不一致
午後三時過ぎ。とあるビルの二階にある喫茶店。窓から差し込む陽射しは柔らかいものの、どこか一日の終わりを感じさせるような寂しさが店内に淡く滲んでいた。カウンター奥から、スプーンが陶器に触れる澄んだ音が時折耳に届く。
店内中央寄りの席に、向かい合って座るカップルがいた。男はテーブルの上のグラスを見つめ、ストローの先を指でつんつん、と軽くつついたあと、顔を寄せた。そして――。
――ズゴゴゴゴボボボボ。
一気にアイスコーヒーを吸い上げた。氷が崩れ、グラスの中でカランと甲高い音を立てた。男はストローから口を離すと、大げさに息を吐いた。
「……いや、氷多っ! 実質、中身半分もないだろ。これ、ボッタクリじゃね?」
「そんなに多くないと思うけど……。あ、ありがとうございます」
彼女がぽつりと呟くように返した、ちょうどそのとき、店員が紅茶のカップを静かにテーブルに置いた。彼女は軽く会釈しながら礼を言った。
「氷、いる?」
「いるわけないでしょ。アイスじゃないんだから」
「はははははっ! はははは!」
男は大口を開けて笑い声を上げた。彼女は深く息を吐き、カップへ手を伸ばした――その瞬間だった。
――いやあああ!
――逃げろ!
――通り魔だ!
突如、外から悲鳴と怒号がなだれ込んできた。無数の足音が通りを打ち鳴らし、窓ガラスがかすかに震える。店内の空気が一瞬で張り詰め、客たちは反射的に椅子から腰を浮かせた。
「今、通り魔って言ったよな……?」
男は即座に立ち上がり、窓際に駆け寄った。通りの右側から、人々が洪水に流されるように押し寄せ、必死に逃げ惑っていた。母親に手を引かれ、強張った顔で走る子供。転びそうになりながらも鞄を抱えて走るサラリーマン。泣きわめく幼児を抱え、歯を食いしばって駆ける父親。怯えた表情で腕を絡ませながら逃げる二人組の女。中には転んだのだろう、額に血を滲ませている者までいた。
これはドラマの撮影でも、いたずらでもないらしい。本物の通り魔が現れたのだ。
「やっべ、逃げよ……あっ、おい、早く逃げるぞ!」
男は彼女のほうへ振り返り、叫んだ。しかし、彼女は席を立とうとしない。ただまっすぐ男を見つめ、静かに口を開いた。
「別れたいの」
「ああ、早く……え? 分かれたい? 二手に分かれて逃げるってこと……?」
「ううん、あなたと別れたいの」
「今!?」
「そう、今」
「いや、絶対今する話じゃないだろ! 通り魔が出たんだぞ! しかも、そんな急に……」
「急じゃない。今日はその話をするために来たの。だから、通り魔が出たからって話を先延ばしにする気はないよ」
「意志の強さを感じる……いや、でもさすがにその話は今度にしようって! 早く逃げないと、通り魔がここに来るかもしれないぞ!」
「ここは二階だし、わざわざ上がってこないんじゃないかな。それに、今外に出たら鉢合わせするかも」
「それは、まあ……いや、わからないだろ。立てこもるかもしれない」
「まあ、それは言えるかもね。じゃあ、別れるってことで」
そう言って、彼女は椅子から立ち上がろうとした。しかし――。
「ちょっと待てよ!」
「え、なに? 逃げないの?」
「別れるって、嘘だろ……?」
「いや、今その話をしてる場合じゃないでしょ。早く逃げないと……」
「いや、ここは二階だし、通り魔もわざわざ上がってこないだろ。今外に出たら鉢合わせするかもしれないしな」
「それ、私が言ったやつ」
「なあ、なんで別れたいんだよ。おれ、嫌だよ……」
「もう無理なの。それより早く逃げよう」
「通り魔なんかどうでもいいだろ!」
「もう……こっちが合わせようとすると、そっちが意見を変える。そういうところも……」
「なんだよ……。どうしておれと別れたいんだよ。ちゃんと教えてくれよ!」
「だからもう、いろいろ無理なんだってば。いちいち説明する気にもなれないけど、さっきのだけでもほら、私の注文が来る前にアイスコーヒーを全部飲み干したでしょ。それも一気に」
「いや、それはさ、ちょっと面白いじゃん?」
「全然。しかも、店員さんに聞こえる距離でボッタクリなんて言うし。ほんと、デリカシーがない」
「……わかった、わかったよ。じゃあ、新しく注文すればいいんだろ? 飲みたかったんだよな。女って、シェアするの好きだもんな」
「おおー……」
「なんて! 冗談だよ、冗談! ははは! 悪いところは直すからさ。な? な?」
「いや、無理。ほら、早く逃げないと」
「大丈夫だって。たぶん今頃、逃げ遅れたやつを殺してるだろうから」
「すでにデリカシーがないじゃない。はあ……」
「な、なんだよ……こっちばっか悪いみたいに言うなよ」
「え?」
「おれにだって不満はあるよ。盛り上がってるときでも、すぐ『あ、門限だから』って帰るし」
「うちが厳しいの知ってるでしょ。弟の受験もあるし、私だけ遊んでるわけにはいかないの」
「それにさ、いちいち目くじら立てすぎなんだよなあ。さっきのボッタクリ発言も冗談だし。ちゃんと伝わってる?」
「どっちでもいいし、それじゃ」
「わかった、わかったって! 家のこととか我慢するからさ。な? な?」
「もういいから。とにかく行かないと。本当にまずいから」
「いや、待てって。ほら、窓の外! スマホで撮ってる人がいるぞ。通り魔、すぐそこにいるんじゃないか? 今外に出るのは危ないって」
「ああ、そうじゃなくて。さっき、『もう店を出る』ってお母さんにメッセ送っちゃったから」
「そっち!? 今は家とかどうでもいいだろ!」
「だから、うち厳しいんだってば。じゃあね」
「待てって! ……あ、あ、あ、いや、本当に! 来た! 来たから! 通り魔!」
「は?」
「今、このビルの中入った! やべ、やべえ! くっそ、窓から……。あっ、ほら、こっち来いって!」
「また自分だけ逃げようとしなかった? さっきも私のこと忘れてたよね?」
「今はそんなことどうでもいいだろ! あああ、ほら、き、来た!」
喫茶店のドアが開き、白いシャツを着た若い男が息を切らしながら入ってきた。袖口は赤黒く染まり、乾いた血がまだらにこびりついていた。そして、その手には鈍く光る包丁が握られている。
男は慌てて窓から身を乗り出した。その背後で彼女は目を見開き、そして言った。
「あんた……どうしたの?」
「姉さん……」
「……へ? 姉さん?」
「うん。あれ、弟」
「弟!?」
「あんた、なんで通り魔なんか……」
「通り魔……? 違う……喧嘩になって、おれ、母さんを刺しちゃって……どうしていいかわからなくて……逃げて……それで、ここに姉さんがいるって知ってたから……」
「あー……」
重い沈黙が店内に落ちた。外の喧騒が嘘のように遠ざかっていく。
やがて彼女はゆっくりと男のほうへ向き直り、穏やかな声で言った。
「じゃあ……これからも、お互い支え合っていこうね」
「いや、別れよう」




