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気遣いの話

 間違いなく気を遣うのに慣れている。というか、そうしないと生きられない性質だ。

 本当に特定の相手にしか気を遣わない振る舞いが出来ない。大体、どんな相手にも気を遣うので、とにかく「嫌われない工夫」ばかりをしてしまう。相手からしてみれば大体そんなことはどうでもいいし、むしろペコペコして何考えているか分からないような奴ほど余計に嫌われるので、僕は大多数の人にはある程度良いように見られるのだが、そうした表面だけ良い格好をすることを嫌う人間からは嫌がられる傾向にある。

 しかし、自分のその性分に馬鹿を更に加速させる性格が乗っかる。それは、「おそらく嫌われている相手と関わりたくないのに、仲良くしようとする」ことである。

 僕は飲み込みが非常に遅い。判断力や注意力、情報の分別をする力が壊滅的に劣っている。だからそれを過去に多くの人に指摘されてきた。特に半年ほど一緒にいた上司には毎日のように、「君のここが課題だ」「できていると思い込んで傲っているんだ」等とご指導を受けたものだ。正直、消えてしまいたいと思う毎日だった。何でこんな言い方をするのだろう、もっと楽しくしたいのに距離を取ってくるのだろうと毎日悩んだ。でも、必ずその日の終わりには「ありがとうございました」と深々頭を下げて帰るのだ。これは礼儀としてやっているのではない。「これだけボロクソ俺が指摘したのに、コイツは感謝できる素直ないいヤツだ」と思われるためにやっているのだ。それをする自分に少し酔っていて、その酔いが冷めれば自分のことが嫌いになる。

 僕はその会社を半年で退社した。とても辛い毎日で、生きている心地がしなかった。もう二度とあの上司に会わなくて済むと思いながら、それでもなぜか数ヶ月経って、「あの人の趣味のイベント見つけたから連絡しておいたほうがいいかな…」という気持ちになる。そんなことをする必要はないのに、そうした方が良い気になる。結局勇気はなくてしないのだが、そこは非情になれない。こんなものを優しさとは言わないと横槍を入れる人がいるのかもしれないが、これが僕の思う優しいという感情だ。それを優しさと認識しなければもっと楽になれたのかもしれない。愛嬌とか親切心とかに一旦変えておいて、これを読んでいる人に反感を買わないようにしようと思う。そう、ここでも気を遣う。

 色んなところでフィルターをかけて、気を遣う自分を正当化してきた。でも、そんなことをしなくても簡単に生きていられる人もいる。そんな人が羨ましくて仕方がない。僕は日常で関係を築かなければならない人に不快な思いは極力させないようにしようと動く。

 しかし、時にこれは爆発して、信頼関係のない相手には平然と非情な行動を取る。

 昔、大阪のあべのハルカスの前を一人旅で歩いていた。二人組の男性に声をかけられた。彼らは法人で「神様を信じる会」というものをやっているそうだった。宗教とは異なる価値観を持つ我々の活動のプレゼンをしたいので5分ほど聞いてほしいと言われた。この時にスイッチが入ってしまった。

 よし、コイツらの穴を見つけて、ボコボコに言おう、と。

 そこからプレゼンが始まった。彼らはまず、神様が存在することを科学で証明することができるという。昔は空想だったけれど、今は発明された道具を用いれば、科学的に証明できるのだ、と。

 例えば、星の存在は、望遠鏡を使えば明確に確認できるようになった。微生物の存在は顕微鏡を使えば見えるようになった。では神様はどうか。聖書があれば見えるようになった、という。

 視覚的に証明できるのだから、それは現実のものである、と彼らは言うのだ。その後もダラダラと一生懸命説明をしていたのだが、どうでもよくて忘れてしまった。

 僕は一番に、「聖書があれば神様が見える」という点に疑問を抱いた。望遠鏡も顕微鏡も、そのレンズを通せば対象の存在を簡単に確認できる。その事例に合わせるのであれば、聖書も読もうが読まなかろうがその場にあって聖書を通せば神が出現するはずなのだ。なので僕は彼らに「聖書はお持ちですか?」と尋ね、カバンから一冊出してもらった。僕はレンズを眺めるように聖書を眺めてみたのだが、神様が出現しなかった。なので、「僕は出せないので、ここに出してもらっていいですか」と言った。しかし彼らは出せないという。信じるものの前にしか現れないので無理だと。

 それならば、例えとして望遠鏡や顕微鏡は不適切である点を指摘した。科学技術の象徴として用いる器具であれば、同じ論点の上で話すべきである。そこに信仰を交えては、そもそも科学で視覚的に神を確認する行為が成り立たない。

 当然相手のお二方は、眺めるだけで出現することはない、科学を成り立たせるには読んで理解するまでが科学である、と。当然望遠鏡も顕微鏡も使い方が分からなければスタートラインには立てない。確かにそれは仰る通りだと思った。

 そこは肯定しつつ、僕は続ける。ならば、これは聖書を読み込まなければ成り立たないので、ここでこの話をするのは不適切であると。勿論、読み込めば出現するのかもしれないが、興味のない相手へ信頼をさせたいのにも関わらず、操作方法の異なる例をあげ、5分の中で立ち話で納得させるだなんて、あまりにも準備が足りていないという爪の甘さを指摘した。他にも諸々、相手に理解してもらう上で足りないプレゼンスキルの低さを散々に上げ、向こうが微妙な顔になるのを楽しんだ。心底相手も面倒臭そうな顔をしていた。

 自宅にかかる営業の電話をかけてきた人にも、「少々お時間よろしいですか?」の一言を言わなかったことに対して説教した。最後には「マナーから学び直したほうがいい」と伝えて電話を切る。

 僕は人に良いように見られたい欲求が強すぎて、関係のない人にあまりにも強く当たりすぎてしまう。どうしても許せない相手には、深く心にダメージが残るまで、徹底的に不快な思いをさせたくなってしまう。

 それが良いことだとは思っていないが、ある意味同じ思いをする人を増やさない為にやっているという歪んだ正義感なのかもしれない。自分がされて嫌なことを他の人がされない為に、ひとまずしてきた奴を許さない。その所業は信頼関係がある人には絶対にやらない、腐った自尊心だ。なら初めから気の遣えない人間になれたらと、やはり思ってしまうのだ。

 きっと。全てに優しい人はいつか騙される。自分を守りたいから、今日も心の範囲の人だけには優しくし続けるのだろう。

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