保健委員は魔女っ子なのです
その街に唯一ある小学校には、とっても素敵な保健室がありました。半分くらいは温室で、一年を通してたくさんのハーブの香りがとても清々しく、時に華やかに漂います。ガラスの扉を挟んで残り半分はベッドや薬品棚、テーブルや椅子のある清潔な部屋です。調度品は病院のように無機質なものではなくて、女の子に人気のカフェにあるような、少しおしゃれなデザインです。外がもう少し寒くなって暖炉に火が灯ると、さらに素敵なお部屋になります。
休み時間、校庭で遊んでいて膝に擦り傷を作った男の子が、保健委員の女の子エーリに連れられて保健室にやってきました。
「ママ……じゃなかった。先生ー! マージ先生! 怪我、診て下さい!」
温室にいる保健室の先生をエーリは大きな声で呼びました。魔女の証である三角帽子を被った保健室の先生は、すぐに温室から出てきました。お姉さんとは言えないけれど、実際の歳よりは随分若く見えます。ふわふわウェーブの髪が印象的で、笑顔が素敵な優しそうな女性です。エーリのお母さんでもあります。エーリの髪もお母さんと同じ様にふわふわです。
魔女は自然の力を少し借りる事ができます。マージ先生は杖で綺麗な水を呼ぶと、まずは男の子の砂だらけの傷口を洗いました。そしてお手製の軟膏を塗ってテキパキとガーゼを貼りました。その上から優しく手を置いて、早く治るためのおまじないをします。怪我をした膝が優しい光に包まれると、ジンジンした痛みが和らぎます。
「これくらいの擦り傷、魔法でパッパと治せちゃえないの?」
男の子は今すぐにでも格好悪いガーゼを取ってしまいたくて文句を言いました。マージは優しく答えます。
「どんなに偉い大魔法使いだって、怪我や病気を治すことはできないのよ。生物が生まれつき持っている自分で治す力を、ちょっぴり助けてあげるのが精一杯なの」
「ふーん。そうなんだ」
エーリはマージが手当てをしている間、道具を出したり片付けたりと助手としてお手伝いをしていました。保健委員の仕事です。
「ありがとう、保健委員さん。そろそろ休み時間も終わるし、二人とも教室に戻ってね」
学校ではもちろん、エーリは生徒でお母さんは先生です。しっかりけじめをつけてお互い接し方には気をつけます。もう十一歳になったエーリは、そんな大人の対応ができるのです。二人が先生にお礼を言って保健室を出ると、ちょうど休み時間の終わりを知らせるチャイムが鳴りました。
授業が全部終わって放課後になると、エーリは保健室に向かいました。今日は委員会活動の日です。エーリの他にもう一人保健委員がいて、その子も保健室にやって来ました。六年生のカレンという名の女の子です。赤毛をきっちりおさげに編んで、大きなリボンで留めています。二人でまずは温室の植物の世話をし始めました。温室にある植物は全て薬になるものです。収穫できるものは刈り取って、保存できるように乾かしておきます。温室の外にも、ハーブのための花壇があります。
温室と花壇の仕事をだいたい終えたころ、近所のおばさんが訪ねてきました。ここは学校の保健室でもあり、魔女のアトリエでもありました。魔女のアトリエにはちょっと困ったことがある人が相談に来ます。できる範囲のことはお手伝いするし、無理な時は専門家を紹介します。そして働きにみあったお礼をもらうのです。魔法学校を卒業した魔女や魔法使いの多くは、こうやって地域貢献をします。魔女や魔法使いになるには生まれつきの素質が必要で、人数が多くないので重宝されます。エーリとカレンは魔法使いの家系に生まれた魔女見習いで、六年制の普通の小学校を卒業すれば、魔法学校に進学します。保健委員の仕事は魔女見習いとしての仕事でもあります。エーリはお母さんをとても尊敬していて、保健委員の仕事にも誇りをもっていました。
おばさんに椅子に座ってもらうと、エーリは色々なハーブティーとその効能が書かれた紙を見せました。
「こんにちは。ハーブティーをお入れしますが、ご希望はありますか?」
「あら、魔女っ子さん、こんにちは。選ぶからちょっとまってね」
おばさんは紙をしばらく眺めると、
「カモミールティーをお願いしますね」
と答えました。エーリとカレンはハーブティーを入れにキッチンに行きます。もちろん、ここで育てたカモミールです。
マージはおばさんの向かいの椅子に座ると、いつもの優しい笑顔で聞きました。
「お困りごとはなんですか?」
「腰痛がなかなか治らなくてね。医者にはかかってるんだけど、マージさんのところの薬が良く効くって聞いたもので」
「それはありがとうございます。では、少し腰を見せて下さいね。それから、お医者様で処方されたお薬も教えて下さい」
マージはおばさんの腰に手を当てて状態を診て、処方の内容も確認しました。早く良くなりますように、とおまじないもしました。そして、薬品棚から粉状になった薬草を出して紙に包むと、おばさんに渡しました。
「次にお医者様にかかる時は、うちで三十四番のお薬を貰ったことをお伝えくださいね。飲み方は……」
マージはおばさんに丁寧に対応しています。エーリとカレンがおばさんの前のテーブルに、カモミールティーと数枚の小さいクッキーを置きました。おばさんは、「ありがとう」と、お茶を口にします。自分たちの入れたお茶を飲んでもらえたのが嬉しくて、エーリとカレンは顔を見合わせて笑い合うと、パタパタとキッチンへ戻りました。
おばさんが帰ったあとも、ポツポツとお客様がやってきますが、マージ先生は
「一度お手伝いの手は止めて、学校の委員の仕事をしてらっしゃいな」
と、エーリとカレンを温室のテーブルに連れていきました。二人とも正直なところ先生の手伝いをしているほうが楽しかったのですが、やることがあるので仕方ありません。
「次の保健新聞どうしようかしら?」
エーリとカレンは真っ白な紙の前で、うーんと唸ります。健康啓蒙のための新聞作りも保健委員の大事な仕事です。早めに今月の分を作らなくてはなりません。
「睡眠特集とかどうかしら?」
カレンがいいました。
「睡眠時間が必要な理由とか、安眠に効果があるハーブティーを紹介したりするの」
「とっても魅力的だけど、魅力的すぎて三ヶ月前にやった気がするわ」
エーリがカレンに今までの新聞をまとめたファイルを見せました。そして、二人はまたうーんと唸りました。
「こういう時にパッと魔法を使って、パッと何か思い浮かべばいいのになぁ」
エーリが鉛筆を転がしながら言います。しかし、自分の頭の中でできないことをパッとやってくれるなんてそんな都合のいい魔法はありませんし、そもそも魔法学校に行って免許をもらうまで、魔法の使用は原則禁止です。カレンは今できる現実的な提案をしました。
「図書室に行って、何かいいアイデアを探しましょ」
エーリとカレンは先生に許可を得ると小学校の図書室に行きました。司書の女の先生は、ポカポカと夕日の差すカウンターでうつらうつらとしていましたが、二人が入るとパッと目を覚まして、ちゃんと仕事してますよ、という顔をしました。そして、生徒達が本棚を物色して調べ物を始めると、またうつらうつらとしはじめます。司書の先生はこのようにうとうとしていることがとても多いので、“居眠り先生”と呼ばれていました。
下校時間が近く、今は委員会活動中の時間であることもあって、図書室にはエーリとカレンの二人だけでした。何か使える本はないかと、エーリがずらりと並ぶ背表紙を眺めていた時、本棚の奥の方で何かきらりと光るものを見たような気がしました。「何かしら」とエーリは、光ったように思ったあたりの本を何冊か抜き取ります。すると、この本棚に並んでいる本とは明らかに装丁の違う本が奥の方に隠されるように置いてありました。エーリは思わず手に取りました。豪華な表紙ですが、題名などの文字は見当たりません。カレンもエーリが見つけた本を覗き込みます。
「綺麗な本ね。どうして隠してあったのかしら」
二人は好奇心ですっかり保健新聞のことは忘れて、謎の本の表紙をめくりました。
本は何ページめくっても白紙でした。エーリは不思議に思って、さらにパラパラとページをめくります。
「何か魔法の力で文字を隠しているのかしら」
その可能性も捨てきれませんが、この本の秘密は他にありました。真ん中あたりのページに綺麗な腕輪がはめこまれていたのです。おそらく金属でできているのでしょう。黄金の輝きの中にうっすらと、しかし緻密に彫刻が施してあり、宝石の類ははまっていません。エーリは思わずその腕輪に触れました。
その時、腕輪が眩い光を放ったかと思うと、それはしっかりとエーリの左手首に収まりました。
「え、どうしよう!取れないよ?」
エーリは大慌てで外そうとしますが、金属の腕輪はエーリの手首にぴったりでつなぎ目もなく、どう引っ張っても抜けません。カレンはちらりと、司書の先生の方を見ました。相変わらず、うつらうつらしています。何か起こった、ということがばれていないようなので、カレンは少しほっとして、もう一度本を見ました。
「見て、エーリ。腕輪がはまってたページに何か書いてあるわ」
腕輪を見つけた者は
腕輪を真の持ち主以外に渡してはならない
腕輪の事を誰かに話すことはできない
間違った手順で腕輪を外すことはできない
そのページに書いてあるのはこれだけで、後のページは前半と同じように白紙でした。
「結局、これは外せないってこと? “真の持ち主”って人がはずしてくれるの?」
エーリは不安で泣きそうになりました。魔法の腕輪であることは間違いないでしょう。これがどんな目的で使う魔法道具なのか、装着した人に何か影響を及ぼすのか、なにもかもがさっぱりわかりません。確かなのは簡単にはずせるものではない、ということだけです。
「誰にも言っちゃダメってかいてあるけど、マージ先生に相談すべきだわ!」
カレンは言いました。エーリは「でも……」と戸惑います。これが呪いの腕輪だったら?誰かに話すことで自分になにか危害があったら?エーリはついに涙を流しました。
カレンは謎の本を鞄に入れ、本棚を片付けました。ちょうど、下校時間を告げるチャイムが鳴りました。
「とりあえず保健室に戻りましょう」
エーリは涙を拭きながらうなずいて、腕輪を袖の下に隠しました。何もなかったように装いながらカウンターの前を通り過ぎて図書室を出ました。司書の先生は帰り仕度をしているところで、特に二人を気にする様子はありません。外はもう暗くなっていました。
エーリとカレンは小走りで保健室に戻ると、マージ先生に駆け寄りました。先生も店じまいの片付けをしているところでした。エーリは、保健室に向かっている間にお母さんに正直に起こった事を話そうと決意していました。子供だけでなんとかできるものとは思えません。二人の只事ではなさそうな雰囲気に、マージの表情が緊張します。
「いったい、どうしたの?」
エーリが意を決して、先程のことを話し始めます。
「あのね、さっき図書館で保健新聞に載せる話題を探していたんだけど……何にも見つからなかったわ!」
エーリはハッとして自分の口を手でおさえます。カレンは、本当のことを言えなかったエーリに助け船を出しました。
「違うわ! 言いたい事はそうじゃなくて、図書館には本当にろくな本がなかったの!」
カレンもハッと口をおさえます。二人は顔を見合わせました。“腕輪のことを誰にも言ってはならない”のではありませんでした。“誰にも言えない”のです。それならば、とカレンは鞄にしまった謎の本を取り出そうとしました。でも、鞄を開けた途端に、今自分が何をしようとしたのか思い出せないのです。マージは緊張していた顔を緩めました。
「何かと思えば……。それなら保健室にある本からも探してみたら?でも、今日はもう帰りましょうね」
「はい、わかりました」
エーリとカレンは思ってもないことを同時に言い、また顔を見合わせました。言葉にできないならば、と、エーリはマージに見えるように左手の腕輪を掲げてみました。マージは腕輪に気づきましたが、
「あら、素敵な腕輪ね」
とだけ言って、全く興味を示してくれませんでした。いつもなら、それはどうしたの? 買ったの? 誰かにもらったの? 学校にはしていってはだめよ? など、とやかく言われるのにです。二人は仕方なく、帰り仕度を始めました。カレンがエーリにこっそり言いました。
「先生をごまかすなんて、相当な魔法がかかっているわね」
エーリとカレンの間では腕輪の話ができるようでした。
「大人に頼れないなら、自分達でなんとかするしかないけど、全く見当がつかないわね……」
エーリは落ち込みます。何しろ、自分達はまだ本格的な魔法の勉強を始めてすらいないのです。算数に置き換えてみれば、足し算引き算ができる程度の知識しかありません。
少しの時が流れました。もう外はすっかり寒くなっていますが、素敵な暖炉のそばはぬくぬくとして暖かです。腕輪はどうなったかというと、あの日から何も変わっていません。エーリには益にも害にもならず、今も左手にあるだけです。学校ではいつも袖で隠していますが、仮に見つかっても誰も腕輪を気にしません。本当に、この腕輪は一体なんなのでしょうか。二人ははじめの頃こそ何か手がかりはないかと謎の本を何度も見たり、図書室にある小学生向けの魔法の本を読みましたが、子供だけの力では結局なにもわかりません。マージにも何度か相談してみようとしましたが、腕輪のことも本のことも、“腕輪のことを喋れない魔法”のせいで結局相談出来ずじまいです。普段は腕輪に存在感がないこともあって、二人ともだんだん腕輪のことを気にしなくなりました。
それよりも二人の今の関心事は、最近小学校の近くで目撃されている不審者でした。黒いローブの怪しい人物が校門のあたりで突っ立っていたり、窓から教室を覗こうとしているのを、クラスのみんなが見ています。平和なこの街では、クラスの子供たちにとって恰好の話題です。先生方は警戒して見回りなどをしていますが、そうするとふっとどこかに消えてしまってしばらく現れなくなるのです。
こんな時にはマージ先生はとても頼りにされました。先生方の目が届かない時に不審者が学校に侵入したりしないように対策をしてもらいます。マージ先生は学校周りに境界線を描き、先生や生徒以外の人がその線を超えれば大きな音でベルが鳴るようにしました。ついでに、線を越えた人物はしばらく身動きが取れなくなります。その間に不審者を捕まえられるというわけです。保護者や学校関係者には必ず約束を取り付けてから来校するように周知しました。
今日はマージ先生が出張で学校を開けている日です。そんな日は保健委員が休み時間に保健室に待機しています。先生がいない時はアトリエはお休みになるので、外からのお客様用の扉には閉店中の札がかけられてます。もう昼休みになりましたが、今のところ怪我人も病人もなく、エーリとカレンの仕事はありませんでした。二人は暖炉のそばで給食を食べていました。特に寒い日には嬉しい保健委員の特権です。すっかり忘れていた保健新聞のことも先日片付けて、二人はのんびりした気持ちで暖炉にあたっています。からだがぬくぬくと暖かい時は、どんな心配事もなくなってしまうものです。
エーリとカレンが、食べ終わった給食の食器を給食室に返却に行って保健室に戻ると、ドアも窓も閉めきっているはずの部屋に風が通るのを感じました。約束もなく入ってきた人を知らせるはずのベルの音も鳴らさずに開け放たれていたのは、アトリエのお客様用入り口の扉でした。
お客様用入り口の鍵はきちんと閉まっていたはずです。しかもただの鍵ではありません。マージはいつも留守にするときは魔法で厳重に鍵をかけます。その魔法を破って入ってきたのは、フードを被った黒いローブの人物です。
ーーきっと噂になっていた不審者だわ、とカレンは先生を呼びに行くために学校の廊下に出ようとしました。しかし、杖の一振りで扉は閉められ、開かなくなってしまいました。ローブの不審者は魔法使いのようです。エーリとカレンは怖くてお互いに寄り添いました。エーリが勇気を振り絞って言います。
「今日はマージ先生はいません。御用は一体なんなのですか?」
「魔女がいないことは知っているさ。腕輪を持っているだろう。渡してもらえないかな」
きっと、あの腕輪のことです。エーリは咄嗟に左の手首を押さえました。この人が腕輪の真の持ち主なのでしょうか。でもそれなら先生がいる時に堂々と来てもいいはずです。顔はよく見えませんが、若い男と思われる声でした。エーリは「渡そうにも外すことができません」と言おうと口を開きました。
「今日はいいお天気ですね」
この男が“真の持ち主”であるかどうかはわからないので、渡すべきではないのかもしれません。しかしフードの下からぎらりとのぞく眼光を見れば、エーリとしては男の言う通り腕輪をすぐにでも渡してしまって自分を守りたいのが本当のところです。しかし、“腕輪の事を話すことができない魔法”が、それを邪魔します。お天気の話だなんて! 言うに事欠いて出てきた言葉がこれとは、確実に男の神経を逆なでしてしまいます。カレンはエーリのトンチンカンな返答を聞いて自分は喋ってはだめだと考えて、エーリの右腕をぎゅっと掴んで黙っていました。
「天気の話とは舐められたものだな。こっちはあの腕輪と確信を持ってわざわざ子供を訪ねてきたんだ」
黒いローブは急に二人の少女との距離を詰めてきました。若い男の顔と透き通るような金色の髪が見えました。魔法学校を卒業したばかりか、ひょっとすると在学中かもしれません。それくらい若い青年です。そして、彼は痛いほどの力を込めてエーリの左手首を掴み、掲げます。美しい腕輪が、窓から入る日の光や暖炉の炎の光を反射して怪しく輝きました。男は腕輪を見て満足そうに笑うと、力尽くで外そうとしました。当然外れず、エーリは「いたい!」と悲鳴をあげます。
「静かにしろ! その腕、切り落としてもいいんだぞ!」
エーリは恐怖に震え、身動きができなくなりました。男は魔法で何とか腕輪を外せないかと、いくつか呪文を試しますが、どれも上手くいきません。男に焦りの色が見え始めました。
「くそっ。こうなればやはり腕ごともっていくしか……」
男がそう言って杖を振り上げたので、カレンは力の限りエーリを引っ張って、エーリもそのタイミングに合わせて男の手を振りほどきました。空を切った小さなかまいたちが、床に切れ目を入れます。魔法で人や動物を傷つけるのは禁止されていますが、そんなことはこの男には関係ないようです。料理に使うはずの包丁を凶器にしてしまう人と同じです。エーリとカレンは逃げ場のない中なんとか助けを呼ぼうと、廊下に続く扉をバンバンと叩きました。
「誰か! 先生!」
エーリとカレンは叫びますが、二人の声は昼休みの喧騒にかき消されるし、男はすぐに追いつきました。もう逃げられない、と二人が思ったその時、ローブの男は首根っこを掴まれるように浮き上がったと思うと、すごいスピードで外に放り出されました。
マージが帰って来たのです。
「何者です⁉︎ いえ、何者であろうと私の留守を狙って生徒たちに手を出そうとは許せません。」
マージは男を拘束しようとしましたが、彼の逃げ足は早く、マージがエーリとカレンの様子を見るためにほんの少し注意がそれた隙に、サッと姿を消してしまいました。エーリとカレンはマージに駆け寄り、緊張の糸が切れてわぁと泣き始めました。彼女は二人を抱きしめました。
「留守中に怖い思いをさせてごめんなさいね。鍵の魔法が破られたから、急いで帰ってきたのよ。間に合って良かった。」
二人が落ち着いたところで、マージは何があったか尋ねました。エーリとカレンはどう言葉を選べば伝わるだろうかと考えました。しかし、腕輪の事を絡めずに先程の話をするのはとても困難でした。
「もしよければ、あなたたちのどちらかの記憶を見せてもらえないかしら」
「そんなことができるの?」
エーリが身を乗り出します。
「ええ。でも勝手に覗き見ることはできないの。必ず同意が必要で、見れる範囲を決めるのは、記憶を見られる側よ。つまり、あなたたち」
「私、やります! 私の視点からのほうがきっとわかりやすいわ」
カレンが授業中であるかのように手をあげました。
「ありがとう、カレン。ではまず、リラックスしましょう。エーリ、お茶を入れてくれる?」
エーリがキッチンでお湯を沸かしている間に、チャイムが鳴りました。午後の授業が始まりますが、マージ先生は今日はもう授業に出なくて良いように、それぞれの担任の先生に話してくれました。今のところは体調不良ということになっています。黒いローブの男の再来には警戒しなければいけませんが、すぐ戻ってくることはおそらくないと、先生は判断しました。それができるならば慌てて逃げる必要はないからです。それに、魔法使いが絡む案件です。魔法使い同士のいざこざは、魔法を使わない人たちの社会には基本的には持ち込みません。
カレンがお茶を飲んで気分を落ち着けている間に、マージは魔法の準備をしました。準備といっても簡単なもので、水盆に水を張ってテーブルに置いた程度です。
「水は古来から魔法やおまじないとは切っても切れない存在。水盆に張った水は様々なことを映し出してくれるわ」
マージはそう言いながら、杖で水盆のふちをなでました。しぶきをあげるほどの波紋が広がったかと思うと、水面は鏡のようにしんと静かになりました。
「準備はいいかしら、カレン」
カレンはリラックスするように言われたのに、これから見る魔法にドキドキしながら頷きました。マージは深く息を吸うと、杖でカレンの頭に触れました。
「カレン、あなたは私が記憶を覗くことに同意してくれますか?」
「はい」
「では、見せてくれる場面を、思い出して下さい。そうね、まずは楽しいことから始めましょう。今日の給食は?」
カレンは、暖炉の前で食べたおいしい給食を思い浮かべます。すると、カレンが頭の中で思い描いたものよりもはっきりと、自分では思い出せないほど細部までの記憶が水面に映し出され、水盆から声や音も聞こえました。
「大丈夫そうね。では、本題に入りましょう」
カレンはローブの男の侵入に気づいたところから、マージが帰って来たところまでを思い浮かべました。しかし、始めは鮮明だった映像はすぐにぼやけ始めます。音もはっきりと聞こえなくなりました。男が腕輪の話をしているあたりです。鮮明な映像になったりぼやけたりを繰り返しながら、結局重要なことは何もわからないまま記憶の再生は終わりました。マージはしばらく水盆を眺めながら考えを巡らせました。
「どうやら、どうしてもその存在を隠したい人がいるようだけど、騒動の発端はエーリの左腕の腕輪ね。気を抜けばまったくこの腕輪に興味がなくなってしまうし、たいした魔法がかけられてるわね。あなた達がこの腕輪の事を今まで私に話さなかったのは、話せなかったからなのね?」
「今日はいい天気ね」
と、エーリは答えます。直接腕輪の話が振られると、特に重要そうな話をしようとすると、天気の話ではぐらかすのがこの魔法のやり方のようです。マージは納得したように頷きます。
「最近、なんだかいつも何かの魔法にかけられているような気持ち悪さがあったのよ。親子だもの、エーリとは一緒にいる時間が長いものね。
とにかく、この腕輪がなんなのかはさっぱりわからないけれど、欲しがっている人がいることは確か……」
これからも、現在腕輪の持ち主であるエーリに危険が及ぶかもしれません。マージは黒いローブの男がやったように、様々な方法で腕輪を外すことを試みてみましたが、結局外すことは出来ませんでした。
「お母さんにもどうにもできないなんて……」
エーリはうなだれました。マージは慰めるように彼女の頭を撫でます。
「ごめんなさいね。魔法というのは、基本的にはそれをかけた本人でなければ解くことが難しいのよ。この腕輪について出来るだけ調べてみるし、なるべくエーリから離れないようにするわ」
しかし、黒いローブの男の件は、呆れるほどあっさり解決してしまったのです。次の日学校に行くと、教室では黒いローブの男が逮捕されたらしいという噂で持ちきりでした。ほっとすると同時に、なんだか不思議な話でもありました。エーリが昼休みに保健室に行くと、思った通りカレンがいました。お互い、話したい事は一緒です。マージは来客中でした。
「良かったわね、エーリ。ひとまずローブ男には警戒しなくて良くなったわね」
「でも、何の罪で捕まったのかしらね。もし昨日の件だとしたら……私たちしか知らない事のはずなのに」
「他にも何か悪いことをしていたのか、それとも……誰か見ていた人でもいたのかしら。ちなみに、マージ先生は?」
「お母さんは誰にも言ってないはずよ」
「そもそも、逮捕されたっていう話も本当なのかしら。朝の新聞には特に何も載ってなかったわ」
「どこまでが本当でどこまでが噂なのかわからないけれど、学校が警察に不審者の相談をしてたから、逮捕の情報は直接警察から先生の誰かが聞いたみたい」
エーリとカレンがあれやこれやとローブ男の話をしていると、午後の授業の始まりを告げるチャイムが鳴りました。マージと話が出来なくて残念でしたが、二人は急いでそれぞれの教室に戻ります。エーリのクラスでもカレンのクラスでも、授業が始まる前に担任の先生が黒いローブの男が捕まったことを生徒に伝えました。何の罪でかは知らされませんでしたが、逮捕は事実のようです。エーリは腕輪の事とローブ男のことをモヤモヤと考えてしまって、今日は一日中、授業に身が入らないのでした。
放課後、この日は委員会活動日ではありませんでしたが、エーリもカレンも保健室に行きました。もともとはマージが、エーリ達が再び襲われないように監視する意味で保健室に呼んでいたのです。
エーリとカレンが保健室にはいると、それに気づいたマージが言いました。
「二人ともちょうどいいところに! お茶を入れてもらえるかしら」
彼女たちが返事をしてキッチンに向かおうとすると、
「もう失礼しますから、お茶はいいですよ」
と今までマージと話をしていたと思われるおばあさんが言いました。
「それでは、猫の件、よろしくお願いしますね」
そのおばあさんはそう言って立ち上がると、アトリエから出て行きました。マージはおばあさんを見送ってから、エーリとカレンに言いました。
「猫探しの依頼よ。腕輪の問題がなくなったわけではないけど、ローブ男の件はとりあえず解決したし、気持ちを切り替えるつもりで、あなた達、挑戦してみない?」
二人は顔をパッと輝かせました。久しぶりの魔女見習いらしい体験です。
先程のおばあさんは飼い猫がもう何日も家に戻らないので、魔女に猫を探す事を依頼したのでした。マージが猫探しの方法を教えます。まずは必要な道具を用意します。依頼人のおばあさんから借りた、猫が身につけたことのある首輪、この街の地図、細かな塩の入った振り子、見習い魔女の帽子と杖。エーリとカレンはマージの指示のもと、地図をテーブルに広げて、その上に振り子を吊るすための台を置きました。それから振り子の糸がYの形になるように台に結びます。塩の入った振り子の底には穴が空いていて、今は蓋がしてありますが、この蓋を取って振り子を揺らすと、上下方向と左右方向の振動周期の差で曲線による様々な図形が、振り子からこぼれた塩で描かれます。エーリとカレンには振り子の仕組みや理論なんてわかりませんが、とにかくこの振り子を揺らせば、魔方陣の役割をする素敵な模様が描かれるのです。
準備が終わるとエーリとカレンは見習い魔女用の帽子をかぶり、杖を持ちました。この帽子をかぶっている間だけ、簡単な魔法を使う事が許されます。もちろん、免許を持った大人の魔法使いの監督のもとでしか帽子をかぶることは許されません。
「二人一緒にやってみましょう。左手に首輪、右手に杖を持ってください」
エーリとカレンはマージの指示に従います。緊張と魔法が使える嬉しさで、二人ともドキドキしていました。マージは続けます。
「首輪から、これをつけていた猫の気配を感じ取ってください。これは感覚なので説明が難しいけれど、上手くいけば探す対象の像が頭に浮かぶこともあります。
感じ取れたら、その感覚を保ったまま杖で振り子を揺らします」
「杖で揺らす、というのは、杖で振り子を突っつくてことですか?それとも風でも起こすんですか?」
カレンが質問しました。
「言い方が悪かったわね。杖で振り子を突っつく以外の方法ならだいたいなんでもいいわ。つまり、振り子を揺らすために何か魔法を使えばそれでいいの。突っついた場合は使ったのは杖を持った手でしょ?」
「わかりました」
なんでもいいとはいえ、二人が使い方を知っている魔法は限られています。エーリとカレンは風を起こすことにしました。一人ではそよ風程度ですが、二人で息をあわせると振り子を揺らせるくらいの風をおこすことができるはずです。
まずカレンが風おこしに挑戦します。丁寧に手順通りに呪文を唱えて杖を振ると、部屋の中に小さな風がおこって振り子を少し揺らしました。カレンの成功を見たエーリも、よし、やるぞ! と気合を入れて杖を構えました。しかし、その途端に突風が吹きました。振り子の台は倒れ、地図も台に抑えられていなければ飛んでいってしまいそうでした。マージがエーリの手を取って慌てて杖を下ろさせると、風も止みました。
「びっくりした! まだ呪文も唱えてなかったのよ?」
エーリはドキドキして杖を握りしめます。これにはマージも驚いていました。こんなことは初めてですし、そもそも、魔法は暴発などの事故が無いように、基本的には条件を整えなければ発動できないもののはずでした。特に幼少期は厳しく封印されています。
「ひょっとして、腕輪のせいかしら。なんらかの魔法道具でしょうから、暴発のきっかけになってしまったのかもしれないわ」
マージは言いました。
「もう一度、落ち着いてやってみましょう。それでも暴発するようなら、残念だけど今魔法を使うのはやめておきましょうね」
エーリは深呼吸をして、なるべく心をおちつけて、丁寧に杖を構えました。今度は大丈夫です。手順通りに魔法を使うと、カレンと同じように風をおこすことができました。
気を取り直して、飛ばされた道具をもう一度セットしました。エーリとカレンは二人で力を合わせて魔法で風をおこし、振り子を揺らしました。底の蓋を取った振り子からさらさらと塩が流れ出て、地図の上に模様が描かれていきます。振り子は上下左右に規則正しく動いています。魔法を介さなければこれで終わりなのですが、しばらくすると振り子は触っていないのに動きを変え始めました。そして、最終的には地図上のある一点で塩が山になりました。マージは塩が作った山を丸で囲んでから、地図から塩を払います。
「成功していればこのあたりにいるはずよ。猫は移動してしまうから、急いで探しに行きましょう」
「案外アバウトな情報しか得られないのね」
エーリはもう少し精密に探し物が出来ると思っていたので、少しがっかりました。マージは笑います。
「失せ物探しの魔法は他にもあるし、もっと絞り込むことも もちろんできるわよ。でも、見習い魔女っ子さんでは振り子の方法が精一杯ね」
三人は振り子が指した場所へ向かいました。探すべき猫は白猫で、赤い首輪が目印です。振り子が指した場所はアトリエから遠くはありませんでしたが、隠れているかもしれないし、移動しているかもしれないしで、なかなか見つかりません。日も落ちてきてもう今日は諦めようかという頃、ようやく路地で丸まっていた白猫を見つけて保健室に連れて帰ることができました。
「よくできました。ちょっと時間はかかりましたが、ちゃんと猫を見つけることができましたね。依頼人の方とは明日の昼にお約束してますから、それまで猫は大切にお預かりしましょう」
マージはどこからか籠を持ってきて、その中に猫をいれました。エーリとカレンは探し物の成功が嬉しくて、猫を見つけた時からずっとご機嫌でした。
「また探しものの依頼があったら、私やりたいわ!」
「私も!」
エーリとカレンは興奮気味に言います。いつもよりも帰る時間が遅くなったので、マージとエーリはカレンを家まで送ってから猫を連れて家路につきました。
次の日の昼休み、少しでも早く保健室に行こうと、エーリとカレンは給食を急いで食べました。自分たちが見つけた猫を受け取って、喜んでくれるだろう場面を見届けたかったのです。保健室にはいると、猫探しの依頼人のおばあさんはまだ来ていなかったので、二人はキッチンでお茶を沸かして待っていることにしました。猫は暖炉の近くで温もりながら、ミルクを舐めています。しばらくするとおばあさんがやってきました。
「どうぞ、お座りになってください。お茶はいかがですか?」
マージがおばあさんを招きいれました。おばあさんは暖炉のそばの猫を見て、にっこりしました。
「ありがとう、見つけてくれたのね」
「うちの魔女っ子たちにも手伝ってもらいました」
エーリはおばあさんのリクエストでレモングラスティーを入れると、テーブルに持っていきました。ティーカップをテーブルに置く時に、エーリの袖の下からちらりと覗いた腕輪を見つけて、おばあさんが言いました。
「あら、それは“愛の腕輪”かしら。懐かしいねぇ。娘自分に流行ったのよね」
「この腕輪のことを知っているのですか?」
マージが驚いて聞き返します。エーリとカレンも顔を見合わせました。
「よく見せてちょうだい。ーーああ、やっぱりそうね。昔、“愛の腕輪”という魔法道具が流行したの。魔法道具のお店で買えるので、はじめは魔法学校の生徒を中心に流行していたのだけど、そのうち噂は広がって私たちのような魔法を使えない人たちの間でも魔法使いの友達なんかを通して流行り出して……。色々と問題になったので、政府が製造と使用を禁止して全部回収したのよ。まだ残っているものもあったのねぇ」
「腕輪に込められた魔法の効果は、なんだったのですか?」
「魔法のことだから難しい事はわからないけれど、簡単に言うと縁結びというか、惚れ薬というか……。腕輪を贈られた人は贈った人に恋をするの。お互いに贈りあって、永遠の愛、つまり結婚の約束に使う人も多かったわ。若い子が喜びそうでしょ」
「過去に社会現象になってた割には、初耳だわ」
「あなたが生まれる随分前ですからね」
おばあさんはお茶をすすりました。
「他に何か知っていらっしゃることはないでしょうか。この子の腕から取れず、困っているのです」
「ごめんなさいね。私はその腕輪を使った事がないし、魔法のことはからっきしでねぇ」
「そうですか……」
腕輪の謎が少し解けましたが、おばあさんが知っているのはここまでのようでした。おばあさんは「この後予定があるので」と、席を立ちました。マージが見送ります。
「腕輪の情報をお代に替えさせていただきますわ。また、アトリエをご利用くださいね」
おばあさんが出て行こうとしたところで、カレンが猫を抱いて慌てて追いかけました。
「おばあさん! 猫ちゃんをお忘れよ!」
「あらあら! 私ったらボケちゃって! ありがとう、魔女っ子さん」
おばあさんは猫を受け取ると帰って行きました。
自分たちの関わった猫探しの依頼も片付いて、得体の知れなかった腕輪の正体が少し分かって、エーリもカレンも軽やかな気分でした。マージは少し難しい顔をしています。昼休みも終わったので、エーリとカレンは授業に戻りました。
授業中でしたが、エーリは腕輪が愛のための魔法道具と知って、本来の持ち主のことがとても気になりはじめました。腕輪をはめていても何も変化が無いように思っていましたが、もし持ち主が目の前に現れればその人に恋心を抱いてしまうのでしょうか。いえ、そもそも女性が男性に贈ろうとしたものの可能性もあるし、まだ未使用であった可能性もあります。何より、おばあさんが若い頃の話ならば持ち主はお歳を召しているでしょう。しかし、腕輪が隠されていた本は、愛の腕輪の説明書にしてはロマンチックさが足りないような気もしました。
マージはキッチンでティーカップを片付けながら考えを巡らせていました。謎の腕輪、腕輪を狙う男の出現と迅速な逮捕、魔法の暴発、腕輪の正体を知るおばあさん。この数日で怒涛のようにエーリの腕輪にまつわる事柄が起こりました。マージは、黒いローブの男が現れた日、帰宅してからエーリと腕輪のことが話せないか試してみましたが、小手先の方法では無理でした。せめて“腕輪のことを話せない魔法”を解くことができれば、もっとエーリの助けになれるのに、と思っていました。マージは保健室の先生におさまってはいますが、元々、力のない魔法使いではありません。むしろ優秀な部類に入ります。しかし魔法の種類は膨大です。方法まで合わせればそれこそ無限と思われるほどあります。マージは娘の為にも もう一度勉強し直さなければと、魔法学校を訪ねることを決めました。
魔法学校はこの国に一つしかありません。全国の魔法使いの資質のある子供たちがこの学校に集まります。この国の魔法に関するすべての事柄はここに集まっています。逆にいえば、魔法をここより他に学ぶことができない仕組みになっていました。この国を治めている人たちは魔法を使えませんから、こういう言い方は好まれませんが、魔法使いを非常に怖れています。魔法使いの行動を掌握していたいのです。便利に使いたいけれど、自分たちの目の届かないところで、自分達に出来ないことをされるのは怖いのです。魔法使いが帽子や杖を介さないと魔法が使えないのも、そのように管理されているからです。それでも、大昔に魔法使いが迫害され、見つかれば殺されていた時代に比べれば随分ましでした。
ある日マージは、保健室を空けて魔法学校の図書館を訪れました。魔法学校の一画に一際存在感を示している巨大な塔が図書館です。図書館には在校生だけでなく、卒業生も多く訪れます。マージは膨大な蔵書に途方にくれつつも、まずは魔法道具に関する書籍を探し始めました。数十年前に流行しつつも禁止、回収がなされた腕輪のことがどこかに書かれていないかと考えたのです。しばらく何冊もの本をパラパラとめくっていると、マージは肩を叩かれ、振り向きました。
「お探しの本がみつかりませんか?」
魔法学校の図書館司書であるブロンズ先生でした。髪は白く、もうお爺さんの年齢ですが、背筋はしゃんと伸びて綺麗な身なりをした紳士です。三角帽子を被らない時は、いつもシルクハットをかぶっています。
「あら、ブロンズ先生お久しぶりです。いえ、先生は私のことを覚えていらっしゃるかどうか。そうですね、なかなか見つからないのですが……でも自分で探しますわ」
「覚えているとも、マージ女史。君が探している本はおそらくこの本棚にはないよ。読みたければついてきなさい」
「なぜ私が探しているものがわかるのです?」
「長年司書やってるとね、手にとった本の傾向でわかるものなんだよ」
ブロンズはマージがついてくるかどうかはおかまいなしに、スタスタと歩き始めました。マージは躊躇いつつもブロンズを追いました。警戒する気待ちもありましたが、この学校で一番優秀な司書であることも知っていました。
ブロンズは、本貸出カウンターの奥にある司書室にマージを招き入れました。他の司書たちは全員出払っていて、部屋にはだれもいませんでした。そして彼は、作業机の横にある背の低い書棚から一冊の本を取り出してマージに渡します。内容の分類に統一感のない書棚だったので、返却された本を仮置きしている棚のようでした。マージはお礼を言って本を受け取ると、ページをめくりました。本には過去に使用が制限、禁止された魔法道具が多く載っていました。似たような本はマージもさっき読みましたが、ブロンズに渡された本には“愛の腕輪”のことが載っていました。内容は猫探しのおばあさんの話とほとんど一緒で、もう少し専門的な事が書いてありましたが、外す手掛かりや“話すことができない魔法”の解除方法の情報は得られませんでした。マージがブロンズに尋ねました。
「本棚になく司書室に移動していたということは、この本は、最近私より以前にも読んだ人が?」
「わしが読んだからここにある。
この国の魔法に関する事柄は、すべてこの魔法学校に集まる。先日逮捕された男は、どうやら腕輪狙って魔法を凶器に使ったらしいという話は、わしのところにも届いている。
実をいうとわしはずっと腕輪を探していたのだ。回収騒動の時にどうしても手放したくなかったわしは腕輪をある場所に隠しておいたのだ。が、騒動が落ち着いた頃取りに行くとどこかに失われ、その後見つかることはなかった」
「ひょっとして、私がここにくることを予測していました?」
ブロンズはマージを真っ直ぐに見据えました。
「もし叶うのならば、マージ君の知る腕輪がわしの腕輪かどうか確かめることはできないだろうか」
「大変失礼なことを申しますが、正直、黒ローブの男の件があって警戒しています。ブロンズ先生は信頼できる方と思いたいですが……」
「何か信頼の証を示せればいいのだが、残念ながらなにもなくてな」
ブロンズは顎を撫でながら思案します。マージは娘を危険に巻き込むことはしたくないので、厳しい目でブロンズを見つめていました。
「では、古典的だが、“約束の法”を使うのはどうだろうか」
約束の法とは、お互いに約束事を決めて破れば罰のある魔法です。約束も罰の内容も、双方が同意すれば決定します。とても拘束力のある魔法なので、片方が約束と罰に関して少しでも異議があれば成立しませんし、約束の範囲や期間など決めることもいっぱいあります。円滑に進まなければ一日がかりです。同意が必要とは言っても罰があるので、一歩間違えば危険が伴うこともあります。乱暴に一言で言えば、とても面倒くさい魔法なのです。なので、あまり日常的に使われる魔法ではありません。
「いえ、そこまでしていただかなくても結構ですわ。お気持ちは伝わりましたし、企みがお有りならまどろっこしく私を図書館でお待ちにならず、アトリエにいらっしゃれば済むことです」
「感謝します、マージ女史」
「いいえ、私としても、腕輪の情報が少なくて困っていたところです。ブロンズ先生がよくご存知なら助かります」
マージとブロンズは後日マージのアトリエで会うことを約束しました。もちろん、魔法を使わない普通の約束です。
約束の日、エーリとカレンも放課後に保健室に呼ばれていました。
「私、このまま保健室に行ったものか、ちょっと迷ってるの」
エーリは隣にいるカレンに言いました。いつもと違ってとてもゆっくり保健室に向かっています。エーリは続けました。
「だって、腕輪を贈った人に恋をしてしまうんでしょ?私は贈られたほうになるんだし、これから会う人に恋するとか、想像できなくて」
カレンはそのことに今気がついて、ハッとした顔をしました。
「そうよね! 確かにそうだわ。ごめん、私、そこまで思い至らなかった。一緒に腕輪を見つけた以上、エーリだけの問題ではないのに!」
カレンはその可能性について考えてみました。
「でも、今日来る持ち主だって人が、エーリに贈ろうとしたものではないわけでしょ? だったら無効な気もするけど……。
それとも、鳥のヒナが産まれてはじめてみた見た者を親だと思う、刷り込みみたいな魔法なのかしら」
「刷り込みの方だったら困るわ。私、まだ普通の恋だってしたことないのに。片想いですら! カレンもそうでしょ?」
「え、ええ……まあ、そうね」
カレンが少し口ごもり、頰を赤くします。お年頃の女子はそれを見逃しませんでした。
「カレン、あなたには想っている人がいるのね!」
エーリはさっきの不安げな表情とは打って変わってニヤニヤとした笑顔になりました。
「六年生のお姉さまはさすがね! それで、どなた?」
カレンは真っ赤な頰を両手のひらで隠しながら困ったような照れたような表情をしています。
「もう! 私のことはどうでもいいのよ! 差し迫った問題はそこじゃないわ! ほら、保健室、着いちゃったわよ」
いつの間にか、二人は保健室の扉の前に立っていました。思いがけないカレンの恋の話で緊張が解れたエーリは、意を決して扉を開けます。
二人が保健室に入ると、魔法学校図書館司書のブロンズはすでに到着していました。お茶を飲みながらマージと話をしています。扉が開いた音に誘われてブロンズが入り口の方を見たので、エーリは彼と目が合いました。心臓の鼓動がとても早く、大きく感じられました。これが恋のドキドキなのかどうかは、わかりませんでした。ブロンズは立ち上がって、礼儀正しくお辞儀をしました。
「こんにちは。邪魔しています」
エーリとカレンはぺこりとお辞儀をしました。マージが二人を近くに呼び寄せて紹介します。
「先程お話しました、保健委員のエーリとカレンです」
「魔法学校図書館司書のブロンズです。では、早速腕輪を見せてもらえないだろうか」
エーリがマージの顔をうかがうと、マージは同意するように頷いてブロンズの正面の席をエーリに勧めました。エーリはドキドキしながら座って左腕を差し出します。ブロンズは鑑定士のようにいろんな角度から、腕輪を眺めました。
「この腕輪は確かに“愛の腕輪”だ。しかし、残念ながらわしが探していたものではない」
エーリは残念なようなホッとしたような気持ちになりました。少なくとも、ドキドキは恋によるものではなかったようです。
「昔使用したことがあるので、外せるか試してみよう。とはいえ、私のものではないしうろ覚えなんで、期待はできないがね」
ブロンズはしばらく色々な方法を試しましたが、黒いローブの男も、マージもそうであったようにブロンズにも腕輪を外すことは出来ませんでした。
「わしのものなら外せたのかもしれないが、申し訳ない。
しかし、“腕輪のことが喋れない魔法”にかかってるんだったね、これならなんとかなるかもしれない。以前に似たような魔法を解いた事がある」
ブロンズはそう言って、エーリとカレンに対して魔法を解く術を施し始めました。マージは一体どのような方法でやるのかと、ブロンズを興味深く観察しています。どうやら、魔法学校を卒業した程度ではまだ扱えないような、とても高度なもののようでした。
「さあ、腕輪に関して喋ってごらん。この腕輪はどこで見つけたのかな。」
「小学校の図書館です」
エーリが言いました。喋ることができました! エーリとカレンは喜びに顔を輝かせて、お互いを見ました。次はカレンが言います。
「本棚の奥に隠されるように置いてあった本に入っていたのよ」
マージは心底ほっとした表情を見せました。
「ありがとうございます。ブロンズ先生。どうお礼したらいいか……」
ブロンズは満足げに笑顔で頷きました。
「いや、お礼などと。お礼なんかよりも、これからも腕輪を外す協力をさせて貰えないだろうか。外せなかったのがどうしても悔しくてね。ぜひやらせてほしい。その日まで腕輪はこのままエーリ君が持っておいてくれ」
それから、何か手がかりになればと、エーリとカレンは今まで話すことができなかった腕輪のことをマージとブロンズにすべて話しました。今まで言いたくても言えないモヤモヤに支配されていたので、二人とも我先にとしゃべります。そして、ここにいる皆がだいたい言いたい事は言い、聞きたいことは聞き終わったところで、ブロンズは帰って行きました。
「解決したわけではないけれど、頼りになる方が協力してくれることになって、良かったわね」
マージは久しぶりに晴れやかな心持ちでした。
「私はご老人に恋をしなくて済んでホッとしたのが一番だわ!」
エーリも肩の荷が少し降りた気分です。
「次はカレンの恋の話を聞かなくちゃ」
また頰を赤くしたカレンをエーリはニコニコと見ます。
「それは忘れていいのよ! “話せない魔法”をエーリにかけてやりたいわね!」
カレンの冗談に、三人は声を上げて笑いました。
ブロンズはアトリエを出てしばらく歩くと懐から三角帽子を取り出して、シルクハットのかわりにかぶりました。足早に路地に入り、さっと辺りを見渡して誰も見ていない事を確認すると、杖でコンコンと建物の壁を叩きます。ひと一人が通れる程度の入り口が現れ、彼が中に入ると同時に入り口も消えました。
入り口も窓もないこの部屋は、天井にはシャンデリアが輝き、赤い絨毯に贅沢な調度品の並ぶ、豪勢なものでした。開け放たれたクローゼットには、魔法使いの帽子や黒いローブがかかっています。革のソファでくつろいで本を読んでいた金髪の若い男が、 ブロンズが帰ってきたことに気づいて顔を上げました。
「腕輪を手に入れることはできたのか?」
ブロンズは静かにするようにと、人差し指を立てた仕草で示すと、小さめの声で言った。
「いや、無理だった。あれを外すには正規の手順でなければ無理だ」
「俺には偉そうに言っといてその様かよ。で、正規の手順というのは?」
「それがわかってれば、今頃この手の中にあるさ」
「なんだそれ。やっぱり腕ごと持って来た方が早いじゃねえか」
ブロンズは激昂しそうな金髪男を、肩をポンポンと叩いてなだめた。
「まあ焦るな。今は腕輪を“ちょっと悪質なまじない道具”程度に思ってくれているが、あまり接触するとマージ女史が怪しむ。しばらくつつくのはやめよう。なに、在りかは分かっているんだ。しばらくあそこから動くことはない。それに、少しばかりの情報も得ることができた」
「そもそも、あなたは捕まってることになってるんだから、あなたが腕輪を取りに行くのは無理よ。私たちは無知なあなたの、考えなしな行動の尻拭いをしたんですからね。反省してほしいわ」
真っ赤な口紅が印象的な若い女が、赤い首輪の白猫を撫でながら、会話に割って入って金髪男に言います。金髪男は言い返せずに、悔しそうに拳を握りしめました。
「それにしても、この本よく出来てるわねぇ、ブロンズ」
若い女は先程まで金髪男が読んでいた本を取り上げて言います。
「もっともらしい説明を上手いこと入れ込んで。これなら誰だって騙されるわ。“愛の腕輪”ですって?本当は全然違うものなのにね。あれは私たちを自由にするものよ」
女はクスクスと笑います。それを聞いてブロンズが顔をしかめます。
「あまり大きな声で言うな。この空間は完全に秘密が守られるものではないのだから」
「神経質ね。とりあえずお疲れでしょうからお茶でも飲む?」
女はお茶を入れにキッチンに立ち、ブロンズはため息をつきながら椅子に腰掛けます。金髪男はソファーに寝転がってむっすりしていました。
「小娘の手に渡る前に見つけていれば、俺が自由を手に入れていたはずなんだ。こんなダサい帽子や杖なんか使わずとも、本来生まれながらに魔法を使えるはずなのに!」
金髪男がぶつくさと独り言を言っているのをブロンズがたしなめました。
「小娘だなんだと、お前だって青二才だ。腕輪の行方はなんの手がかりもなかった中、手にしたのが見習いだったのはまだマシな展開かもしれんぞ」
女が四人分のお茶と猫のミルクを持って、こそこそと話をしている二人のもとに戻ってきました。
****
ブロンズと入れ替わりでお客様が入って来ました。羽根つきの帽子をかぶり毛皮のコートを羽織ったマダムです。エーリたちはさっと気持ちをきりかえました。
ここは、この街唯一の小学校の保健室です。部屋の半分はハーブ薫る緑豊かな温室、 ガラス戸に仕切られたもう半分は、清潔でおしゃれなカフェのような保健室です。素敵な暖炉には赤々と炎が燃えて部屋をポカポカに温めています。そんな保健室を訪れるのは怪我をした子供だけではありません。保健室でもあり、魔女のアトリエでもあるこの部屋には、困り事がある人が相談に来るのです。三角帽子をかぶった魔女、マージはにこやかにお客様を迎えて椅子を勧めます。お客様が椅子に座ると、保健委員のエーリとカレンが、ハーブティーのメニューを持ってきます。
「こんにちは。ハーブティーはいかがですか?」
「こんにちは。では、ローズティーをお願いしようかしら」
エーリとカレンはお茶を入れたり、クッキーを用意したり、マージに言われた道具を取りに行ったりと、忙しく働きます。
毛皮のマダムが相談を終えてアトリエを出ると、マージは見習い魔女用の帽子をエーリとカレンに渡しました。
「今回のご依頼はあなた達にも少し手伝ってもらおうかしら」
そう、保健委員は魔女っ子なのです。
end
2019/03/21 誤字修正しました。