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六法の聖女

「第三王子ワルテル・エクイティアが命ずる。アド・ヴォカードは婚約を破棄し、今すぐこの宮殿を出ていけ」


 それがエントランスへ出迎えにきた婚約者に向けて、開口一番に言うことだろうか、いや、言わない。


 それに、婚約破棄?

 はて、私がなぜワルテル様との婚約を破棄せねばならないのか。

 急すぎて意味がわからない。


「いったい何を申されますか、ワルテル様」


 彼はクセのある金髪をいじり、整った眉を神経質そうにひそめる。

 いつも濁った青い瞳は今日ばかりはいやに輝いていた。

 12歳の時から15歳の今まで一緒にいるけど、そんな目は初めて見た。


「真実の愛を見つけたのさ」


 はあ、なるほど、よくわかった。

 彼がまるでワケのわからないことを申していることが。


 大きなため息を吐いてから、ワルテル様の粗暴に応じる。


「バカなことを申されないでください。王子なのですよ、ワルテル様は。私……と言いますか、公爵家との婚約を一方的に破棄すれば、外聞が悪くなります」


 ワルテル様の悪態は昔から。

 それを諌め続けて3年目。

 これでも婚約者としては頑張ってきた方なのだけど。


「だから、お前から婚約を破棄するよう命じたのだ」


 ふむ。私から婚約を破棄するのは自然に見えるかも。

 しかし、それはまかり通らない。

 こちらも公爵家と王家の結びつきを強めるように、と両親から待望されている。


「嫌です」


 エントランスの大階段を上るワルテル様に追随する。

 階段の半ばに差し掛かった所で、彼が勢いよく振り返った。


「これは命令だ。ついてくるな!」


 私を邪魔そうに押し退いた。すると、体が浮き上がり、大階段を転げ落つ。

 頭の中で火花が散った。


 その瞬間、私の意識は宙に飛び出した。

 長い階段の一番下で白目を向いている長い栗毛の女は、私だ。


 間違いない、私は幽体離脱している。

 だが、とても居心地が悪い。

 ふたたび私を観察する。


 血は出てない。死んではいないみたいだ。

 ただ、スカートをふくらませるための骨組みがボッキリと折れて、美しい生地を突き破ってしまっていた。

 お気に入りのドレスだったのになぁ。


 それよりも、ワルテル様だ。


「僕じゃない! こいつが勝手に!」


 ひどい。

 なんてひどい人なんだ。

 心配なんて少しもしないし、保身を一番に考えている。


「そ、そうだ。こいつが婚約破棄を申し出て、否定した僕を突き落とそうとした事にしよう」


 慌てて介抱を始めたメイドにもグチグチと何か言い含めているし。

 今までワルテル様を支えてきた私だけど、なんて仕打ちなのか。

 もう我慢の限界。


 早く体に戻らなきゃ。

 そう思った途端、意識がスッと消えた。



 ◆



 女は天啓を授かると聖女になる。

 私、アド・ヴォカードが婚約破棄をされたショックで授かった天啓は、【六法全書】の知識だった。


「六法全書って……何?」


「アド! 気づきましたわね!」


 目の前には親友のミラーナが心配そうに私を覗き込んでいた。

 見慣れた天蓋とベッドの匂いで、ここが宮殿にある自室だと思い至る。


 あれから眠っていたのか。

 ワルテル様に突き落とされた事を咎める機会を逸してしまった。

 起き上がろうとすると、ミラーナが背中を支えてくれる。


「ありがとう、ミラーナ。それより私」


「階段を転げ落ちたんですって? わたくし、アドにもしもの事があったらと思うと、眠れませんでしたわ。はぁぁ」


 ミラーナは私のベッドに突っ伏すような形で顔を伏せた。

 白銀の髪が私の手に垂れてきて、少しくすぐったい。

 彼女の美しい白い肌には、目の下にクマが出来てしまっていた。

 自分より慌てた人を見ると却って落ち着く。おかげで冷静に自分の状態を確認できた。


「ごめんね、ミラーナ。心配かけて。でも大丈夫だよ。体の完全性は害されてないから」


「かんぜんせ?」


 キョトンとした彼女の顔を見て、私も思わず首をかしげた。

 神妙な面持ちを返してしまったに違いない。

 だって、自分でも知らない語句が口から出ていたからだ。


「えっと、完全性っていうのはね、傷害罪における障害の定義なんだけど……」


「生姜? ねぇ急にどうしたのよ、アド。もしかして変なものに憑かれたのかしら!?」


「まさか。私はアド・ヴォカードだよ。15歳。公爵家の生まれで王子の従妹で婚約者」


「そんなの誰でも知ってるわ。婚約者に選ばれた理由と選ばれてからした事は?」


「公爵家の財産目当て。ワルテル様が【人を操る魔法】で怖がられていたので、それを上手く使える方法を提案した、で良い?」


「あのワルテル様も、今は罪人を何人も奴隷に落とした法廷官ですものね。これもみんな知ってることかも。じゃあ次の質問」


「どうぞ」


「好きな物は?」


「お金。煌びやかな宝石。美しい生地のドレス」


「アド!」


 勢いよく抱きしめられた。

 ミラーナの判断基準ってそこなんだ。

 とにかく憑き物があるだとか思われなくて良かった。


 こうしてお見舞いにきてくれるミラーナも宰相家の令嬢で、下手な噂話も真実性が出てしまう。


「可哀想なアド。貴方は婚約者として尽くしていた。なのにワルテル様はひどいわ」


 私を抱きしめながら、ミラーナがしくしくと泣き出した。

 きっと私はこんな風にはもう泣けない。


 頭の中で【六法全書】がバラバラと音を立ててページをめくっているのだ。


「婚約破棄の強要なんて有り得ない。慰謝料を払うのが私になってしまう」


 ミラーナの肩を掴んで引き離しながら、不当な婚約破棄の責任所在を確認したかった。


「どういうこと?」


「不当な婚約破棄は破棄した側が、された側にその補填をする物なの。だけど、ワルテル様は私から婚約を破棄した事にした」


「えっ! じゃあアドがワルテル様に何か差し出さなきゃならないってこと⁉︎」


 その通りだ。

 だからこうしてはいられない。

 私が差し出さなきゃならない物が何なのか早いうちに把握したい。



 ◆



 ワルテル様の執務室。その扉の前で私は躊躇していた。

 つまり、怖かったのだ。自分を突き落とした相手を前に平静でいられるだろうか、いやいられない。


 でも怖がっていちゃダメ。

 いくら嫌われ者のワルテル様でも、王子を婚約破棄した女というレッテルが付く。

 ひいては家族に迷惑を掛けることになる。


 よし、いくか。

 これは公爵家のためなんだと言い聞かせて、執務室の扉を開く。


「ワルテル様! 私の婚約破棄についてなんですけど!」


 執務室は絨毯敷で、積み重なった本や資料で私の声は小さな部屋なのにまるで反響しない。


「元気そうじゃないか。眠りから覚めたと聞いたが、ふむ、これで安心だな」


 穏やかな表情をしている。拍子抜けだ。


「まさかワルテル様が私の心配をしてくださるなんて」


「当然だろう? 元婚約者だ。だから慰謝料は取らない。ただ、この宮殿の物はそのままにしてくれ」


 デスクを挟んでワルテル様が示した答えは常識的どころか良心的だった。

 事務的に書類をデスクに置いて、それに目配せした。

 目を通す。それは婚約破棄の書状だった。私の名前まで書いてある。もちろん書いた覚えはない。


「ワルテル様は私が眠っている間に、婚約破棄の手続きを勝手に進めたんですか?」


「それがどうした?」


 悪びれる様子すらない。

 もう彼にとって既定路線として婚約の解消があり、私の存在が単に目障りなだけらしい。


「私はそもそも婚約破棄を申し出てませんが」


「お前から婚約破棄を申し出たと話したら、王室担当官は納得していたぞ」


 当然だろ。

 この男は自分が宮殿で何と呼ばれているか知らないのか。


「それはワルテル様が『支配』の第三王子だからでしょう?」


「フン、その二つ名で呼ぶな」


 不名誉なあだ名であることは分かってるか。

 一人でも維持するのが難しいとされる【人を操る魔術】を、何十人に対して発揮できるのは忌避されるのは仕方ない。


「それでも私は婚約を破棄したくはなかったのですけれど」


 寂しい男なのだ。

 せめて婚約者となった私くらいは寄り添うつもりであったのに。


「お前に非がないのは分かっている。感謝もしている。お前のおかげで法廷官の道を見つける事が出来たし、社交界で運命の人と出会う事が出来た」


「なら、潔く婚約を破棄したら良いじゃないですか。なぜ私から破棄した事にするのですか?」


「身分が低いのだ。王族の僕が公爵家のお前との婚約を破棄して、下級貴族の娘と交際すればお前の面子が立たぬであろう?」


 たしかに。恐れられる人でもこうして私のことを考えてくださるのだ。悪い人ってわけでもないんだよね。

 殊勝な態度に溜飲が下がる。


「そこまでお考えだったとは思いませんでした」


「ああ、分かってくれたか。この宮殿は代々王族と婚約者が住まう場所だ。それだけ元気ならすぐにでも出立すると良い」


 ワルテル様の言い分に納得する私だった。

 だったのだが。


 バラバラバラバラ。


 頭の中で【六法全書】が音を立ててページをめくられる。


 いったいどうして。

 彼は誠意ある態度だったように思うのだけど。


 バラバラバラバラ、ピタ。


 ページめくりが止まる。

 ある条文が脳裏に浮かんだ。


 そうか、そうだ。

 私の面子より大事なものがあるのだ。

 言いくるめられてどうする。


「ワルテル様は私の名前を勝手に使って、私から婚約を破棄したことにしようとしましたよね」


「ああ。それがどうかしたのか?」


「有印私文書偽造です」


「は?」


 目を丸くするワルテル様に、デスク上の書類を指差す。


「婚約を破棄させる目的で、私の署名を使用して、婚約の関係証明を解消する文書を偽造しています」


「まて、まて。そんな法廷官のようなこと急に。もしや、誰かの入れ知恵か?」


「いいえ。私の考えです」


 そう答えると、ワルテル様の顔がカッと赤くなった。


「私はお前から何も取り立てる事をしなかったのだぞ!?」


「王子を婚約破棄した女になれば公爵家の名誉に関わります。なので、婚約を破棄したいならワルテル様からどうぞ。慰謝料は要りませんので」


 そうすれば不当な婚約破棄をしたとして、ワルテル様が非を認める形になる。

 彼の歯ぎしりが聞こえてきた。怒りの気配が部屋に充満する。息苦しいし、恐ろしい。


「女が口出しする権利はない!」


 バン!とデスクを叩いた。ひっ、と呼吸が止まる。

 重ねた書類が崩れて絨毯敷の床に散らばるのを、まるで猫みたいに飛び跳ねて避けてしまった。

 怖い、怖い、怖い。でも、頭の中で法の知識が回転する。

 ここで負けるな。退くな。がんばれ私。


「だ、だから法があるのです。有印の私文書偽造は懲役刑になりますよ」


「僕は第三王子だぞ。ああそうだ、これは不敬罪にあたる。お前とはすでに婚約を解消しているのだからな」


 デスクの紙一枚を拾い上げ、偽造された私の署名を指さした。


「不敬罪……?」


 バラバラバラ……、脳裏で【六法全書】が最後のページをめくり終えた。

 不敬罪は【六法全書】に存在しないのだ。


「王族の威光を侮辱した罪であるぞ。不敬罪となったお前が何を言おうと無駄なのだ。はははっ!」


 知っている。貴族なんだから当然だ。

 私は失敗した。

 この【六法全書】という天啓の使い方を誤ったんだ。



 ◆



 不敬罪を問われた私は一切の財産と権利を奪われた。

 挙げ句、「奴隷にしないだけありがたいと思え」とまで言われた。

 宮殿を追い出された私の中には無念と後悔が満ちている。


 街をトボトボと歩くと、屋台の並ぶ市場に出た。

 貴族の令嬢でないただのアドになった私は街で浮いていた。

 着の身着のまま追い出されたとはいえ、こんなドレスを着ている民は一人も居ない。


 市場で目立つ色は私のドレスと野菜くらいだ。

 ちょうど昼時で良い匂いもしてくる。


 ぐぅぅぅ。


「お腹すいた……」


 食べ物を買おうにもお金が無い。

 お金を得るにはどうするか。

 ドレスを売るしかない。


 お金が無いのはなんてみじめな気分なのだろう。

 頭の中でお金のことばかり考えてしまう。

 好きなものを考えて気を紛らわそう。


「お金、宝石、ドレス。お金、宝石、ドレス……」


 ……好きなものがお金だった。

 でも、強いて言うなら、お金、宝石、ドレスの順番で好きだ。

 仕方ないからドレスを売ろう。


 そうして服飾商人の天幕でドレスを売り、民の服といくらかのお金を得た。

 すでに夕方になっていた。

 売るのを渋りまくったので、空腹も限界の限界で、歩く足が覚束ない。


「なんでも良いから食べ物を……」


 我を忘れて屋台の食事にありついた。

 具だくさんのサンドイッチだ。

 古くて硬い粗末なパンで、肉なしの野菜だけ。


 なのに美味しい。くたくたになったビーツも、焦げた玉ねぎも、ごろごろした豆も。

 ザワークラウトも酸っぱくて口の中がスッキリする。

 食べられることがこんなにありがたいと痛感した。


「はぁぁぁぁ、ごちそうさま」


 食事を済ませると次第に頭が回ってくる。

 宮殿を追い出されて失ったのは家と身分の他に、結納品や身の回りのもの一式だ。

 中には子供時代の思い出の品なんてのもある。


 そもそも【六法全書】はこの国の法律じゃない。

 日本国なんていう聞いたことのない国の法律である。

 知るべきは私の国エクイティア王国の法律だ。


「勉強しよう。そして奪われたものを取り返さなきゃ」


 私は決意を新たにして、鉄みたいな味のするビールを飲み干した。

 その足で宝石商の店へ出向く。

 お金、宝石、ドレス。私の大好きなものだけど、今の私に相応しくない。


「これをお金に変えてちょうだい」


 宝石が嵌められた指輪を差し出した。

 宝石商は私の身なりを見て、それから私の栗毛をじっと観察し、愛想よく頷く。

 銀貨を袋で受け取って店を出たら、すぐさま街の書店へ向かった。


 もうじき夜に差し掛かり、書店には仕事を終えた商人が多くいた。

 男の一人は「女の来る店じゃないよ」と笑ったが、それを無視して店主に声を掛ける。


「この国の法律を学びたいの。必要な本をお願い」


 老いた店主は私を二度見しつつ、のそのそと分厚い本を持ってきた。

 エクイティア王国法典だ。

 それを買う。


 あとは宿を探さなきゃならない。

 そう頭では分かっているのだけど、ついつい歩きながら読んでしまう。


 ふむふむ、大まかに貴族法と市民法に分かれているのね。


 なんていう風に読んでいるから、「あぶねぇ!」と怒鳴られた。

 慌てて頭を上げると目の前に馬車が迫っていた。御者の蒼白顔につられて私も硬直してしまった。

 すんでの所で轢かれずに済む。


「し、死ぬかと思った……」


 御者が私を避けてくれたのだ。ため息を吐くのは御者の男性だけでなく、馬のそうだった。お馬さんにも悪い事をした。

 馬車の車は見覚えのある装飾が施されている。


「アド!」


 中からミラーナが出てきた。

 ああ、どうしよう。今まで知らん振りをしていた身なりが気になってきた。

 しかし、彼女はドレスの裾が汚れるのもお構いなしに私へ駆け寄って、勢いよく抱きしめてくる。


「ミラーナ、汚れちゃうよ」


「いいの。それよりアド、宮殿を追い出されたっていうから探したのよ!」


 私はミラーナに事情を話した。

 彼女はまるで爆発するみたいに憤慨した。


「ひどいわ、ワルテル様はひどい!」


 私が「あまり大声でその名を叫ぶのは」と止めると、ミラーナは「馬車の中で話しましょ」と私を車内へ引っ張った。

 さらに私は知識を授かったことと、今はもっと法律を学びたいことを伝える。

 話していると自分の過ちがよく分かる。端的に言ってしまうと、私は力に溺れたんだ。恥ずかしい。


「私、バカだったな。いくら天啓で法律の知識を得たとしても、この国の法律を知らないんだもの」


 私は無知だった。無知でいれば少し嫌な気持ちになっても、「仕方ない」で流すことが出来た。

 今はそうはできない。


「それで勉強するの? 弁護士ならいくらでも呼びつけるわ」


「ううん。私のことは私でなんとかしたい。だから私いくよ、宿も探さなきゃならないし」


「待って、いかないで。ベッドならうちに余ってるわ」


「ミラーナの世話にはなれないよ。私は姓を奪われて公爵家じゃなくなったもの」


 女の身分は家で決まる。


「アドを放っておけないわ。同い年で話が合うのは貴女くらいなのよ」


 ミラーナの思いを無碍にするのも忍びない。

 しかし、すぐさま貴族と同等の暮らしを求めればワルテル様に目をつけられるだろう。


「わかった。じゃあ、私をミラーナの屋敷で働かせて」


 ミラーナは快く頷いた。

 こうして私は公爵家の娘から、侍女として第二の人生を歩み始める。



 ◆



 それから4年の月日が経ち、私は【六法全書】の知識を借りつつ、司法試験に合格した。

 エクイティア王国において平民が19歳で法曹界入りは快挙である。

 しかも、女性での最年少合格者だ。吟遊詩人達も取り上げた。


「――という証拠から被告人の無罪を主張します」


 法廷で私は弁論を終え、弁護人席へ腰を下ろす。

 裁判官が耳打ちしあい、裁判長が「最終陳述に入ります」と述べた。

 私は小さく拳を作って弁護がひとまず受け入れられたことを噛み締める。


 さあ、あとは被告人の言葉だ。

 頼むぞ、フェルナンドさん。


「被告人、自称フェルナンド・エクイティアは前に」


 裁判長の言葉で彼はすっくと立ち上がる。

 その立ち方からその姿勢まで、すべてが麗しい。

 傍聴席から女性たちの感嘆が漏れる。


「きゃー! フェルナンド様ー!」


 フェルナンド・エクイティア(自称24歳)。

 身分詐称の罪で捕まった自称・騎士団長で王族の男だ。

 エクイティア王国の第二王子で、遠征軍として何年も国を離れている。


 そんな程度で誰からも証明されない王子なんているのか、と思うのだが……。

 かくいう私も社交界でフェルナンド王子とは一度も顔を合わせた記憶がなかった。

 さらに、他の騎士団も全滅し、直近の彼を知る者は居ないときた。


 このように市民からの知名度は低かったのだが、……彼の外見だ。

 色めく傍聴席に向かい、たまらず裁判長がハンマーを叩いた。


「こら、傍聴人は静かに!」


 銀長髪と鋭く冷たい目つきが狼を思わせる。

 背が高いというより体格の良い男で、安価なシャツからも筋肉が透けて見えるほど。

 一文字に結んだ唇を不器用に開くと低音の声が響く。


「俺はエクイティア王国第二王子フェルナンド・エクイティアだ」


 ただ名乗っただけなのに、傍聴席から歓声が上がった。

 狼を思わせる彼だが、穏やかで理性的な声色に、私も少しドキッとする。

 その時だった。バン、と傍聴席の奥の扉が開いた。


「なんだこの騒ぎは?」


 クセのある金髪をいじり、整った眉を神経質そうにひそめる。

 濁った青い瞳が沸き立つ傍聴人たちを見咎めた。


「っ……ワルテル様」


 元婚約者にして、今や司法長官になった第二王子だ。

 彼は静まり返った傍聴席を悠然と歩いて、法廷まで足を踏み入れた。

 そして私をなめるように見てくる。


「久しいな、アド」


「ワルテル様こそお噂はかながね伺っておりますよ」


「ふん、それはどっちの話だか。で、我が兄フェルナンドを名乗る不届き者は誰なんだ?」


「不届き者ではありません。ちょうど今、審理が終わった所で、彼こそフェルナンド・エクイティア様です」


 と、仰々しくフェルナンドさんへ手のひらを向ける。

 ワルテル様は彼の横顔をじっくりと眺めながら、被告人の前に立った。

 ちょうど、フェルナンドさんと裁判長の間を分かつような形だ。


「知らんなぁ、こんな男は」


 うわ、最悪だ。

 なんてこと言うんだ、この人は。

 私(とメイド仲間のパラリーガルさん)が書類や証言を方方から集めて、彼の身元を証明したというのに。


「ワルテル様、法廷での軽はずみな発言は、いかに王族であろうと……」


「何度言わせるんだ、アド弁護人。王族は罪に問われない」


 知っているだろう?と言わんばかりに、眉をツンと片方だけ持ち上げた。


「ならば、証人として立つべきです。どうして今頃になって出てくるのですか?」


「証人請求など無かったが?」


 証人請求はした。

 しかし、王族に証人請求をすること事態が異例で、きっとどこかでもみ消された。

 公爵家の娘から姓を剥奪できるほど、貴族の力が弱った絶対王政下で誰も王族に口出し出来ない。


 悔しい。

 フェルナンドさんがもう少しで本人だと証明できるところだったのに。

 寄る辺のない自称王子に手を貸す弁護人はおらず、フェルナンドさんはまだペーペーの自分を頼ってきた。


 孤独に苦しんでいたからこそ、私は彼を助けたかった。

 離宮を追い出されて市場を彷徨ったあの夜を思い出した。きっと同じ夜がフェルナンドさんの中では今も続いている。

 無力感に苛まれたその時だった。


「ワルテル! お前は俺の弟だろうが」


 フェルナンドが口を開いた。しかも、かなり圧のある口調で。

 狼だ。しかも獣のような咆哮。ピリッと空気が張り詰めた。

 ワルテル様は背中をビクッと震わせて小さくなった。


 あんな風に怯えることもあるのか。

 少しだけ気が晴れる。


 我に返ったワルテル様は距離を取って、「ぶ、無礼者!」と指をさす。


「有罪! 有罪にしろ、こんな奴!」


 傍聴席がざわめいた。

 そんな横暴が許されるものか。

 誰もが憤りを露わにして当然なのだ。

 私もワルテル様を睨むのだが、ちょうど目が合ってしまう。


「アドお前、なんだその目は。不敬であるぞ。平民に堕ちた今、お前はもう奴隷に堕ちるしかないのだぞ!」


 そうして審理は終わった。

 裁判長は評議に移るとしていたが、この裁判は勝ち目がない。

 私とフェルナンドさんは別室で待機することになった。



 ◆



 待機室は法廷において被告人と弁護人が二人きりとなれる唯一の場所である。

 部屋の扉が閉まったと同時に、私は頭を下げた。


「ごめんなさい、フェルナンドさん。勝ち目のない裁判になってしまいました」


 頭を下げる。

 この状況で一番滅入っているのはフェルナンドさんなのだ。

 国民にも近衛兵にも知らないと言われ、頼みの綱の騎士団員はみんな行方不明で、さらには実の弟に知らないと言われたのだ。


「私、フェルナンドさんの力になれませんでした」


 どんなに法律を勉強しても身分差には勝てないのだ。

 それにワルテル様に逆らえば、奴隷魔術を掛けられる恐れもある。

 フェルナンドさんまで奴隷にされるのは避けなきゃならない。


 より深く頭を下げようとすると、私の肩を大きくて温かい手が受け止めた。

 頭を上げると、蒼い瞳が私を射抜くように見つめている。

 美しい、と一瞬だけ惚けた。でもきっと責められると思って、怖くて目をそらす。


「すまない」


 え?

 いま、フェルナンドさんが謝ったのか?

 恐る恐る彼の顔に視線を戻すと、キリリとした眉が少し垂れていた。


「あ、謝らないでください。私の力が及ばないばかりに」


 彼は首を横に降った。

 私の肩をつかむ手に力がぐっとこもり、眼に力強い光が灯る。


 あれ、この目はワルテル様を怒鳴りつけた時と同じ眼だ。


「もしかして、ワルテル様に声を張り上げたことを謝っているのですか?」


「ああ」


「謝らないでください。とても無礼な事なのですが……、正直、少しだけ気が晴れました」


 ふっ。


 あれ? もしかして今、フェルナンドさんが笑った?


「よかった」


 それだけを言ってフェルナンドさんは私の肩から手を離し、備え付けの二人がけソファに腰をおろした。

 呆気にとられた私は彼のぶっきらぼうな振る舞いに戸惑っていると、彼がソファの座面を軽く叩く。

 座れ、ということなのか。


 まあ、狭い待合室だ。

 他に椅子なんて無いし、立ちっぱなしは疲れるものね。

 と、なんとか理由を付けて彼の隣に座った。


「ふぅ」


 腰をおろすと、一気に疲れが押し寄せて、思わずため息が出る。

 目を閉じ、しばし、休憩、だ……。


 司法試験に受かってから色々なことがあった。

 どんな小さな民事裁判にも市民の人生が掛かっているのを知って、ある一人の男が自身の人生すべてを否定されている知らせを受けた。


 留置所に居たフェルナンド・エクイティアを名乗る彼に出会い、私は彼を単なる他人とは思えなかったのだ。

 王族を詐称し、誰からも助けを得られない。

 その境遇は王族から貴族の姓を剥奪された私と重なる所があった。


 自力で生きていこうとした時、ミラーナのおかげで仕事にもありつけた。

 私はミラーナみたいになりたかったのかもしれない。

 なのにワルテル様の一声で、フェルナンドさんの人生を肯定できなかった。


 悲しいよ。

 私の天啓【六法全書】は法の下の平等を定義しているのに。

 万民のために法律を啓く努力を私がしていれば良かったんだ。


 ……………………。

 …………。

 ……。


「……きろ」


 え?


「起きろ」


 ハッとする。

 私はいつの間にか眠っていたらしい。

 それに妙に顔の片側だけ熱かった。


「おはよう」


「オ、オハヨウゴザイマス……」


 寝ぼけ眼に美形が飛び込んできた。

 さすがの私もカタコトになってしまう。


 ドキドキが止まらない。

 何なのだ、これは。

 夢か?


「夢じゃないっ」


 私は思い切り体を起こした。


 ゴチンッ!


「痛った!」


 額を打った。

 しかも麗しいフェルのきれいなおでこにだ。


「ごごごご、ごめんなさい、フェル!」


 何かの罪に問われるんじゃないか、とヒヤヒヤするが、どうやら傷は出来ていないよう。

 よかった。もし第二王子の顔に傷でも出来れば責任は重い。


「……アド」


「何? フェル……あれ?」


 フェル?

 なんでそう呼んでいるんだっけ。

 私は寝ぼけ眼をこすった。目元が涙でえらく濡れている。


「相変わらずだな」


 フェルはハンカチを取り出し、私の頬をぬぐった。

 それで私は、今までフェルのことをすっかり忘れていたことに気づく。

 フェルは私が12歳の時、離宮で迷子になったのを助けてくれた少年だ。


 たしかその時に怪我をしてフェルがハンカチで拭ってくれたのだ。

 思い出の品としてもらったハンカチを大事に持ってたっけ。

 まあ、宮殿を追い出される時にワルテル様に取られてしまったけれど。


「……フェルのこと、どうして忘れてたんだろう」


「教えてやるよ」


 フェルは私の手を取って立ち上がった。

 待合室の扉を出ると、警備兵が止めに入ってくる。

 しかし、フェルの顔を見るなり、直立不動で敬礼をした。


 何? いったい何が起きてるの?



 ◆



 法廷に戻ってきた。

 傍聴席がフェルの登場にざわめくと、それを聞きつけて裁判長や裁判官が慌てて法廷へ戻って来る。

 なぜ慌てているのか、まったく分からない。


「フェルナンド殿下、ご無礼をお許しください!」


 裁判長と裁判官の一同が頭を下げた。

 傍聴席の女性たちも一様に静まり返っている。


 なんだ、何なんだ。

 夢なのだろうか。

 彼に握られていない方の手で頬をつねってみたが、しっかり痛かった。


「下々が騒がしいではないか」


 検事側の扉を開けて、ワルテル様が顔を出した。

 尊大な態度で検事の席にどっかりと座る。


「何、頭を下げておるのだ。はやくこの不届き者の……」


 そこで彼の顔からサーッと血の気が引いた。

 フェルが「失礼」と声をかけ、私の手を離す。

 ワルテル様のいる検事席へ、たった3歩でたどり着いた。


「ワルテル。お前は俺の何だ」


「ふぇ、フェルナンド兄上でございます……!」


 先ほどまでと打って変わった態度だ。

 ワルテル様は萎縮しながら立ち上がった。


「ですが、僕、いや、私は! 本当に兄上のことが記憶から消えていました」


 それは私を含めた全員がそうだ。

 ワルテル様は続ける。


「これは間違いなく【人に忘れられる魔術】のせいでございますっ!」


 そういう魔術があるのは知らなかった。

 魔術は貴族や王族が門外不出として保管しているからだ。

 しかし、王族のワルテル様がそういうのでから、実際にあるのだろう。


「ああ」


 つまり、フェルは魔術によって人々の記憶から消されていた。

 だから本当のことを言っているのに、身分を詐称していると思われたのだ。

 ワルテル様はさらに続ける。


「ですが、その魔術は愛する者の涙がなければ解けないはず。兄上がいつそのような人と」


「もういい」


 フェルは素早くワルテル様の口を塞いだ。

 愛する者の涙……。

 はて、いったいどこで手に入れたのだろうか。


 待機室で寝腐っていた自分を少し悔やむ。


「アド」


 振り向いたフェルが私をじっと見つめた。

 なにを言いたいのか、寡黙な彼の態度から察することができない。

 しかし、今ならワルテル様に奪われたものを何もかも取り戻せることはハッキリ分かった。


「……少し悩んでいいですか?」


 フェルが頷いた。

 私は宮殿に置いてきた金や宝石やドレスを思い浮かべる。

 どれも大好きなものだ。


 なのに。

 頭の中でバラバラバラと【六法全書】がめくられる音が鳴る。


「要りません。私にはやるべきことがあります」


 そう答えるとフェルが「はっ」と声を出して笑った。

 法廷の女子たちが胸を押さえたのは言わずもがな。



 ◆


 後日、私は法律事務所を立ち上げた。

 その名は『万民のための法律相談事務所』だ。

 平民だけでなく、貴族も訪れる法律事務所として設立した。

 また、中には王子の姿も見られるとして、王都で今もっとも話題のスポットである。

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