13.広がる甘美な香り
夜会は滞りなく進んでいた。
にもかかわらず、空気はどこか落ち着かない。
理由は、明白だった。
「ねえ……見た?」
「ええ、ええ。あの場面……」
囁き声が、あちこちで交わされる。
「皇太子殿下が、あそこまで庇うなんて」
「しかも、あんな優しい目で……」
――優しい、目。
当の本人は、いつもと変わらぬ無表情で杯を傾けているだけなのに。
エルザの周囲には、自然と人が集まり始めていた。
「妃殿下、その香り……とても落ち着きますのね」
「夜会にぴったりですわ」
「あ、ありがとうございます」
エルザは微笑みながら応じるが、内心は困惑していた。
(……距離、近くないかしら)
さらに、耳に入ってくる声。
「殿下、妃殿下から目を離しませんわね」
「護衛より徹底してるじゃない」
確かに、カイエルは視線を逸らさない。
敵意の有無を確認しているだけ――本人はそう思っている。
だが周囲には、こう映る。
“溺愛している婚約者を、誰にも近づけない皇太子”
決定打は、ある貴婦人の一言だった。
「まあ……妃殿下、お疲れではありませんか?」
エルザが返答するより先に、低い声が割り込む。
「……無理をさせるな」
それだけ。
たった一言。
だが――
「……まあ」
「まあまあまあ」
視線が、爆発した。
「殿下が、夜会で女性を気遣うなんて……」
「しかも、妃殿下限定……」
エルザは、凍りついた。
(え、今の……私に、ですか……?)
カイエルは、何も気づいていない。
「問題があるなら、部屋へ戻ってもいい」
「い、いえ!大丈夫です!」
慌てて答えるエルザ。
その様子すら、周囲にはこう映った。
“溺愛されすぎて、気を遣っている妃”
夜会の終盤。
噂は、もはや確信へと変わっていた。
・皇太子は婚約者に弱い
・政略結婚? 名ばかり? とんでもない
・あれは本気だ
そして、翌朝。
「殿下……」
エドワードが、資料を抱えながら咳払いをする。
「すでに城内では
『妃殿下に逆らえば、殿下の機嫌を損ねる』
という認識が定着しております」
「……は?」
「加えて、他国からも
『婚約者への配慮が手厚い皇太子』
という評価が届き始めておりまして」
カイエルは、眉をひそめた。
「俺は、事実を述べただけだが」
「はい。ですが……」
エドワードは、少しだけ目を逸らす。
「世間は、それを“溺愛”と呼ぶようです」
沈黙。
カイエルは、ふと昨夜のエルザを思い出す。
落ち着いた声。
一歩引きつつ、決して折れない態度。
「……面倒だな」
そう呟きながらも。
否定する気は、なぜか起きなかった。




