1話
「翔ー!おーい、翔ー!聞こえてんだろー!」
放課後の昇降口に、やたら通る声が響いた。 靴を履いていた翔は、顔だけ向ける。 声の主は外野手の中村。汗だくで、リュックのチャックは全開。中身がポロポロ落ちてるのに、本人は気づいていない。
「…体操服、落ちてるぞ」
「マジ!?あぶねー!でさ、翔、ちょっと来て!」
「帰るけど」
「いやいやいやいや、帰宅部のエース様にお願いがあって!」
翔はため息をついた。中村の“お願い”は、だいたいロクでもない。 しかも“エース様”ってなんだ。俺はもう野球部じゃない。
「部室来て!今すぐ!マジで!全員待ってる!」
「…なんで俺が」
「ピッチャー、田島しかいないの!で、試合出るには人数ギリギリ!お前が来ないと、終わる!」
「顧問は?」
「“人数足りてるなら出場はできる”って。だから、翔が入ってくれたら、試合出られる!」
「…俺、もう2年も投げてないけど」
「でもさ、翔って小学校のとき、リリーフでめっちゃ活躍してたじゃん。田島が言ってた、“翔の球、マジでエグかった”って」
「…田島が?」
「そう!で、今、田島が部室で正座して待ってる。マジで頼む!」
翔は黙ったまま、昇降口の外を見た。 夕方の光が、校庭のフェンスを赤く染めていた。
「…わかった。話だけ聞く」
「よっしゃあああああ!!」
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部室には、野球部の同級生たちが集まっていた。 キャッチャーの吉田、ショートの圭吾、外野の佐々木と中村。 そして、唯一のピッチャーである田島が、申し訳なさそうに立っていた。
「翔…頼む。お前、リリーフやってくれないか」
「…俺、もう野球やってないけど」
「でも、お前しかいないんだよ。ピッチャー、俺だけだし。部員もギリギリだし」
「…わかってるよ。野球やってたし」
その一言に、部室の空気が一瞬だけ静かになった。 圭吾が、すぐにその静けさを打ち破る。
「うおっ、今の言い方、なんかカッコよくね!?“わかってるよ、野球やってたし”って!」
「うるさい」
「ごめん」
吉田が、ホワイトボードに貼られた大会スケジュールを指差す。
「あと3週間。田島が先発して、翔が締める。リリーフって、そういう役割だろ?」
翔は黙ったまま、グラブを手に取った。 懐かしい感触。革の匂い。指先に残る、あの“球を握る感覚”。
「…練習、見てから決める」
「マジ!?よっしゃあああ!」
「うるさい」
「ごめん」
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その日の夕方、翔は部室の隅で、グラブを握ったまま窓の外を見た。 校庭では、女子ソフトボール部がキャッチボールをしていた。 遥が、笑いながらボールを拾っている。
圭吾が後ろから声をかけた。
「なあ翔。お前、ほんとに戻ってくるのか?」
「…まだ決めてない」
「でもさ、俺ら、マジでお前の球、見たいんだよ。中村なんか、昨日の夜“翔の球って風みたいだった”とか言ってたし」
「それ、意味わかんねぇ」
「俺もわかんねぇ。でも、なんか…見たいんだよ」
翔は、グラブを握り直した。 「…困ってるのは、リリーバーか」
誰にも聞こえないように、そう呟いた。




