2話
「おーい翔!グラウンド、こっちこっち!」
中村が、グラウンドの隅から全力で手を振っている。 翔はジャージ姿で、少しだけ気まずそうに歩いていった。 2年ぶりの土の感触。スパイクじゃなく、学校指定の運動靴。 それでも、足元が少しだけ軽く感じた。
「おっ、翔じゃん!マジで来た!」
「来るって言っただろ」
「いや、でも“見てから決める”って言ってたからさ。てっきり“やっぱやめるわ”って言うかと」
「言う前に、まず見てからだろ」
「翔、真面目かよ!」
「うるさい」
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グラウンドの隅では、田島が黙々とキャッチボールをしていた。 そのフォームは、相変わらずぎこちない。 球速も、翔の記憶よりずっと遅くなっていた。
「田島、調子どう?」
「…まあ、ぼちぼち。球速は出ないけど、緩急でなんとか」
「緩急って、どのくらい?」
「ストレートが105、遅いのが…90くらい?」
「…それ、緩急って言うか、ただの遅球じゃね?」
「でも、意外と打たれないんだよ。みんな振り急いでくれるから」
「…なるほど。逆にすごいな」
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その横で、吉田がノートを片手に近づいてきた。
「翔、フォーム撮ってみようぜ。スマホある?」
「あるけど」
「じゃあ、俺が撮る。お前のリリースポイント、見てみたい」
「…まだ投げるって決めてないけど」
「いいからいいから。投げてみて、考えればいいじゃん」
翔はしぶしぶマウンドに立った。 久々の感覚。風の向き、土の硬さ、指先の乾き。 キャッチャーミットを構える吉田の顔が、やけに真剣だった。
「いくぞ」
「おう、こい!」
翔は一度、深呼吸をして、腕を振った。 ボールがミットに吸い込まれる音が、グラウンドに響いた。
「おおおお」
2球目も吉田のミットが、乾いた音を立てた。
「おおおお……!」
翔の一球がミットに吸い込まれる度に部員たちが一斉に叫んだ。
「おおおお!」
「おおおお!」
「おおおお!」
中村が叫ぶ。佐々木が叫ぶ。圭吾が叫ぶ。 田島が、口を開けたまま固まっている。
「…え、今の、マジで翔?」
「いや、別人じゃね?なんか“風”みたいだったぞ」
「風ってなんだよ」
「語彙力どこ行った」
圭吾が、グラウンド脇の砂を拾って、川に石を投げるみたいにポイッと放った。
「語彙力のヤツ、東京行ったらしいぜ」
翔が即座にツッコむ。
「コントか!」
部員たちは爆笑しながら、スマホを構え始めた。 SNS用の動画撮影が始まる気配に、翔は眉をひそめる。
「やめろって」
「でもさ、“帰宅部のリリーバー、覚醒”ってタイトル、バズりそうじゃね?」
「もっとやめろ」
翔は、ミットに収まったボールを見つめていた。 指先が、まだ少し震えている。 でも、懐かしい。確かに、これが“俺の球”だった。
「…もう一球、いくぞ」
「よっしゃあ!」
吉田が構える。翔が振る。 今度は、少しだけ力を抜いた。 ボールは、低めに沈みながら、ミットに吸い込まれる。
「…チェンジアップ?」
「いや、ただの失投」
「でも、打てなそうだったぞ。てか、翔、球種覚えてんの?」
「…野球やってたし」
圭吾が、スマホを見ながら叫ぶ。
「今の動画、撮れてた!てか、TikTokに上げていい?」
「やめろ」
「でもさ、“帰宅部のリリーバー、覚醒”ってタイトル、バズりそうじゃね?」
「やめろって」
「じゃあ、“風の球、再び”は?」
「もっとやめろ」
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その後、翔は何球か投げた。 フォームはまだ不安定。球速も、昔ほどじゃない。 でも、部員たちは騒ぎながらも、真剣に見ていた。
田島が、ポツリと言った。
「…翔がいてくれたら、俺、もっと思い切って投げられる気がする」
翔は、田島の顔を見た。 その目は、ふざけていなかった。
「…じゃあ、俺が締める。お前が開けろ」
田島が、ゆっくりうなずいた。
「…任せろ」
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練習後、部室に戻ると、顧問がいた。 理科教師でもある、無口な先生。 部員たちが騒いでいるのを見ながら、ぽつりと呟いた。
「…回転軸、悪くないな」
全員が一斉に振り返る。
「先生、それしか言わないですよね」
「…それがすべてだ」
「いや、もうちょい褒めてくれても」
「…回転軸がズレると、打者の脳が混乱する。…たぶん」
「“たぶん”って!」
翔は、笑いながらグラブをしまった。 部室の空気が、少しだけ変わっていた。 ふざけてる。でも、どこかで本気になってる。
「…悪くないかもな」
誰にも聞こえないように、そう呟いた。




