何もかも失った没落令嬢は国を捨てるついでに追放された王子を拾う
連載版開始しました
没落令嬢と呼ばれる学園生活は、どう言いつくろっても、みじめなものだったな、と思う。
私は学生生活の間に、伯爵家令嬢ではなく、平民になったのだ。
「そのみすぼらしい身なりで、俺に近づくな」
婚約者にそう言われたのは、没落する少し前。
学園に入学するために王都にやってきた私にそう言った。
彼は裕福な男爵家の令息で、我が家は資金援助を受けていた。
金色の髪を長く伸ばした綺麗な容姿の婚約者は、決してみすぼらしいわけではないけれど……最新ではないドレスを着たやぼったい私を蔑んでいた。
会わなかったのはたったの一年足らずだったのに。優しかったはずの婚約者との仲は、すっかり冷え切っていた。
彼は会うたびに、隣にいるのが恥ずかしい、と言った。
ドレスだけでなく、令嬢たちと積極的に交流しない、社交的ではない性格も好きではないようだ。
私はただなんとなく、一緒に笑い合った子供時代が終わっていくのを感じていた。
子供らしい遊びを一緒にしていた時代は終わって、大人たちのように体面を重んじ、集団の中で優位にあるように動かなくてはいけない。
「お前との婚約を破棄させてもらう」
そう言われたのは、入学した年の夏ごろ。
冷え切った瞳を向けられて、彼の中にはもう欠片も私への情は残っていないのだと悟った。
出会った頃は、笑顔がとても綺麗だったのにな、と私はただ思っていた。
どうしてだか彼との婚約が学友たちに噂されてしまったときに、彼がみんなの前で言い放った。もともと本意ではない婚約で、もっといい条件の令嬢を見つけていたようだった。そうして、事実婚約は破棄された。いくばくかの慰謝料と、今までの援助の返済はしなくていいという条件で。
我が領地は、たて続けの災害に見舞われてから、国の援助を貰ってもなお立て直せずにいた。私にとっては、ドレスや令嬢たちとの交流どころではなかった。
またこのころから父の病気が悪化し、親族に助けを求めていたけれど、金銭的にも病状的にも追い込まれていた。婚約者の心情に関わらず、うちとの縁を切るのは時間の問題だったのだろう。
長期休みで屋敷に帰ると、学校をやめると言う私に父は言った。
「学費は卒業まで払ってあるんだよ。お前には魔法の才がある。卒業資格は必ず助けになる。私の為にも卒業しなさい」
泣きじゃくる私を父は抱きしめ、家宝の魔道具をくれた。ペンダントの形をしていて、魔物を寄せ付けないと言われているものだ。その時父はもう、娘と会うのはこれが最後だと知っていたのかもしれない。私が学園に戻ると父はすぐに亡くなり、追うように母も逝った。相続手続きの中で、切迫した領地の状況を理解し、執事たちと相談しながら、最後には爵位を返上したのだ。
それから卒業までの間は、針の筵だった。
貴族が平民になる稀な出来事を、学生たちは遠巻きに見つめていた。同学年である元婚約者は蔑むような視線を投げてくるし、それに呼応するような貴族子女たちの嘲りの声は心を抉ってきた。
けれど父との約束だけを胸に、どんな嫌がらせにも耐え、やっと卒業する。
寮の荷物は小さなトランク一つに詰め終わった。
明日の朝には手配してある馬車で隣国を通って大国まで渡る。
(私はもうこの国に、何も持っていないんだわ)
友人と言う友人も出来ず、大事な家族は亡くなり、唯一親しくしていた使用人たちも、手厚く書いた推薦状で新しい場所で働いている。
(思い残すことも何もない)
魔法国家ミーニアムの魔法学校を卒業した私は、きっと新しい国でも仕事には困らないだろう。かの大国は、身分にかかわらず試験で役人を選ぶ制度があるらしい。とても素晴らしいことだ。きっと試験を受けさせてもらえるだろう。
(何も残らなかったけれど……未来だけは残ってる)
天災に病気に死。
人生は、抗うすべもないほどに圧倒的なものが、いつも大事なものを奪っていくばかり。助けと言う助けも得られなかった。それでも……。
(お父様ありがとう……)
真っ先に私の学費を払ってくれていた。まるで遺していくことを分かっていたかのように。治療費に使ってもらいたかったとも思う。その判断が間違っていたのかどうかは分からないけれど、愛があったことだけは確かだ。
二度と逢うことは叶わない父に胸を張れるように、私は生きていきたいと思う。
最後の夜。卒業パーティーに出たのは、夕食が食べられるからだ。
目立たぬように、終わりかけの時間を見計らってこっそりと入った。制服で来ているのは私だけだったけれど、最後の夜、別れを惜しむ人々は私のことなど気に掛けてもいなかった。貴族子女の集うこの学校のしかも卒業パーティーだ。シェフの渾身の料理だろうものは、どれも絶品の品ぞろえだ。
こんな高級肉、もう二度と食べられることはないんだろうな……そんな気持ちで噛みしめていると、声が響いてきた。
「シュリオン、お前を拘束する!」
……?
思わず皿を持ったまま声の方向を振り返る。人だかりの向こうで良く見えない。前方が見える場所に移動すると、この国で最上級に高貴な方々が集まっている。
第二王子、第三王子、公爵や侯爵家の息子たち。
私には雲の上過ぎて、一言の会話も交わしたことはない人たち。華やかで高級な服装に包まれている彼らは、今の私にはお芝居の中の人のように思えた。何かの舞台を演じているかのようだ。
折角だから肉を摘まみながら事の成り行きを見守る。はぁ。最高級のハムだ。
「婚約者を陥れ、命を奪おうとした!」
「お前は、サファイア様に毒を盛り、刺客を雇い命を狙わせた」
「そして俺にも毒を盛ろうとした計画があったとあるが」
「違う!!ふざけるな放せ!」
「黙れ!」
状況が良く分からない。
黒髪の体躯のいい第二王子が兵士たちに拘束されて跪いている。その前には金髪の美貌の第三王子と令息たちが立ちはだかり何かを読み上げているようだった。
毒を盛られたサファイア様はたしか第二王子の婚約者の方だ。
拘束されている第二王子が、婚約者を殺そうとしたと。そして警備兵とは違う、王家の白い制服の兵士たちがいるということは拘束に赴いて来ていたってこと?
「……違う!!」
第二王子の激しい怒りの含んだ声が会場に響き渡る。そう。これはまさに怒りなんだろう。
顔を上げた第二王子の、ギラギラとした憎しみの籠る瞳を見てしまった。
「俺がサファイアに毒を盛ってなんになるというのだ!」
ザワ……と会場にざわめきが溢れる。
「お前は、国外追放とする。これが罪状だ」
「違う……!!やっていない!謀ったな。アンドリュー!許さんぞ!」
「連れて行け。今晩中に向かえ」
「は!!」
第二王子を兵士たちが引きずるように連れて行く。
わめく彼が会場から姿を消すと、やっとほっとしたような空気が戻って来た。第三王子がサファイア様の肩に手をかけ微笑み合っている。
モグ……と肉を噛みしめながら、今見た光景を頭の中で反芻する。
第二王子のことは遠くからお見掛けして知っている。騎士科の成績ナンバー1だ。目つきが鋭くて、背が高く逞しい体格の、寡黙で剣技にも長けていて、とてもお強いと噂の方だ。ぱっと見のお姿は立派な体躯が大きくてちょっと怖そう。でも艶やかな黒髪と凛々しいお顔立ちだという……近くで見たことはないけれど。
側妃であった母親が亡くなってからは立場が弱かったと聞く。第三王子の母親も側妃だけれど、豊かな侯爵家の方で力がある。
「……恐ろしいわ」
「毒ねぇ……どちらが盛ったことなのだか」
「逆らうから」
「愚かね」
小さな声とはいえ、学生たちのささやかれる声が止まらない。
やはりまだ学生だからなんだろうか。夜会の大人たちなら言わないようなことまで言ってしまっているようだ。だからこそ伝わってくる。罪状をそのまま信じている人はいない。
「武芸などにうつつを抜かすから」
「剣など強くても」
「第三王子が勝ったのね」
たぶん、それが皆の心の中の思いなんだろう。
国の未来が決まったのだ。
五年前、我が領地を窮地に追い込んだ天災は、この国の第一王子の命も奪った。
それからは側妃の子供たちによる王太子争いが続いていたらしい。
人目が溢れる卒業パーティーなんかで罪状を突き付けたのは、ただのパフォーマンスなんだろう。王太子は一人しか必要がない。その座を脅かす優秀な存在を排除しなくてはならない。
「それにしても」
「国外追放なんて珍しいですわね」
国外追放、とは死刑のほぼ暗喩。
隣国との境界は魔物の出る魔の森の近くだ。そこに放り込んでくるのだ。生きて帰った者などいないと伝え聞く。
魔物は悪い者を殺すと言う迷信がある。良い子にしていないと、悪い子は魔物に食べられてしまうぞ、と言われながら育つのだ。罪を犯した者が魔物に殺されるのならば、それは本人が悪いのだと、心情的に思わせる。
「追放して数日後に確認に行くって本当なのか?」
「噂が本当なのか分かりますね」
「まぁ、嫌だわ。そんな面白がって」
「ふふふ。楽しみですわね」
会場に響く、甘いお菓子を食べているかのような軽いおしゃべりが、ざらざらと心を削って行く。
私はもう、この国に何のしがらみもない『ただのひと』だから。
――嫌だな。
そんな不快感が体に広がっていく。
「これでこの国も落ち着きますわね」
「良かったですわ」
どうしてこんなにも、笑い声が気持ちが悪い。
きっと誰も毒を盛ったなんて思っていない。だって力ある婚約者の家の援助をなくして第二王子が王太子になるなんて無理だ。わざわざ暗殺する理由なんてない。罪のない人が殺されていこうとしている。その命の終わりを嘲るように笑って見ている。
死刑にするなら、それなりの手順を踏んで法で裁けばいい。なのにこんな、お芝居を見ているように終わらせるなんて。
食欲を一気に失い、カチャリと皿を置く。
嫌だ。どうしても嫌だ。
じわりと涙が浮かびそうになって、気が付く。父の死を思い出している。誰にも助けてもらえなかったあの時の気持ち。何もできないまま、自分の無力さに絶望しながら私はただ父を見送った。
「それではまた卒業後に会いましょう」
「ええお元気で」
笑顔で別れの挨拶をする人たちの間を潜り抜け、人のいなくなったテーブルから日持ちしそうな食料をこっそり袋に入れて持ち出していく。
そしてゴミ捨て場にも寄っていく。卒業を迎え、いらなくなった衣服を捨てていく人が多いのだ。目当てのものはすぐに見つかったので頂いていく。
寮を出るために用意した馬車が来るのは明日の朝一。
彼が連れて行かれたのは今晩。
魔の森に連れて行かれると言うのは本当のことなんだろうか。そんなところに辿り着く前に殺されるのではないのか。だけどもしもそれが本当のことなのだとしたら。
――一晩、生きていてくれたら。
私は、たまたま明日の朝、その国境を越えることになっているから。
様子を見るくらいのことなら出来る。
たとえ出来たとしても、する人など居ないのだろうけれど。だって真実殺人を犯そうとした人なのかもしれない。凶暴な人格で人を傷付けるのかもしれない。
それでも、黙って見過ごすなんて、私は嫌だった。
国境にある魔の森の近くは、通り抜けるだけでも嫌がられる場所だ。
明るい時間に馬車で急ぐように駆け抜けていくだけの場所。
だから私はその場所で、御者に母の形見の宝石の煌めく指輪を報酬にすることでお願いをした。両親の形見はもう、父のペンダントとこの二つだけだったけれど、金目のものがこれしかなかった。私の人生に高価な指輪などもう必要ないから。
「二時……いえ、一時だけでも待っていてください。探しものがあるのです。必ず戻ってきます」
しぶしぶ了承してもらい、私は魔の森に分け入った。
(本当に私は何をやってるのかしら。でも何もしなかったら、一生後悔しそうなんだもの)
父の形見の魔物除けの魔道具を付けているので魔物の心配はしていない。一見普通の森のそこは、どんな魔物が隠れているのか分からない。検索魔法を使いながら最短距離で生き物の場所を目指して慎重に歩き進む。すぐに人を見つけた。
(国外追放の噂は本当だったんだわ)
太い木に半身をもたれかかるようにして第二王子が倒れている。顔には殴られたような痣が赤黒く残り、口の端が切れて血が付いている。気を失ったまま置いて行かれたのだろうか。
こんなすぐに見つかるなんて、連れて来た兵士だって魔の森の奥まで分け入っていないのだ。ここまで入るのだって怖かっただろう。
夜会の煌びやかな装飾の着いた黒い衣装のまま彼は倒れていた。
ここに来ても、私はまだどこか物語を見ているような気持ちでいた。
(私が今魔の森に居て……キラキラした夜会服の王子様を目の前にしている、なんて信じられない)
よく見ると両手両足に何か魔道具が付けられている。
魔道具の取り扱いは、一番の得意分野だ。魔道具を解呪してみると、手足を動かせないようにさせるための枷のようだった。なんてもの付けていくんだ。カチャリと音を立てて外れるとほっとする。
ふと見ると、彼の横に血濡れた剣も落ちている。戦った?え?魔物と?……魔道具の枷を付けながら?
(そんなこと出来るの?この人もとんでもなさそうな人なの??)
急にぞっとするような気持になって周りを見回すと、小さな鳥の声だけが響いて来た。キューと鳴く声が怖い。早く出て行きたい。
「あの……起きてください、えーと、シュリオン様?」
昨日まで第二王子だった……確かそんな名前の方。王族の方なんて縁がないはずだったのに。それなのに、なんでこんなことに。でもだって、どうしても、どうしても……嫌だったから。
人が死んで行くのを、ただ見送った彼らと同じになんてなりたくなかった。
「シュリオン様、お願いです、目を覚ましてください」
肩に手をかけ揺さぶると、彼の瞼がピクリと動いた。
端正な顔立ちのまつげが長い。ゆっくりと瞳が開くと、濡れたような漆黒の瞳が宝石のように輝いた。
うわっと思う。怖い印象の方だったのに、高貴なお方は、本当に美しい存在なのだ。
彼はガバリと起き上がろうとして、痛むのかうめき声を上げて倒れ込んだ。
「う、はっ……くそ……!!」
どこか怪我をしているのだろうか。服は血濡れてはいないけれど、折れていても私には分からない。
「ちくしょう、あいつらめ……!くそ……っ許さんぞ……!」
そう言うと地面を拳で叩きつけている。
野生の獣のようだと思う。今にも標的に飛び掛かって噛み殺してしまいそうな激しさを感じてどきどきとしてしまう。
「毒など……どこから調達したのだ、あいつらは!」
暫く蹲っていた彼は顔を上げ、辺りを見渡し、頭を抱えながら不機嫌そうに私に言った。
「なんだ……お前は何者だ」
私に向けられた威圧感あるその声に一瞬ぞくりとする。追放されても王族なのだ。とても美しいのに、男らしさのある意志の強さを感じる顔立ちで睨まれる。
彼はさらりと髪を靡かせてゆっくりと立ち上がる。そして私を見下ろす。背が高く、太い腕、鍛えられた体であることを感じた。
騎士科のはずなのにどうして黒髪を長く伸ばして後ろで結んでいるんだろう、と不思議に思っていたけれど、分かってしまった。すごく艶やかで、彼の美貌を引き立てるからだ。
「あ……」
動揺していた。いや、なにに動揺したんだ、私。
「何者だ?」
「あ、私は……」
当たり前だけど、私の顔をご存じない。ならば。
「通りがかった者です……」
眇められた瞳から全く信じてないのが伝わってくる。分かるよ。
シュリオン様の目つきは本当に怖い……睨まれるとなんて言っていいのか困ってしまう。
だけど私は真実通りがかりの平民。敵意はないのです。
「国境を越える途中でしたが、魔の森を一度見て見たかったのです」
「は?」
「馬車を近くで待たせています。近くまで来た記念に少しだけ魔の森の中を覗いていたのです」
どう!?この説明行ける?
「そんな命知らずなことをするやつがいるのか」
フン……と彼は鼻を鳴らした。
「酔狂なやつだな」
本当に……。
第二王子はたぶん私にも真偽にも興味がないのだろう。それ以上追及するつもりもないようだ。黙って考え込んでしまった。
「私はもう馬車に戻らなければいけません」
「どこに行くんだ?」
「隣国まではその馬車で」
彼は考えるようにしながら胸元のスカーフを引き出し剣を拭うと鞘に仕舞った。
「お困りでしたら馬車に同乗してくださっても構いません。どうしますか?」
私がそう言うと彼の考え込んでいる表情が歪められていく。拳を握り締めると、小さく、クソ、と呟くのが聞こえた。
きっと彼は今後の身の振り方を考えてる。もしかしたら国に復讐しようとするのかもしれない。
彼に協力者が居ればそれも叶うのかもしれない。その気になれば私のように助け出せるはず……でも誰も見当たらない。味方など居るのだろうか。罪状をひっくり返すことも難しくないのかもしれないし、あんなのは彼の立場を辱めただけに過ぎないのかもしれないけれど……学生たちも言っていた。
彼の立場はとても弱い。後ろ盾がないに等しいはずだ。
それでもきっと、第三王子の勢力に反対する人たちに担がれたのは、この人のカリスマのある容姿と高い能力のせいなんだろうな。怖そうなのに綺麗な顔をしていて、目が離せなくなるような容姿をしている。ぱっとしない成績の第三王子などお呼びでないほど優秀だったのだから。
私にはもう、何も関係ない。
あの国も。この人も。何もかも。
この人に手助けしたことで危険なこともあるかもしれないけれど、私ははるか南の大国に渡るのだ。そう簡単に追われることもないだろうし。
だから、ここに来て良かったな、と思う。
彼をみすみす殺させなくて良かった。
これで晴れ晴れとした気持ちで国を出られる。最後の心残りも無くなったのだ。
「同乗しよう」
「あ……乗りますか?」
隣国に渡るのか。まぁ、国外追放なら一度はそっちに行くか。そこまではご一緒してお別れかな。
「お前が言ったんだろう」
「え、えっと……そうですね。そうそう、良かったらこれを着てください。馬車に御者がいるんですが、貴方様の容姿では驚かれてしまいますから」
鞄から男性用のローブを取り出して彼に渡すと、バサリと彼は羽織った。
魔法科の男性が実習の時に羽織るシンプルな黒いローブだ。王子様は何を着ても様になるなと思う。
「大きいな。男性ものじゃないか?」
「貰い物です!」
拾い物です。
誘導しながら馬車に戻ると、怯えるようにしていた御者がほっとした表情で迎えてくれた。道に迷われていた旅のお方と同乗することになったと伝えるとさすがに訝しんでいたけれど、指輪を渡すと黙ってくれた。
「うっ……」
苦しそうな様子で彼は馬車に座った。どこか怪我しているんだろう。
不機嫌そうな様子で黙り込んでいたけれど、しばらくしてから私は声を掛けた。
「お腹空いてませんか?良かったらどうぞ……」
馬車の中で、昨日のパーティーで盗んできたパンやら焼き菓子やらを出してみたけれど、彼は会場のものだと気付いていないようだ。
「ああ……」
そう言いながらも口にはしなかった。
「食欲ありませんか?」
「ああ……」
警戒しているようだ。
そうだよね。毒殺の容疑をかけられて……怪しい私から毒を盛られてもおかしくないわけだし。
仕方ないので私だけ食べる。学園のシェフのスイーツも旨い。
……これだけ警戒するなんて、やっぱり彼が盛ったわけじゃないのかな。
「お前は、なぜ国を出るんだ?」
暫くして話しかけて来た。
「就職ですよー。天涯孤独な身の上なのです。どうせなら国を出てみようと思いまして。南の大国フィリアは、身分に関わらず試験に受かれば役人になれるんです!今申し込めば来月の試験を受けられるので、挑戦してみようと思ってます」
貴族の間では、南の大国を目指す人は少ない。
けれど、身分制度が比較的緩いフィリアは平民にとっては憧れの地でもある。
「フィリア……」
「素敵な国だと聞いています。今から楽しみです」
フィリアは暖かい国特有の、陽気な人の多い印象の国だ。音楽が溢れ、フルーツが名産。そして世界で一番栄えている。共通語も通じるけど、私はフィリア語も話せる。
辛い思い出の多いこの国を出て向かうには、あまりにも楽しそうな予感にあふれる、眩しすぎる土地である。
「フィリアはいいな」
「え?」
「フィリアまで同行していいか」
「……本当に?」
何を考えているのだろう。
国外追放されたからと言って、誰かと連絡を取って国に戻るのだろうと思っていた。
フィリアまで行く理由が分からない。遠すぎる。……逃亡するの?
「お前はなぜ俺の名前を知っている」
聞かれていた!
「えっと遠くからお姿をお見掛けしたことがありまして……」
嘘ではない。そして国民ならばそんな機会があってもおかしくない。夜会の服のままだから、いかにも王族っぽい恰好だったし。
「なぜ何も聞かない」
「……恐れ多いからです」
「その割に、物おじせず話しているがな」
「私はただの平民です」
「名前は?」
「ただの……エミリアです」
「俺はリオと呼べ」
「お、恐れおおくも」
「……偽名だ」
「……」
本名で呼び続けるわけにいかないもんね。
「リオ様」
呼んでみると彼は満足げにふっと笑ってから延々と続く森を見つめた。
私のことも疑っているんだろうか?なら同行するなんて言わないか?良く分からない人だ。
そうして私の不思議な旅が始まった。
隣国に着くまでの馬車の中、彼はあまり話さなかった。
時々眠りに落ちていて、そんなときは苦しそうに魘されていた。
起きているときは難しい顔をしていて、これからのことでも考えているのだろう。私も人のことどころではないので、フィリア語の復習に語学書を読んで過ごしていた。彼はそんな私をちらりと見たけれど何も言わなかった。きっと王子であった彼は語学も堪能なんだろう。
隣国に着くと、馬車の御者さんにお礼を言って別れた。
ここで一晩泊ってから、乗合馬車でフィリアを目指すつもりなのだったけれど……リオ様を連れて乗合馬車に乗るわけにもいかないし、どうしようかと思い相談すると、それでいいと言われた。
宿屋に行く前に「換金は出来るのか?」と言われる。
どうやら身に着けていた宝飾品を売りたいらしい。金銭を持っていないと言う。その事実で、本当に追放などではなく、死刑のつもりで置き去りにされたんだと伝わってくる。
親切にしてくれた食べ物屋のおじさんに聞いて換金場所に行くと、それなりの値段で買い取ってくれた。買い叩かれていなそうな様子なのは、彼の威圧感ある容姿に気圧されているのかもしれない。
「いいお値段で買い取ってくれましたね。それだけでもフィリアに着いて暫く暮らせるほどあります。残りはフィリアで換金してくださいね。貨幣が変わりますから」
そう言うと、彼はマジマジと私を見つめた。初めて私に興味を持ったような態度だ。
「お前は学校を出ているのか?世慣れているように見える」
ぎくぎく。
「平民も行ける学校ですよ」
「フィリア語など学べるのか?」
「え、えーとぉ」
そうこう言っていると、御者のおじさんが換金所に入っていくのを見た。きっと私が渡した指輪を売るのだろう。そう思っていると、リオ様が言った。
「……お前はどうやって馬車を雇ったんだ?何か渡したのか?」
「え」
そんなこと言われると思っていなくて驚いていると、返事をしない私を置いてリオ様が走って店の中に入っていく。馬車を雇ったのは、山奥の学校からはそもそも馬車を手配しないと街までも行けなかったからなのだ。
呆然としていると、リオ様が私を見据えながら戻ってくる。
「世話料だ」
そう言って、私の手に、ポトン、と母の形見の指輪を落としてくれた。
「わっ」
「道中の金は俺が出す。これは長く手入れがされてきたものだ。大事なものだったのではないか?」
「……母の形見です」
「……は?」
ぎゅっと握り締めて、笑顔を向けて言う。
「ありがとうございます!とても嬉しいです!」
「なんだお前は」
呆れられるようにそんなことを言われた。
そうしてリオ様は、もう一度マジマジと私の顔を見つめた。珍獣を見つめるような眼差しの気がしたけれど、気にしないことにした。
私は感動していた。
すごい。この人は本当に王子様なんだ!
なんだろう……これ。
私のこともろくに興味がないようだったのに、とても自然に……守るべき者のように接してくれた。
第三王子は、徒党を組んで誰かの悪口を言うような集団だったのに。そこに元婚約者も入っていたから本当に辛かった。リオ様だって、多少横柄な口調な気はするけど、行動が全然違う。どこか清らかさを感じる。
王子たちには欠片も興味がなかったけれど……私はたぶん、この時初めて、リオ様に強い興味を持った。
宿屋で二部屋取ってからハタと気が付いてしまった。
「資金が潤沢なのですから、もう私がご一緒してなくてよろしいんじゃないんですか?」
首をかしげてそう言うと、彼は少し考えていた。
「確かにそうだが、迷惑でなければ同行したい」
なぜだろう。
「身を隠して旅をしたい。女性との旅の方が怪しまれない」
リオ様はずっとローブを頭からかぶったままだ。
「そして、俺自身が世間を知らないのもあるが、お前を一人にするのも気がひける。女の一人旅は危ないだろう?」
それはそうだけど、リオ様と一緒に居る方が危険かも……とも思う。
リオ様が生きていると分かれば、きっと狙われる。だから本当は安全な旅のためなら別れるべき……でも。
「確かにそうですね……では!旅のお供をお願いします」
「宜しく頼む」
私の中にはもう、指輪を返してくれたリオ様を心配する気持ちが芽生えてしまっている。
あと、興味がある。
この人には指導者となるのに向いている人の気質のようなものを感じる。きっとそんな人にはもう出逢うこともないだろうから、今だけでもおそばで見ていたいなって、ちょっとした好奇心だ。
そうして私たちは大国までの三週間ほどの行程を一緒に過ごすことにした。
リオ様は、放って置くと自分では何も飲もうとしないし、食べようとしないから、私は最初は結構気を遣っていた。
「リオ様少しは食べませんと」
「食欲がない」
「これは消化がいいですよ。少しは入りませんか?」
飲み物も食べ物も、宿屋の手配も全て私がやっていた。
次の馬車を手配するときはいつも、追跡を躱せるように、偽の行き先を匂わせるように違う馬車乗り場に並んだり、手間暇もかけるくらい神経を張り巡らせていた。
「喉が渇きませんか?」「お食事はどうされますか?」「洗濯物は?」「浴場の使い方は分りますか?」その全部に、リオ様は私を当たり前のように使用人のように使おうとしたし、それでも良かったけれど、すぐにそうではないと気が付いてくれた。
「やり方を教えてくれ」
平民相手にそんなことを言われるとは思わなかった。
街で自分で食べ物を買うようになると、彼も食事を摂りだした。洗濯も自分でしてくれて、まるで平民のようだ。きっと自分でしたことなんてないだろうに。だけど敢えて自分でやろうと思うところも、好感度が高まる。
そうしてくれることで、とても過ごしやすくなった。
そこからはその旅は、思いの外、ずっと楽しいものになった。
毎日食べ歩く、知らない土地の感想を言い合う、ただの楽しい旅だった。
「甘いものなら少し食べられるようになってきましたね」
「あまり食べたことはなかったがな」
「水の都ですよ!噴水が綺麗ですね」
「この国の素晴らしいところは、水路の発達技術を、同盟国にも提供しているところだ」
「この地方のフルーツを使ったパイですよ!!食べてみてください。あ、分けて食べましょう?どちらがおいしいですか?」
「シナモンの方がおいしいと思うがお前はどうだ」
「私ははちみつの方が……」
「……へ?リオ様その抑えつけている人は?」
「スリだ。財布を奪われていた。気を付けろ」
「ありがとうございます」
「こうやって表面を焦がして食べるとおいしいんですよ」
「簡単に魔法で火を出すな。お前……魔法が使えたのか?」
「リオ様ほどじゃありませんよ。庶民の知恵です」
「……そんな簡単なものじゃないぞ」
「見てください!あの大きな動物!人が乗ってますよ!」
「あれはゾウと言って……乗りたいのか?」
「高いところ好きです」
「この国は水害対策に貯水池を作ってるんですよね」
「魔法国である俺たちの国は、魔法で対策することが多いな」
「天災を減らせるといいんですが」
「それは悲願だな」
「タレと塩の串焼きどちらがいいですか?」
「どちらでもいいから、分けてくれ」
このころになると慣れて来て、私の串焼きから直接リオ様が食べていくようになったので、距離感がおかしくなっていた。
「リオ様!海ですよ!初めて見ました!!船ですよ!!」
「分かったから。乗り出すな。お前泳げないだろう。落ちたら死ぬぞ」
「魔法で浮力を上げられますから」
そう言って胸を張ると、想像したのか噴き出すように笑われた。そう、リオ様が笑うようになった。
「魔法が使えない状況と言うのもある。フィリアに行くのなら、いずれ泳ぎを覚えた方がいい」
「泳げるようになりますかね?」
「俺が教えてもいい」
教えてくれるほど長くいるのだろうか。そう不思議に思っていると彼はただ口角を上げて笑った。
「リオ様あそこは、たくさんの高い木が植えられてますね」
「風害対策だろうな」
「リオ様はたくさんの知識をお持ちですよね」
「……俺は、お前が多彩な知識を持っていることの方に驚いているぞ」
気持ちの良い風を感じるように、温かな太陽の日差しを浴びるように。
全てのしがらみから解放されて、何も持たない私は、自由な旅を満喫していた。
学園ではずっと息が出来ないような苦しい気持ちで過ごしていたのに。
嘘のように心も体も軽い。
まるで『非日常』。
ただの私は、こんなにも生きることを楽しめるんだって、不思議な気持ちになって。
そうすると、どうしてあんなにも苦しんでいたのかなって、落ち着いて考えられるようになっていく。
笑ったり感動したり、時々ぼんやりしたり。
そんな旅の間、リオ様は、楽しい旅の仲間だった。
リオ様は尊大で、自信に溢れているような人で、私のような下々の者とはいつだってどこか違っていた。目を離すと、その聡明そうな瞳で遠くを見つめている。
今は国外追放なんて憂き目に遭っているけれど、本来なら国王になってもおかしくなかった人なのだ。
きっと、フィリアに着いたら彼は自分の人生の為に行動を起こすのだろう。
これからどうするかなんて、彼は少しも話さない。
旅の間はただの若者のようで、本当にどうでもいいような会話に付き合ってくれている。まるで旅を楽しんでいるようだ。立場も何もなかったら、彼は本来はこういう人だったのかもしれないんだな、と不思議に思う。
なんていうか、思っていたよりも普通なのだ。良く笑って機知に富む、旅の間同行者として気遣ってくれる人。気やすい会話で和ませてくれる。
だけれど彼は、立場の弱い第二王子として生まれてきて、自由なんてきっとどこにもなくて、王太子になるようにと期待されていた。本人の意思や望みに関わらず、背負っているものが生まれつきとても多くて、だから努力して鍛えて学んで、それでも……あの夜『負けた』と言われた人。
――嫌だな。
なんだろう。彼を見ているとそう思うことが多い気がする。心から嫌だと思う。
沸々と湧いてくるこの感情はたぶん……怒り。
あの夜、彼が第三王子を睨みつけていた、怒りの籠った眼差し。私はあの瞳に、きっとただ……共感したのだろうと思う。
私の腹の底には怒りが渦巻いている。
圧倒的な理不尽にただ押し潰されるだけだった無力な自分。父の死を前にして何も出来なくて、上手く立ち回れずなんの助けの手も得られなかった。婚約者と上手くいっていれば援助を続けて受けられたかもしれないのに。学校に行っていなければ何か出来たかもしれないのに。親戚に頼めていれば。対策が出来ていたら。全部をきっと私は生涯後悔する。絶望と、恐怖と、悲しみだけの記憶。
あの夜。
私は勝手に、『負けた』彼の中に、自分の姿を見つけて、怒っていたのだろう。
元婚約者が学友たちと笑っている。「見すぼらしい」「間抜けだ」「みっともない」。父が亡くなるかもしれないと不安だった日々も。亡くなった後の孤独な日々も。彼らは笑っていた。ずっと息が出来ない気持ちだった。私の居場所はどこにもなくて、まるで死人のように過ごしたあの学園で、神経をすり減らした私は。
「……エミリア」
声が聞こえる。
「エミリア、起きろ」
頬に何かが触れる感触で目を覚ます。
目を開けると、漆黒の瞳が私を見下ろしていた。
「起きたか、エミリア」
すぐ目の前に焦るような表情をしたリオ様がいた。私の頬を何度も撫でる。
「はわわわわ……あ、れ?」
目が潤んでいるし鼻声だ。泣きながら眠っていたらしい。
「勝手に入ってきてすまない。起きて来ないから心配して見に来たが、うなされていたのが聞こえて来た」
「それはそれはご心配をおかけして……」
机の上のタオルを取って顔を拭くと、リオ様が神妙な顔をして私を見ていた。
「なぁ、エミリア」
「……はい」
「良かったら話してみないか?俺で良ければ、話を聞く」
見つめると、リオ様は真摯な瞳を私に向けていた。
リオ様は優しい人だ。きっと心配してくれたのだろう。
けれど、ただの旅の同行者として何を話したらいいのだろう。
「昔、辛いことがあったんです」
「そうか」
「……リオ様は」
「なんだ」
「どうしたら、恐怖を越えられると思いますか?」
「……恐怖?」
私はお腹に手を当てる。
時々腹の底から湧き上がるような、理不尽に対する怒り。
それが怒りであるのは間違いないけれど……その感情が湧き上がるだけで泣きたくなるのだ。悲しくて、あまりに苦しくて……抱え持った圧倒的な感情を吐き出してしまいたいと願う。そして……どうしようもなく怖いと思う。恐怖で息が出来ない、死んでしまうと、もがいている。
誰か助けて、怖いの、と、今でも。あの時の全ての記憶が私を苦しめる。
まるで小さな子供のようではないか。
そう思って薄く笑ってしまうと、リオ様の頬がピクリと動いた。
リオ様は視線を伏せ考えるようにしてから言う。
「その克服は俺自身も考え中だ」
「……」
「……だが」
リオ様はベッドの端に座ると、私をまっすぐに見つめて言った。
「過去は変えられない。けれど、次に同じことがあったときには俺が守ろう。君は命の恩人だ。俺の命に代えても、君を守ると誓う」
リオ様の言葉に、頭が真っ白になる。
「え。リオ様がですか!?」
「そうだ、未来を恐れないで済むなら、恐怖は薄れるだろう」
「え……そういうものですか?」
「そうだと思うが」
「なにか違和感ありません?」
「どこがだ」
真面目な顔のリオ様に思わず笑ってしまう。
だって、きっとフィリアに着いてお別れしたら、もう二度と逢えるかも分からないのに。
「もう一つある」
「?」
「感情をため込むと体を壊す」
リオ様はそう言うと私の頭にぽすりと手を乗せた。
「泣きたいだけ泣いた方が良い。押し殺すと、また一人で泣くことになる。友として、君の悲しみに寄り添うことも誓おう」
「友……」
「何が悲しかったんだ?」
「父が……亡くなって」
「ああ」
「婚約者が酷くて」
「婚約……?」
「破棄されて……何度も罵倒されて」
「そうか」
「物が盗まれたり閉じ込められたり水をかけられたり、食事を摂れなかったり、誰も口を利いてくれなかったり」
「……そうか」
「母も亡くなって、大事なものは何もかもなくなったけど、でも、卒業出来て、私は、恵まれていて……」
そこまで言ってからポロリと涙が溢れてしまう。
「あ……」
リオ様にそっと抱きしめられて、子供のように頭を撫でられると涙が止め処なく流れる。
「悲しかった……」
「ああ」
リオ様はただ話を聞いてくれていた。
「辛かった……」
「そうか」
否定せずに側にいてくれる人の温かさを感じるというのは、こんなにも落ち着くのかと私は初めて知る。まるで私を受け入れてくれているように思えた。一人ではないと思うことを、彼は教えてくれているようだった。
「俺はお前の味方だ。もう怯える必要はない」
「……はい」
味方。敵ばかりに思えたあの時に、得ることが出来なかったもの。リオ様の胸は温かかった。たくさん泣いた。涙が止まらなかった。泣き疲れて、まだ朝だったのに……私はもう一度眠ってしまっていた。
そうして数日後、ついに南の大国フィリアに着いてしまった。
陽気な音楽に溢れる南国情緒あふれる街に降り立ちながら、私は憂鬱な気持ちになっていた。
ここでリオ様とはもうお別れなのだ。
「リオ様、今までありがとうございました。リオ様へのご恩、私の方こそ生涯忘れません」
深く頭を下げた私に、リオ様は驚いていた。
「何をまるで今生の別れのように言っている」
お別れだからです。
「リオ様こそ、お忘れにならないでください。私こそ、友として、いつだってリオ様の悲しみに寄り添いましょう。未来にリオ様が恐ろしい目に遭うときには、手助けしましょう。どうかこの先困難に苦しめられても、一人ではないことを思い出してください」
「……エミリア、俺は」
リオ様はそう言ってから、ハッとしたように顔を上げた。私の後ろの何かを見ていた。
「やぁ」
突然私の後ろから声が響いて、振り向くと背の高い、長い赤毛のくせ毛を背中まで垂らす青年が居た。線が細く、まるで女性のように美しい彼は、南国の軽装に身を包んでいる。顔を隠すように帽子を深く被っている。
けれどそのお顔を私は知っている。彼は学園の留学生だった。
「イシュ……」
イシュハル様はこの国の第三王子。優雅な姿からは想像が出来ないほどに一人で行動することが多かった。彼は、図書室に入り浸っていた私のところに良く現れた。ただ面白い本を教え合うだけの友人だった。そう友人。彼は学園の底辺の私と秘密の友人になるのも楽しいだろう?そう言っていた。
「……」
どう見てもお忍びのそのお姿に名前を言ってもいいのか悩んでから言葉を失っている私に、イシュハル様はにっこり笑った。
「二人とも久しぶりだね。一年ぶりだよね。元気だった?」
「お、お久しぶりです~~」
懐かしくて泣きそうになりながらそう言うと、イシュハル様は楽しそうに笑った。
「二人ともだと?」
リオ様が訝しんでいる。
「ん?へ~?気付いてない?ね?」
イシュハル様はウインクするように私を見つめた。
「迎えに来たよ、我が友よ。仲が良いと思っていた二人が来てくれると思わなかった。良ければ二人とも私の離宮に案内するよ」
「あ、私はいいです。役所に行って簡易宿紹介してもらったりと、忙しいので!またお会いできたら嬉しいです。それでは!」
「え」
イシュハル様が本当にそう思って言ってくれているのは分かっていたけれど、お言葉に甘えられる身分ではないので振り切って逃げる。走り去る私を二人は呆気に取られるように見ていたけれど、追いかけようとするリオ様をイシュハル様が止めているようだった。そうしてよく見るとイシュハル様はたくさんの護衛に囲まれていた。
一月後無事に試験に合格し、宿から寮に住まいを移すと、やっと一息つける気持ちになれた。
就職が決まった!安定した職業に就いて、一人で生きて行ける……こんなに嬉しいことはない。
お父様お母様。育ててくれてありがとうございます。二人のおかげで仕事に就けました。
リオ様にも伝えられたらいいのに……そう思うけれど、どこでどうしているのかも知らない。
探す気もない。またいつかどこかで出会うことが出来たなら、その時は困っていることがないか聞いてみたい。今度こそ彼に私の方が寄り添う番だ。
事務員として採用され、書類仕事に追われる日々の中で、忙しいながらも同僚に一緒に食事するような友人が出来たり、上司に恵まれたりして、日々が落ち着いて行くのを感じていた。
それはかつて学生時代には感じたこともないような充実感だった。
失敗することもあるけれど、反省しながら、周りの人と相談して、自分にも役立つ仕事をさせてもらえている。
ただそんな日々を過ごすだけで、心の奥に抱えた辛かった記憶が少しずつ薄れていくのを感じた。
ここには自分を蔑む人も役立たずだと言う人もいない。
一度職場の飲み会の席でそんな心情をぽろりと零したら、そんなことは当たり前だと、泣かれたり怒ってもらえたりした。
その時にふと、リオ様のことを思い出した。
リオ様は泣いても怒ってもいなかったけれど、ただ寄り添ってくれた。あの行動が私にはとても好ましいものだった。あんなにも心を満たしてくれたのは初めてだった。リオ様以上には、誰も、心の奥に入り込んでしまうような人には出会えなかった。
時々……時々だけど、心の奥底から消えないこの想いは、もしかして恋なのではないかと思うことがあった。
そんなことを思うことすら許されない人なのに。
なんでもないような会話しかしなかった。何も彼のことを知らない。
だけど私の心の大事な部分にリオ様が入り込んでしまっている。
困難な人生に抗うようにぎらぎらとした眼差しを向けていた王子様。
聡明な瞳で物事を語るときの知的さ。魔物にさえ剣を振るったんだろう、強い身体。
尊大なのに寛大で、小さな私の悩みなど大きな心で受け止めて、寄り添ってくれる優しさを持った人。
彼の存在が、私の心からいつまで経っても消えない。
一年経った頃、魔法研究所に移らないかと相談があった。
「魔法課所属とはいえ私は事務員ですよ?」
「大丈夫だよ。魔法研究所は、魔法使いを雇っている専門部門なんだけど、君の経歴を見て是非にとお願いされたんだよ。話だけでも聞きに行ったら?給料がかなり上がるはずだよ」
「お給料がですか!」
それなら高級肉も夢ではないかと思い話を聞きに行くと、魔法研究所の所長はイシュハル様だった。
「やぁやぁ、元気だった?」
「え、え、イシュハル様!?」
ふふん、と楽しそうな笑みを浮かべた彼は、「僕が所長だよ~」と言った。
「と言っても、国に戻って来たのは僕も最近。ずっと外交の仕事もさせられてたからね」
「そうだったんですか~」
「君のことも気に掛けてたけど、伝え聞く限り楽しそうにしているみたいだったね?」
「良くしていただいていましたよ~フィリアは良い国ですね。国が豊かなおかげで、皆さん優しくて生き方に余裕があると思います」
「あ~あの国に比べれば多少はねぇ」
「……」
生まれた国は、厳しい階級社会で、貧富の差も激しかったから。
「ずっと会いたかったんだけど、戻って来たことだし、折角だからスカウトしちゃおうかと思って声掛けたんだ」
「はぁ……」
イシュハル様は私の胸のペンダントをじっと見つめた。
「学園でずっと研究していただろう。そのペンダントについて」
「そうですね。いろいろな魔法を魔道具に応用できないかと思って」
「それは魔物除けだけど」
「効果は抜群ですよ!」
お父様の形見は、かつておじいさまが作ったと言われる立派な魔道具なのだ。
「効果範囲はどれくらい?」
「この部屋くらいはありますかね……?触れている者に対しては寄ってこないですよ」
「量産出来るのなら、そういうものでもいいのかもしれないが」
「?」
イシュハル様はため息を吐くようにして言った。
「緊急でね。来るべく災害に向けて対策を練らないといけなくなったんだ」
「……災害ですか?」
「そう。魔物が引き起こす、災害対策」
「魔物がですか?」
「そうだ。魔物をおびき寄せ、洪水だろうが、土砂くずれだろうが、自在に引き起こせるとしたらどうする?」
想像するだけでぞっとした。
「え?本気ですか?おびき寄せた魔物をどうするつもりなんです?自然災害の前に、人も土地も荒らされますよ。死者が出ます」
「それが可能だとしたら?」
「……」
「誰か一人の命を狙うためにおびき寄せた魔物が、そのまま自然災害に繋がったとしたら?」
「それは」
「例え話だよ」
例え話でないと困る。
魔法国家ミーニアムで、先の災害で真っ先に亡くなられたのは第一王子だった。その死に疑いがかけられたら、国が荒れるなんてものじゃない。
イシュハル様はにっこりと笑うと言った。
「協力してくれるよね?」
◇◆◇
生まれてからずっと、比べられてばかりの人生だった。いつだって、より不利な条件で。
兄王子は、王妃の子であり、能力にも問題はなく、期待され人望もあった。
そんな存在と比べられる謂れもないはずなのに、常に比べられていた。悪い意味でだ。
『兄王子の方がより優れている』その言葉で、側妃の子の評判を落とし、王太子を持ち上げるためだ。
俺の存在がその程度のものだったのも理解していたし、それでいいと思っていた。
だが兄が亡くなった。彼は十八歳だった。誰も王太子の早すぎる死を想像していなかっただろう。
今度は、比べられる対象が異母弟になった。
十五歳だった俺と、弟王子のどちらかが王太子になるのだと競い合わされた。
出来が良くなく、歪んだ性根を持っている弟よりも、人望だけなら俺の方があったのかもしれない。けれど母を亡くした俺は最低限な教育しか受けておらず、後ろ盾もなく人脈も築けない。もともとが、弟の下になるように育てられていたのだ。俺はまた弟を持ち上げるための駒になるのだと思った。
弟の残虐性は幼い頃から際立っていた。使用人に対する厳しい罰や拷問の話を伝え聞いていた。父王の叱責など聞き入れないと言う。ある日、血だらけの死体のようなものが廊下に転がっているのを見た。使用人だった。まだ生きていた。弟に聞けば、彼の持ち物を落としたのだと言う。ただの紙切れ一枚を。
怒りが湧いた。
だが俺は、その時心に抱いた怒りの意味が、今でも掴めない。
弟の人間性に対してなのか。
不当な体罰のせいなのか。
己の青い正義感のせいなのか。
こんな人間と比べられている自分の立場のせいなのか。
その上で下に見られる自分に対してなのか。
理由も分からないのに、これを王にしてはいけないと、本能が言っていた。俺が彼と争うことにしたのは、ただそれだけの理由だった。
争うことは、自分の身を危険にさらす。
母の死は毒殺が疑われていた。その声は、王家の医師により消されてしまった。その日まで病気もなく元気であったが食後に不調を訴え、そのまま亡くなったのにだ。何が心臓の不調による突然死なのだ。身内である俺が一番にその不審死に疑いを持っている。
ここは、かつて存在していた闘技場の中のようだと思う。奴隷同士を死ぬまで戦わせていたという、負の歴史の中にあったもの。俺は死ぬまで戦うしかない、王家の奴隷だ。
凡庸であるように育てられた自分の境遇を知っている。そしてそれが己の命を守る術だ。
なのに……その時の怒りは俺を変えた。
体を支配したその怒りを、生きる意味にしてしまった。
いらぬ存在として育てられた王子として、生きる理由などどこにもなかったのに、死に導かれる短い道を歩んでいるというのなら、せめてたった一つの生きた証を見出したかった。
それは無理なのだろうと、学園生活で思い知った。
幼い頃から各家門と親しく過ごしていた弟には圧倒的に味方が多かった。彼らの思惑から、俺の存在自体が避けられ疎んじられている。
俺には、幼い頃から体を鍛える自由くらいしかなかった。肉体の強さは誇れるが、それだけだ。学園は、学びの場としては最適だったが、社交に疎い武骨者の俺には、弟ほどの取り巻きや派閥を作れない。幼い時に決められていた婚約者はいつの間にか弟と仲良くしているようだった。あの狂気の弟は、女には優しいのか、騙していたのか。
それでも俺を支持する勢力の接触は多く、騎士科を首席で卒業した後は軍部で実績を上げていくことになっていた。その矢先の出来事だった。突然の拘束。謂われなき罪状。国外追放と言う名の処刑。
魔の森に放り込まれ、兵士たちが離れて行ったあとは死を覚悟した。
どうして今も生きていられているのかが、正直分からない。弟もその後ろ盾も、俺を生かしておくわけなどないのだ。
俺を助けた平民は、エミリアと言った。助けたと言うのが正しいのか分からない。あれは拾ったと言うんだろう。
初めは誰かの手のものかと疑っていたが、どうやらそうではないようだ。
小柄で痩せた少女だった。年下だと思っていたが学校を卒業したと言い、同い年のようだ。物事を良く知っていた。どこか放って置けない子だった。親の形見を気軽に御者に渡しているような子だ。どこで誰に騙されるのかと心配になる。
知人を頼りにし、現状を立て直そうと思っていた。国を弟などに任せられると思わなかった。
けれど、旅の日々で、経験したこともないような平民の暮らしを味わった。
「リオ様!これもおいしいですよ!」
毎日、エミリアが屈託なく笑っていた。
何もかも失った何も持っていないはずの自分との旅の時間を楽しんでいるようだった。
何も考えずに彼女と話す日々は気が楽だった。素性も良く知らない彼女と話すのはとても楽しかった。束の間の休息のような時間。
穏やかな時間の中、俺は考えた。
俺が平民だったのなら、このように過ごしていたのだろうと。
民にとって、日々の暮らしが大事なのであって、王が俺であろうがなかろうが、おそらく興味もないのだろうと。俺自身が生きる理由にしていたものは、一体なんだったのだろうか、と考える。弟の残忍な性質は問題だが、諫める者がいれば、理由もなく民を虐殺したりはしないだろう。だからこそ弟が選ばれたのだろう。俺は価値のないものに価値を見出そうとして生きていたのかもしれないと思う。
生まれが違っていれば、ただの旅人であったなら、俺は何を望んで生きたのだろうか。
宿屋で目覚める朝に。知らぬ土地の慣れない食事の美味しさに。旅の仲間との面白い会話に。
小さな喜びや楽しさが積み重なる。
もしも何も持たぬ民であったなら、きっとこの日々が続くことを願い、大事な人を守るために生きるのだろうと思った。
彼女と過ごす時間はとても楽しく、居心地が良かった。
女性としてもこれほど合うと思えた者に会ったのも初めてだった。どれだけ話しても話が尽きない、知性の高さもだが、その見解は心地よく、また良く見れば、細すぎると思っていた華奢な手足も、瑞々しい白い肌も、綺麗な空色の瞳も、女性としての上等な美しさに溢れ、心を捉えられる。
とはいえ、俺の人生に巻き込むわけにはいかない。
深く踏み込むことはせずに別れるつもりだった。
「無事で良かったねぇ、シュリオン。探してたんだよ。この国にいる限り身の安全は保障しよう」
「イシュハル。とてもありがたい」
イシュハルの離宮は、異国の豪華絢爛な装飾品に溢れていた。フィリアの国の豊かさを感じる。
「知らせを受けてすぐに迎えに行ったんだけど、立ち去った後のようだったと連絡を受けた。道中も追手を撒いていただろう?国に近づくまでは分からなかったよ」
「探してくれていたんだな……」
学友だったイシュハルは、飄々とした性格の留学生だった。
誰とでも親しくなりながらも、心の内を悟らせない男だ。
「そりゃ、僕も親近感あるしね。似た境遇の他国の王子様ってね」
楽しそうに笑いながら彼は言う。
きっとそれが、真実俺と親しくした理由なのだろうと思う。
彼も立場の弱い第三王子として、友好的ではない我が国にまで留学させられていたのだ。魔法の知識に薄いフィリアから、魔法国家で学ぶ為だったと聞いている。
「戻らない方がいいよ。少なくとも今は時期じゃない。シュリオンの味方などいない」
「そうだろうな。国の様子を教えてくれないか」
「次の王家の夜会で、王太子の発表があると噂されている。反対派はすでに一掃されている。お前も、命が残っているだけ幸運だったんだ」
「……分かっている」
今の俺に出来ることなど命を守るために逃げることだけなのだろう。俺に何かが出来ると思うことなどおこがましいにもほどがある。精々、弟の派閥に反対するものが思惑があって沈む船に乗ろうとしてくるくらいだろう。
弟は婚約者候補を決めかねていたが、おそらくサファイアがその座に収まるのだろう。サファイアは美しいが狡猾で賢い女性だった。弟を諫めてくれるであろう。
「んで?」
「なんだ」
「エミリアはどこで会ったの?」
「……魔の森だ。旅の途中で拾ってくれた。平民だと言うがそうは見えない。知り合いか?」
うーん、とイシュハルは観察するように俺を見つめた。
「きっと……それが君が振るい落とされた理由だと、僕は思うよ」
「どういう意味だ」
呆れるような眼を向けてイシュハルは言う。
「同級生だよ?魔法科三位。でも本当は一位の実力があるのに教師にも嫌われて決してそれ以上には上がれなかった、エミリア・バートン。その名を聞いたことがないと言うのか?」
「いや、知っている。あれがエミリア……?」
印象に残らない外見の生徒だった。やぼったい眼鏡とローブでいつも容姿を隠していたように思う。
「バートン伯爵家は爵位を返上したはずだが」
「そうだよ。だから本人の言う通り平民で、本当に旅の途中だったんだよ。ただし、魔の森に一人で入れる実力を持っている稀有な人物だったけれど」
「嘘だろう……?」
それならば、学園の最終日のあの現場に彼女も居たということなのか。
初めから何もかも把握していて、俺を助けに来た?一体何のために?彼女はどこの派閥でもないはずだ。この国に辿り着く目的にも偽りを感じない。なんの意図で?俺と会話をしたことすらないのに。
イシュハルは深くため息を吐いた。
「疑わないでやってよ。あの子良い子なんだよ。他意なんてないと思うよ」
「……裏など感じてはいないが、だがそれならなぜ」
「言ったとおりなんじゃないかな」
「魔の森だぞ?死罪を言い渡されたに等しい王族だぞ?そんなのに関わるなんて普通じゃない。だからこそ無意識に除外していたんだ」
「広い世界にはそんな子も一人はいるだろ」
居ないだろう。他には誰も。
「俺を助け出したときに、待たせていた馬車の御者は、彼女の母親の形見の指輪を貰っていたんだ。運賃とは別に報酬で貰ったと」
「馬車を待たせるのに使ったんだろ。あんなところで待つようなやついないよ」
「……信じられない」
そこまでして、何も語らず、何も求めず、連絡先すら教えずに消えて行った。
初めは従者のように使ってしまった。
恥ずかしくも、洗濯物を渡すように要求されたときに気が付いた。女性に渡すようなものではないと。
「言っただろう。友だって。俺はあの学校で、貴族らしく裏表を使い分けられないような君たちが大好きだったんだよ。僕の大好きなもう一人の友は、そういう性格の子だったよ」
「……どういう性格だ」
「僕なら、あんな現場見て放っておいたら、夢見が悪いだろうってこと」
たったそれだけでか?本当に?
「そうだ確か、彼女は、迫害を受けていたと……そうなのか?」
「……本当に知らないの?あの国の階級社会の悪い部分が濃縮されているような学校だったのに。君は目の前のことに一生懸命だったけれど、底辺の者たちがどうしていたかなんて、気にもしていなかっただろう」
「……」
そうだ確かに、エミリアのことなどほとんど思い出せない。
社交に疎く、周りの人間関係を把握しきれていないことを自覚もしていた。自分自身を奴隷のように感じていながらも、その階級社会の現状を俺は理解していたか?いや、していない。
「……心に傷を受けていた。俺は何も知らなかったのか……?」
彼女を苦しめた同じ場所に存在していたのに、何も助けることが出来なかった。きっと俺の立場なら、いくらかでも力になれたはずだ。未来に助けるのではなく、本来助け出すべきだったその過去で。
「帰国前に何度か会わせようとしたんだけど、二人とも逃げちゃうんだよね。他人連れて来ようとすると」
「そうだっただろうか」
「だから二人にずっと言ってたんだ。何かあったらフィリアで暮らしな、いいところだよって。心のどこかで覚えていただろう?」
俺は暮らしに来たわけではないが、エミリアは移住して来たのだから、その言葉に心が動かされていたのかもしれない。国を捨て、新天地を目指したくなるほどの日々だったのだろう。
学園の彼女は、間違いなく、庇護下に置かなければならない存在だったはずだ。
なのに俺は何も出来ず、彼女に助け出されたことすら知らず、追放した国への恨みを抱えていただけだった。
「何だ俺は。彼女を守ると言ったのに。どうしようもないやつではないか……」
偽りの罪状を突き付けられたときよりも打ちのめされる。
国を守る大義を抱えながら、文字通り、自分の身近なところの足元さえ見ていなかったのだ。
なぜ彼女は、あんなにも笑顔を俺に向けられたのだ。なんの縁もなく、自分を助けもしなかった、学園の生徒を動かすことが出来た立場の者を。
あの日彼女は俺の腕の中で泣いていた。嫌がってはいなかった。なぜあんなにも心を許したように俺に縋りつけたのか。
「僕だって、なにもしてあげられなかったんだよ」
「……だが」
「この国にも問題はあるけれど……他国から自分の国を見てみるのは良いことだよ。父にも話を通してある。この国で暮らすと良い。それに、君に、助けて貰いたいこともある」
「それは助かるが、俺にか?」
「あの国の、王族にしか頼めないことだよ」
「……なんだそれは」
不審に思う俺の言葉に、イシュハルはにんまりと笑った。
◇◆◇
一年ぶりに見たリオ様の長い黒髪は短く切り落とされていた。
太陽の日差し溢れるこの国で、日に焼かれていたのだろう。浅黒い肌になっていて、その健康そうな顔に美しい笑みを浮かべて私を見つめていた。
「久しぶりだな。エミリア」
「……リオ様」
漆黒の輝く瞳はまっすぐに私に向けられ、その表情には喜びを感じさせる。
「ずっと会いたかった。あの時の礼を言いたかったのだ」
「そんな、私の方こそです。リオ様……」
私は混乱していた。
ここは魔法研究所。私が配属されて、その初日に紹介された上司がリオ様だ。
「お元気で……いらっしゃいましたか?」
「ああ、あれからこの国に保護されていた。エミリアも元気でいたか?」
「ええ……ええ」
無事で生きていらっしゃった……!
それだけで泣きそうに嬉しい。
リオ様はあの日のやつれたお姿からは想像出来ないくらいに、生き生きとしている。きっとイシュハル様はリオ様を守ってくださっていたのだろう。
「どういうことですか?リオ様は魔法研究所にいらっしゃったんですか?」
「そうだ。イシュハルに依頼され、俺自身も望んで、魔道具の開発に携わっていた。やっとエミリアを呼び寄せられるほどに開発が進んできた」
「私を……?」
リオ様は微笑むと、研究所の中を案内してくれる。研究員たちを紹介してくれて、最後に建物の地下にある研修室に辿り着く。
「ここに入れる者は限られている」
「はい」
地下には柱がありながらも仕切り壁のない広い空間が広がっていた。
檻のようなところに入っている獣のようなものに目をやると、そこに入っているのは魔物だった。
「ひっ……!!」
「大丈夫だ」
リオ様は安心させるように言った。
「あの檻が分かるか」
リオ様はひと際暴れまわる魔物を閉じ込めた檻を指を指した。小さな黒い塊のような魔物が私たちに向けて飛び回っている。
「はい……」
「魔物は人の持つ強い魔力に反応し、恐れ攻撃しようとしてくるのだ。俺の魔力ならば、檻から出せば命を奪おうとしてくる」
「は、はい……」
「だが……こうすると」
そう言うとリオ様は箱から小さな魔道具を取り出し、それを机の上に置く。
そうして私を促して檻とは反対方向に歩いていく。
すると魔物は魔道具に飛び掛かろうとするように暴れていて、私たちの方は見ていない。
「膨大な魔力を詰め込んだ魔道具だ。魔物はあれを敵だと認識している」
「あんなものどうやって……」
魔道具の致命的なところは、強すぎる魔力を与えようとすると壊れてしまうところだ。
だから良い効果を得るものを作る成功率は低くて、貴族の一部の間にしか魔道具は出回っていない。
「……魔法国家ミーニアムですでに開発されていたのだ。それを、フィリアでも同じものを作れるところまで来た。今はその次の段階に進んでいる」
「ミーニアムで……?」
「ああそうだ。俺たちの祖国だ」
嫌な予感がする。イシュハル様も言っていたではないか。人為的に起こせたらどうする?と。
「今は具体的に言うと、これの機能を進化させたものを作っている」
そう言ってリオ様は私の胸のペンダントにそっと触れた。
お父様が残してくれた、魔物除けの機能の付与された魔道具。
「魔物除けの魔術は……人の放つ魔力を中和し、魔物から感知させないようにするものだ。その魔術そのものを使える者が少ないから魔道具として出回っているものも少ない。開発しているものには、あの魔力を注ぎこんだ魔道具を無効化させる役割が出来るものを期待している。エミリアにも協力してもらいたい」
ああ……と私は頭を抱えたくなる。
「あの魔道具は魔物をおびき寄せることが出来るんですね?」
「そうだ」
「私のうちの領地は、たて続けの災害に襲われました。魔物が関与していましたか?」
「ああ、エミリア・バートン。同級生だった君を、俺は思い出している」
「え?」
「バートン領の災害は兄が亡くなった場所だ……恐らく。雨を呼ぶ魔物は土砂崩れくらいなら容易く起こせる。数を集めれば、水害を起こすことも可能だろう」
「……そんな……そんな!!」
どうしようもなかったと、何も出来なかったと、無力な自分を責め続けていたけれど、それが誰かの手によって引き起こされていただなんて考えたこともない。
「ならば私がこれを貰っていてはいけなかったのに、領地のお父様が持っているべきだったのに!」
泣きながらペンダントを握り締めて気付いてしまう。お父様は分かっていて私に渡した……?
「私だけは助けるために……私に託した……?」
何かあっても私だけは生き残れるようにお父様はペンダントを私の首にかけたの?
「お父様……!」
「エミリア……」
ぼろぼろと涙の止まらない私の肩をリオ様が抱きしめる。
「聞いてくれエミリア」
涙の向こうに真剣な表情のリオ様がいる。
「過去は変えられない。けれど、もう二度と同じことは起こさせない。そのために俺はここにいる。未来の被害は俺が、俺たちが防ぐ」
ぐっと強く肩を握られる。
「俺は約束を守る。必ず守ると誓う。そして、エミリア、君の悲しみにも寄り添う。涙が枯れるまで泣いていて構わない」
そう言ったリオ様にそっと頭を撫でられ、思わず声を上げて泣いてしまうと、今度は優しく抱きしめられた。
一年ぶりのリオ様の胸の中は、何も変わらず温かかった。
もう二度と逢えないと思っていたのに、あんな旅の途中の口約束を覚えていてくれて、また誓ってくれた。
「リオ様……会いたかったです」
「俺もだ」
「寂しかったです」
「……俺もだ」
同じ気持ちでいたなんて、そんなことあるんだろうか。泣きながら不思議な気持ちで顔を上げると、リオ様は言った。
「エミリアに顔向け出来るようになれるまで会えないと思っていたんだ」
「顔向けですか?」
「俺が情けない男だということだ」
首を傾げる私を見てリオ様は困ったように笑った。
そんなことないのに。リオ様はいつだって格好良いのに。そう思う私を、リオ様は愛しい者を見つめるような眼差しで見つめ、撫でてくれている。
そうしてそのまま涙が止まるまでリオ様は私を抱きしめてくれていた。
イシュハル様が説明してくれた。
「四年ほど前、海で引き揚げられた魔道具が、海を荒らす魔物を呼び寄せると気付いたんだよ。海の魔物と呼ばれているそれは、姿は人には見えない。ただ水の形をしているという。天候が荒れることでそれに気が付ける」
魔法研究所で保管されているそれは、今ではもう効果が残ってはいないという。
「引き上げられたときに効果はだいぶ薄れていて、大量の魔物に襲われたとかではないのだけど、確実に寄ってくるんだ。そんなものが世界に存在していていいわけがない。材料や技術からミーニアムを疑い、僕の留学に伴い秘密裏に調査が進められた。王太子を襲った突然の鉄砲水、その川の下流から流れ海に辿り着いたのだろう魔道具、何に使われたものなのかなど想像に難くない。回収するはずが海まで流してしまったのか、初めからそのつもりだったのか」
「バートン領で二年近くも続いた水害は……」
「それの影響だったのだと思われるが、まだ断定は出来ない。二年も続くなど、魔道具が回収出来なくなっていたのかもしれないが」
「そうですか……」
リオ様が震える私の肩を抱いてくれる。
悪意を持って引き起こされた災害などとても受け止め切れない。不幸の中で私の両親は亡くなった。
けれどリオ様が隣にいてくれることが今の私には有難い。
残酷な出来事を、もう二度と起こさないと、きっと彼なら言ってくれるから。
「あれほど強力な魔道具は、王族ほどの魔力を持った者にしか作れないんだ。だからこそ、シュリオン……リオの協力が必要だった。頑丈な器を作るのにも、魔力を注ぐのにも、膨大な魔力が必要になった」
「ああ、王族にしかできない……恐らくミーニアムでもだ」
王家の血を引く者は少ないはずだ。庶子まで含めたら分からないけれど……。
「弟王子の関与を俺は疑っている」
「そうだろうね。一番得をするのはアンドリューだからね」
「そんな……」
後継者争いの中で王太子が殺され、うちの領地は荒らされた。父母の死と私の不幸は、巻き込まれただけだというのか。
「すまない、エミリア」
「リオ様は関係ありません……」
けれど、この悲しみはどこにぶつければいいのか。
唇を嚙みしめて涙を零すまいと耐えていると、リオ様が私の頭を抱えた。
「必ず、報いを受けさせる」
そうだ。悪魔の所業を行った人々がいるのだ。
「第三王子の母である側妃の生家である、コーリース家が制作に関わっていると疑っている。そしてその隣の領地フォーガットが、今未曽有の災害に襲われている。バートン領と同じく、終わらない水害だ。フォーガットと我が王家は昔からの付き合いがある。調査と言う名目で訪れる予定だが、フォーガット領から、隠された、もしくは回収出来なくなっている魔道具を見つけ出せれば、彼らの罪を暴ける。一緒に行ってくれるか?エミリア」
「……私もですか?」
「そうだ。誰よりも魔法を使いこなせ、ミーニアムと水害に詳しいエミリアに、同行をお願いしたい」
「もちろんです!連れて行ってください」
乗り出すようにして返事をした私にイシュハル様は笑った。
リオ様は「俺も姿を変えていく」と言った。
灰色の暗い空。降り続ける雨。その景色は、かつて見慣れたものだった。
絶望と、悲しみに彩られた、幼かった私が見ていた景色。それと同じものが今目の前に広がっている。
フォーガット伯爵領に招かれ、私たちの調査は開始された。
「山間部へと向かう」
「はい」
魔法に長けた者ならば、強い魔力を感知する魔法を使える。私ならば、ある程度の距離まで近づけば、探索魔法の一つを使い、魔道具の場所を探せるかもしれない。
「顔色が悪いが。大丈夫か?エミリア」
「大丈夫です。リオ様」
リオ様は髪色を変え、魔導士のローブを被り、そして、認識阻害の魔法をかけてある。
リオ様は魔力は多いけれど、魔法を使いこなす能力は低い。そのための学びをしてこなかった影響だ。私もだが貴族の子女は五つの時から魔法の勉強をしている。リオ様は持っているはずの才能から遠ざけさせられるために魔法を学ぶことなく育てられていたそうだ。
世の中は悲しい悪意に満ちているなと思う。
圧倒的な理不尽は、手を変え品を変え、目の前に存在している。
「エミリア、感知出来ないか?」
「まだありません」
いつ崩れてもおかしくない、その危険な山を登っても見つけられない。
移動し、降り続ける雨の中、体力を消耗しながら歩き進むと、魔力感知に何かが引っかかる。
「感知あり。動いているので……魔物と思われます」
「なに?」
指示を受け、川に雷撃魔法を放つと何かに当たりキラキラと光が霧散していく。仲間たちが驚いている。
「魔物……か?襲ってこないなら、海の魔物と同じ種類のものか」
本来魔物などいるはずもない領地にいたことになる。
同じような魔物の痕跡を攻撃することを繰り返していると、下流に大きな反応があった。
「前方に複数感知。魔物か何かは分りません」
「複数?……ここか?了解した」
目視では何も見つけられないその場所は増幅した水の溢れる川の中だった。
「深いな」
「とても潜れないか」
「川の流れを変えます。リオ様のお力を借りれば出来ます」
「流れ?」
それは領地が水害に遭ったときに修得した魔法だ。一時、ほんの少し水の流れを変えられるようになった。ただ私の魔力だけでは長くは続けられない。けれど、リオ様の魔力を貸してもらえるのならば、きっと出来る。
「リオ様、魔力を私に注いでください。魔道具を作るときのように」
「ああ、分かった」
リオ様と手を繋ぎ、注ぎ込まれた魔力を感じ取りながら、少しだけ川べりに水の流れない隙間を作っていく。「おお」「こんなことが出来るのか」周りが騒いでいるのが聞こえる。少し広がったところで、「あれか!」とイシュハル様が叫んだ。同行の騎士が魔物除けを掲げながら飛び降り何かを拾い上げると、別の騎士たちに持ち上げられ戻って来た。
川を元に戻し、倒れ込むとリオ様が支えてくれた。
「大丈夫か?エミリア」
「あ……はい……どうでした?」
私の声に振り向いたイシュハル様が目の前に泥にまみれながらも光を発する魔道具を見せてくれた。
「おそらくこれだろうな。回収出来なくなったのか、意図して放り込まれていたのか」
「無効化出来ますか?」
イシュハル様は私の言葉に頷くと、騎士に渡された無効化の魔道具にそれを包んだ。
すると光がすうっと消え失せる。
「効いているな」
「そうですね……私の魔法感知からも消えました」
「魔物も消えていればいいのだが」
「居ます。殺してしまってもいいんですか?」
「ああ、もちろんだが。出来るのか?」
「おそらく。リオ様、また力を貸してもらえますか?」
「ああ」
リオ様と手を繋ぎ、今度はリオ様の魔力を使って雷撃魔法を感知場所に向かって投げつけた。投げつけた場所がキラキラと光り出し魔力感知から対象が消えていく。
「おそらく死んだかと思われます」
「そうか。よくやった」
仲間たちが小さな驚きの声を上げだした。雲間から光が差し込み、雨が弱まっていく。
「はっこれはすごいな」
イシュハル様が楽しそうにそう言った。光が大地を照らし出し、呪われたように雨が降っていた場所に光の筋をいくつも作りだしていく。まるで神々が降りて来そうな光景だった。
リオ様はそんな光景を吸い込まれるように見つめている。
「こんなものを作り出した人間は……きっと神の怒りを買うのであろうな」
ぽつりとそう言った。
私は考えていた。
一度作り出したものは、この先同じようにまた違う誰かに作られてしまうものなのだ。
その時に、今度こそは悲劇を生まぬ世界を作れたら良い。
弱まる雨を顔に浴びながら、日差しを体に受けて、祈るように思う。
お父様。お母様。
ありがとうございます。二人が学ばせてくれたおかげで、私は今、知識を蓄え、魔法を使いこなせます。
私を苦しめた物が分かっても、失ったものはもう戻ってこない。
これで終わりではない。これから先の悲しい未来を減らせるように。私でも、少しでも役に立てればいいのにと思う。
大国の王子イシュハル様が間に入ってくれたおかげで、動かぬ証拠としてその魔道具の存在を明らかにすることが出来、側妃の生家であるコーリース侯爵家にも調べが入り、魔道具の制作、及び王太子の暗殺疑惑、またこれからの他国を脅かしていく計画までが表沙汰になって行った。
魔道具の制作に関与した第三王子も処罰され、国を継ぐはずの王太子の座がまた空白になった。
そこに突如浮上したのは、追放された第二王子の存在だった。
コーリース家と共謀していたとして処罰された婚約者サファイア様のフローレンス家。取り調べの中で、第二王子を陥れたことも発覚した。すぐに国外追放された第二王子の捜索が始められた。
すると、イシュハル様から件の魔道具を無効化することに貢献したのは、亡命していた元第二王子であることが伝えられる。
悲劇の王子は、汚名を正当に払拭し、国に戻ることを切望されたのだ。
「おめでとうございます。リオ様。本当に良かったです。国に戻れますね……!」
彼の手を両手で握り締めてそう言うと、リオ様は困ったような表情を私に向けた。
「エミリア。俺は戻ったら、いずれ次の王へと望まれる者になる。他にはもう、争う相手はいなくなってしまった」
リオ様がなにをそんなにも苦しそうにしているのか、分からない。
「もう命を狙われないのならいいことではないですか」
あの日魔の森で、放っておいたら死にそうだった姿を見ている。彼が守られ安全な場所で暮らせるというのなら、それ以上にいいことはない。
「けれど……王子としての俺は一度死んでいるのだ。何も持たぬ者として生き、何を楽しいと思うか、何を喜びに思うか、今は、自分自身を知るただの男になった」
リオ様はただの男ではない。王になるように生まれた、素晴らしい人格の持ち主だと私は知っている。
「俺の望みは、エミリア、君と、ずっと旅をすることだ。旅をするように生きることだ。知らぬことを学び、反省しながらも、喜びを育んでいくことだ。そして、君の未来への不安と恐怖を消し去ることだ。エミリアを守れないならば、俺にはこの世界の誰も守ることは出来ない。国に戻ることに意味はない」
旅……?
それは、出会ったときの、最初のあの旅のことを言っているのだと分かった。
「……楽しかったですね」
「ああ、そうだ。あんなにも喜びにあふれた日々を他に知らない。代えがたい時間も、大事な人も知ってしまった。エミリアを守りたいと願うのは今俺だけだが、国を守る代えなど多くいるのだと、俺は知っている」
そ、そんなことは全くないと思うけれど。
「受け入れてくれるならば、エミリアの隣に俺を居させて欲しい」
今度はリオ様が私の手を握り締めて言った。
「愛してる。結婚して欲しい」
真剣な表情からその気持ちが伝わって来て、ぶわりと涙が溢れてしまう。
「そんなことしたら帰れなくなるじゃないですか」
「共に戻ることも可能だ。バートン領は陰謀に巻き込まれた土地だ。爵位を戻すことも可能だろう」
「でも。私はずっと学園で見下されてて」
「エミリアの能力は桁外れだよ。皆分かっている。今回のことにも関わっている。実績を作ってから戻ってもいい」
「でも」
「愛せないというのなら諦める」
「……でも」
「世界で一番君が大切なんだ。君との約束が守れないならば、祖国での未来など必要ない」
「リオ様……」
馬鹿、馬鹿です、そう言いながらリオ様の胸に抱き着くと、リオ様はそうなんだよ、なんて笑いながら言う。
「エミリアは、俺に喜びと、愚かさを教えてくれた」
そう言いながら、私を抱きしめるリオ様に、
「リオ様が世界で一番好きです」
そう告げると、さらに抱きしめる力が強くなった。
「この先、困難に苦しめられても、リオ様は一人じゃありません」
いつか言った同じ台詞を私が言うと、リオ様が「エミリアもだよ」と答えてくれた。
初めて出会ったときの旅は楽しかった。この先の旅は、もっともっと長く、きっと苦しい時もたくさんあるものになると思う。
それでも。旅の道連れとして寄り添うように隣にありたいと思うのだ。
順調だったわけではないけれど、イシュハル様の影響力は大きく、先に大国で入籍を済ませていた私たちは、王太子とその妃として祖国に帰国することが出来た。
帰国を祝う式典に、卒業から二年が経っているけれど、学園の同級生たちもちらほら姿が見えた。あの日、彼の追放を見送った人たちは今どう思っているんだろうか。
元婚約者は第三王子派だったけれど、爵位が低かったから共謀していなかったのだろう。式典で睨むように私を見つめていた。
その視線を受けてリオ様は「彼か?」と聞いた。「お気になさらず」と言ったけれど、王太子に目を付けられたら彼のその後が心配になる。「交流もずっとなかった方です」「そうか。覚えておこう」結局覚えられてしまった。
帰国後は慌ただしい日々が続き、あっという間に時が過ぎて行った。
病気で弱っていた王が亡くなった。リオ様が即位したのは二年後だった。
子供が出来たときにはリオ様は言った。「闘技場の無い国にしなくてはな」この国に闘技場などないけれどなんのことだったんだろう。イシュハル様は子供が出来る度にお祝いに来てくれて、子供同士も仲良くなった。
長い年月が経って。孫も出来て。老いて。きっとあと数年の命だろう、そう思う時がやって来て。
「たくさんの旅をしましたね」
「ああ、楽しかったな」
「私にも何か出来たでしょうか」
「私たちの旅はきっと少しだけ世界を変えたよ」
「私は幸せでした。賢王と呼ばれた方のお隣で」
「俺は慈愛の才女の隣で幸せだったよ」
「そんな呼ばれ方していましたの?」
「いくらでもあるさ。歴代最高の魔術師というのもある」
「それは両親のおかげでしたの」
「感謝しないとな。俺の称号も妻のおかげだよ」
「まぁ素晴らしい奥様がいらっしゃるのかしら」
「そうだ。世界で一番可愛らしく、美しく、綺麗なんだ」
「やめてくださいませ。私が悪かったですわ」
「悪くないさ。いくらでも伝えられる。愛してるよ」
「わ、私も……」
「泣くな」
「先に逝かないでくださいませ」
「大丈夫だ。新しい旅に出るだけだよ」
「新しい旅?」
「そうだ。まだ行ってない地に二人で行くんだ」
「まだ行ってない地……」
「ああ、人として生きてる間には見られなかった場所に、二人で……」
「あなた?」
私は本当に、人生の旅をとても楽しんだ。
私でも何か残せただろうか。
何もかも失ったはずなのにいつしかたくさんのものを手にしていた。
あなたもそうだったのならいい。
そして死後も旅の続きが出来たらいいのにと願ってる。
END
短編を元にした連載版を開始しました。
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(6/25 魔法国家ミールア→ミーニアムに変更。
ミールアからフィリアにエミリアが旅をする、になってて、〜アが多すぎました)