そう思うのに、過去の過酷な記憶が、キアラの身を竦ませていた。


「将来的にも正妻は無理だが、側室ぐらいにならしてやったっていい」

 そう言いながら頬を撫でられる。ぞっとして、咄嗟に手を払いのけた。

「結構です」

 努めて冷静な声を出しながら、頭の中では逃げるタイミングをはかっている。

 すでに校舎には人の気配がない。大声を出して、誰か来てくれるだろうか。


「……まだ、私の後見人はマクグラス伯爵です。変な真似をしたら、伯爵家に連絡が行きますよ」

 にらみつけるキアラに、ブキャナンがおどけたように両手を手を掲げる。

「わかったわかった。何もしないよ、まだ。せいぜいその時を楽しみに待つとするさ」

 キアラの虚勢などわかっているような顔だった。


 彼が行ってしまった後、恐怖で座っていられず、はじかれたようにキアラも教室を飛び出した。いつまでもあの場所にいたら、またブキャナンが戻って来るような気がしたのだ。


(グレン、グレンは)

 キアラの頭によぎったのは、グレンの顔だった。彼はいつも放課後はサロンにいるはずだ。キアラのような庶民や下級貴族は訪れることすらできない特別な部屋だった。

 一目散にサロンがある東の棟を目指す。あれだけ頼りたくないと思っていたのに、どうしてもグレンの姿をひと目でいいから見たかった。



 大きく開かれた両開き扉の向こうでは、生徒達がくつろいだり楽器を弾いたりしていた。廊下に引かれている絨毯も、学舎のものとは違う。

 扉の脇には警備員が立っていて、訝しげな眼でキアラを見ていた。

「あ……」

 あまりに場違いなことに気づき、キアラは急速に我に返った。


 無我夢中でここまで来てしまったが、走ったせいで息が切れている。髪だって乱れているだろう。

 サロンにいるのは、学園の中でも美しく身なりを整える余裕のある者ばかりだ。こんなぼろぼろの息を切らした女に呼び出されても、グレンにしてみたら迷惑でしかないはずだ。

 自分の行動が馬鹿らしくなる。キアラは警備員に何でもないというふうに首を振ると、黙ってその場を離れようとした。


「キアラ!!」

 はじめて聞くグレンの大声だった。

 グレンが呼んだのが紛れもなく自分の名前なのが嬉しくて、一気に気が抜ける。振り返った拍子に涙がこぼれた。

 見たこともない必死な顔をしたグレンが、サロンから駆け出て来るところだった。


「どうした? 誰かに何かされたのか!?」

 言うなり両腕を捕まえられる。痛いぐらいの力で掴まれているのは、いつも冷静なこの男が度を失っているからだろう。

 そう考えたらまた涙が流れて止まらなくなった。学園に入った時どころか、両親が亡くなって以来、涙など流したことはないというのに。


 ただ何でもないと伝えたくて、必死に首を振る。業を煮やしたように、グレンに強く抱き込まれた。

 男の人に抱きしめられたのは初めてだったが、鼓動が速いことはわかる。それはひどくキアラを安心させた。


 あまりにもグレンの体温が心地良くて、しばらくそうしていたが、さすがに混乱がおさまると、気恥ずかしくなって、そっと押し返すように離れた。

「何でもないんです。ただ、どうしても顔を見たくなって」

 まるでこれでは恋の告白ではないかと思う。

 そう言いながらも上手く顔を見られずにそっと横を見て、そしてキアラは小さく悲鳴をあげた。


 ここはサロンの正面の廊下だったのだ。そしてドアは全開になっていて、つまり、サロンの中からふたりが抱き合っているのが丸見えだった。

 さすがに高位の貴族とあって、ふたりを露骨に見るような不躾な者はいなかったが、気づかないはずはない。いつの間にか楽器の音も止んでいる。

 慌てて距離を取る。どうして言ってくれなかったのかとグレンに逆恨みをしながら。


「ごめんなさい……あとで、ちゃんと訂正、するから……」

 キアラは真っ赤になって俯いた。結局、自分はいつもこの男に迷惑ばかりかけている。

 自分のような者が触れてはいけない人だった。だから必死で離れようとしていたのに。


「ん? まあべつに適当に言っておくから良いけど。それより何があった?」

 グレンはどうやらキアラが何かされたわけではないと悟ったらしく、いつものように飄々とした感じに戻っている。

 抱き合っているところを見られたことも、それほど気にしていないようだった。貴族というのはこういうものなのかと呆れてしまう。


 キアラはいつものように何でもない、と言おうとして、さすがにそれは駄目だろうと思い直す。グレンに促されて空いている小部屋に移動して、ぽつりぽつりと、あったことを話した。

「私が、少し油断していたんです。別に何をされたわけでもないのに、少し怖くなってしまって」

 グレンは表情の読めない顔で話を聞いている。

「これからは、人の目のある場所で行動するようにします。ご迷惑をおかけして、本当にすいません」


「べつに迷惑じゃないから謝らなくていい。ーーそれよりキアラは、どうして俺のところに来たの?」

 ぐ、とキアラは言葉に詰まる。さっきも言ったではないか。こんな恥ずかしいことを2度も言わせるなんて、やっぱり嫌いだ、と思う。

「それはーーどうしても、グレン様の顔しか浮かばなくて。この学園では他に親しい人もいない者ですから」


 精一杯虚勢を張った告白だったが、グレンは口元に手をやって何か考えていた。

「あのさ、キアラさえよければ、俺達恋人にならないか?」

「え、ええ!?」

 突拍子もない提案に、キアラは飛び上がりそうになった。


「在学中はそうしておいた方がいいと思うんだ。いくらおばあさまの庇護があるとはいえ、後見人がいない状態で学園生活を送るのは危険すぎる。俺達が付き合っていると拡まれば、君に手を出そうなんていう男はいないだろうし」

「ああ、恋人って、そういう……」

 キアラは息を吐いた。安心したのか残念なのかわからない。それにしてもグレンの人の好さも極まっている。


 キアラのように学園生から目の敵にされている者と交際をしているなどと知られれば、グレンの方にも悪評が行きかねない。それに、卒業までグレンも恋人を作ることができなくなる。

 あまりに一方的にキアラばかりにしか利益のない取引だった。さすがに受けるわけにはいかないだろう。

 そう思うのに、グレンの優しさに縋ってしまいそうな自分が嫌だった。守られていることがこんなに安心できるなんて、今まで知らなかったのだ。

 

「お気持ちは、ありがたいのですが」

 そう言いながら、キアラは首を振る。

「俺が恋人になるのは嫌?」

「まさか。それはグレン様の方でしょう。私と一緒にいれば、悪い評判がたちかねません」

「せっかく頼ってくれたと思ったのになあ……」

 グレンははあーとため息を吐く。それが本当に残念そうに見えて、キアラは戸惑うしかない。


「じゃあ、言い方を変えるよ」

 グレンの声の調子が少し変わった。刺し貫くような視線がキアラを捉える。

「俺を利用しろ」

 グレンはこともなげに言う。

「せっかく俺という後ろ盾を手に入れられるんだ。何故使おうとしない。君も貴族社会で生きていくつもりがあるなら、その作法を学ぶべきだ」


「……私は、貴族ではありません。庶民の身でありながら、のうのうとマクグラス様の威光を借りるなど、そんな狡いことはできません」

「そんなの、たまたま生まれつき持っているかそうでないかの違いだけだ。俺は運良く君を守れる力がある。だから守らせてほしい。少なくとも、君が力を身につけるまで」


 どうしてこの人は、キアラが欲しかったものをくれようとするのだろう。

 嫌いだと言いながら、きっと本当は憧れていた。その強さに、他人を守れる余裕に。

 近づいたら、どうしようもなく惹かれてしまうのがわかっていたから。これだけ身分が違えば、一生一緒にいることなどできないのに。


「そして君が、誰かを守れるほど強くなって俺のことがいらなくなったら、潔く身を引くよ」

 もちろん決めるのは君だけど、とあくまでもこちらに決定権を握らせる潔さが愛しかった。


 抗うことなんてできないのだ。返事をする代わりにキアラは頷いた。ひと言でも喋ったらまた泣いてしまいそうだったから。



***

「まさかこんなに強くなるとは思わないじゃん」

 グレンはそう言ってぼやく。あれから10年近くが経って、キアラは叔母としてではなく、王室付きの侍従として、ディアミドの側にいることが許されている。


「出世したよね。これだから責任感が強い者が思い詰めると怖いんだよなあ」

「あなたにだけは言われたくないのですが……」

 グレンはあれから順当に出世を重ね、若くして宰相補佐という地位に就いている。


「俺のは単に家名を利用して成り上がってるだけだから」というグレンの言葉は真実ではない。

 切れ者だという評判も、次期宰相候補筆頭だろうという予測も、王宮にいれば嫌というほど耳に入ってくる。

 きっと緩い笑顔の裏では、相当な努力を重ねているのだろう。それが何を守るためなのかは明らかだった。


 一方で、キアラもディアミドの近くで仕えることが許されている。

 少しのことでは動じない鉄面皮も、宮廷人としてのふるまいも貴族との人脈も、すべて学園生活で培ったものだ。何ひとつ無駄ではなかった。


 あの時安易に姉とディアミドを連れて逃げていたらどうなっていただろうかと考えることがある。

 万が一、穏やかに三人で暮らしていた未来もあっただろうか。

 しかし、それは考えても仕方のないことだ。そうしない道をキアラは選んだのだから。


 ディアミドの評判は悪い。何が彼をここまで傲慢にしているのかは、いろいろな要因が絡み合っていて、ひと言では上手く言い表すことができない。

 まるで世界に復讐しているようなもの言いを聞くたびに、キアラは十年前の選択を後悔してしまいそうになる。


(殺されてもいいから、3人で逃げるべきだっただろうか)


 これだけ近くにいても、ちっとも守れてる気がしなかった。


 憐れだと呟いたキアラの言葉に、グレンも思うところがあるようだった。

「そうだな。さすがに、ディアミド様のお見合いは控えてもらうように進言するよ。でもその前にもうひとり、会わせたい子がいるんだ。私の身内なんだけど」

「あなたは、ご自分の身内まで売るつもりですか!」

 驚いてキアラが叫ぶ。この男は正気か。あの王子の性格を知っていて合わせようとするのは人身御供に等しい。


「嫌だなあ、売るなんて人聞きの悪い。大体、ディアミド殿下は君と血を分けた子じゃないか」

 何でもないような顔でグレンがへらへらと笑う。相変わらずあまり本心を読ませない笑みだった。

「それに、その子ーーシーナは強い。同い年の男の子の暴言ぐらいでは、彼女を傷つけることはできないさ」


 果たしてそんな子がいるのだろうか、という疑問と、このグレンの血縁者ならあるいは、という期待とが同時に浮かぶ。


「ーーいつか、来るのでしょうか。ディアミド様が心を預け、信頼できる人に会って、心を通わせることができる日が」

 キアラの独り言のような疑問を、グレンが力強く肯定する。

「もちろん。なんと言っても君の甥っ子だ。こんなに近くで愛情を注いでくれる人がいるんだから、いつまでもひねくれている訳にはいかないだろう、あの王子様も」


 グレンは確信じみた口調でそう言うと、ところで、と話を変える。

「ディアミド殿下が無事婚約したら、いい加減俺の求婚も受けてほしいんだけど」

「いいですね」

 キアラも少し笑う。卒業以来、幾度となく繰り返してきたやり取りだった。そのたびに、ディアミドが幸せになるのを見届けるまでは、とはぐらかしてきた。


 そう言っておけば、さっさと相応しい女性と結婚でも何でもするだろうと思っていたのだが、キアラの予想は外れ、10年ほどグレンは気持ちを変えていないみたいだ。

 最近ではキアラも、もういいかな、という気になっている。

 もちろん、そのためにはディアミドの幸せが最優先なのだが。


 何故かその日はあまり遠くないような気がしていた。

 ちなみにこのあと5年ぐらい進展しません。

 読んでいただいてありがとうございました。


 こちらは拙作「傲慢王子が笑うとき」という作品の前日譚になります。冒頭に出てきた邪悪な王子がヒーローです。彼が泣いたり後悔したり打ちひしがれる姿が見たい方は読んでみてください。

 このたび電子書籍にして頂きました。活動報告に書いていますので、ぜひよろしくお願いいたします。


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